第十一章 明石からの電話
五月の連休が明け、しばらく過ぎた。
明石の空が、急に夏の手前の青になった。海の色が変わって、光が強くなって、朝の通勤でも汗ばむ日が出てきた。季節の変わり目は、毎年少し唐突にくる。昨日まで春だったのに、今朝は夏の匂いがする。そういう朝が、明石にはある。
本取材の日程が、来週に迫っていた。
カメラマンは雑誌社が手配した三十代の男性で、瀬戸内の海を何度も撮ってきた人らしかった。事前にやりとりをすると、下灘の写真は撮ったことがあるが、朝の時間帯には来たことがないと言っていた。小春は颯太のことを伝えて、朝の取材を提案した。カメラマンは面白いと言って、すぐに同意した。
美緒も来る。
三人で二泊三日の日程だった。
小春は取材の準備を進めながら、自分が少し楽しみにしていることに気がついた。仕事として楽しみなのではなく、もう一度あの場所へ行けることを、体が楽しみにしている。そういう感覚だった。
木曜日の夕方、スマートフォンが鳴った。
田中からだった。
電話は珍しかった。これまでのやりとりはメールかメッセージアプリで、電話はなかった。
「渡部さん、今お時間いいですか」
「大丈夫です」
「展示の件で少し確認したいことがあって」
仕事の話だった。天文科学館で夏に開催予定の企画展について、小春の会社に協力を打診したいという話だった。広報物の制作と、企画展に合わせた特集記事の可能性について、正式な相談の前に感触を聞きたいということだった。
「宮田さんに確認して、折り返しますね」
「急ぎではないので、来週でも」
「分かりました」
そこで電話が終わるかと思ったが、田中は少し間を置いてから続けた。
「取材の方は、進んでいますか」
「来週、本取材で双海に行く予定です」
「そうですか。準備は整いましたか」
「整ったかどうか、分からないですけど。行けば何かが変わる気がしていて」
「行くことで変わるものが、あるんですね」
「たぶん。現場に行かないと見えないことが、取材にはあって」
「そうだと思います。私もプラネタリウムの投影を作るとき、机の上だけでは分からないことがあって、何度も投影室に入ります。同じ星を同じ場所で見ても、日によって気づくことが違う」
「それは面白い」
「見る側の状態が違うんだと思います。自分が何を見ようとしているかで、見えるものが変わる」
小春はそれをメモした。見る側の状態が違えば、見えるものが変わる。
「少し聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「田中さんは、明石に来る前はどこにいたんですか?」
意図のある質問ではなかった。ただ、これまで聞いたことがなかったと思って、聞いた。
「大阪です。大学と、最初の就職も大阪で。明石に来たのは、ここに採用されたからです」
「明石を選んだというより、この天文科学館を選んだ?」
「そうです。でも来てから、明石という街が好きになりました」
「どんなところが?」
「時間の感覚が、少し違うんです。大阪は早い。何もかもが早く動いている感覚があって。明石は、同じ速さで動いているはずなのに、少しだけ余白がある気がして」
「それは標準時があるから?」
「それは関係ないかもしれません」
田中は少し笑った。
「でも関係ある気もします。時間の基準がここにあると知ってから、この街の時間の流れ方を、少し違う目で見るようになったのは確かで」
「思い込みでも、見え方が変わる?」
「思い込みと、感じ方は、時々つながっています」
小春はその言葉を書いた。
「田中さんに聞いてもいいですか。今度は少し個人的な確認として。故郷ってどこですか?」
「奈良です」
「奈良に帰ることはありますか」
「年に数回、実家に帰ります」
「帰るのに、迷いはありますか」
田中はすぐには答えなかった。
「迷いというより、少し、構えます」
「構える?」
「奈良にいた頃の自分と、今の自分が、少し違うので。帰るたびに、その違いを確かめるような時間があって。それが億劫というわけではないですが、構えると言えば構えます」
「自分の変化を確かめるために帰る、ということですか」
「そうかもしれないです。あるいは、変わっていないものを確かめるために、かもしれない」
「変わっていないもの」
「帰ると、変わっていないものが必ずあって。それを見ると、少し安心する」
「何が変わっていないんですか、田中さんにとって」
「父の手です。父が大工で、手が大きくて、いつも少し荒れている。帰るたびに、その手を見て、変わっていないと思う」
小春は何も言わなかった。
「変わっていないものがあることが、なぜ安心するのか、うまく説明できないんですが、自分が変わっていても、変わっていないものがある。それが、何かの基準になっている気がして」
変わっていないものが基準になる。
父の手。田中の父の、荒れた大きな手。
小春は自分の父を思った。包丁を持つ手。三十年以上、同じようにだし巻きを巻いてきた手。その手が、今も毎朝同じように動いている。
「渡部さんの、変わっていないものは何ですか」
田中に聞かれて、小春はしばらく考えた。
「父の店の出汁の匂い。帰るたびに、同じ匂いがして。それだけは変わっていなくて」
「それがあると、安心しますか」
「安心します。安心していいのか少し迷いながら、でも安心します」
田中は繰り返した。
「迷いながら安心する。それは、誠実な感覚だと思います」
誠実な感覚、という言い方が、少し意外だった。
「誠実というのは?」
「簡単に安心するのではなく、迷いを持ったまま安心できる。それは、自分の気持ちを誤魔化していないということだと思って」
小春は電話を持ったまま、窓の外を見た。
夕方の明石の空が、西から橙に変わってきていた。
「時間って、進むだけじゃないですよね」
小春は取材の質問としてではなく、ただ確かめるように言った。
「と言いますと」
「戻るためにある時間もある気がして」
田中は少し間を置いた。
「進むだけじゃなくて、戻って確かめるためにも時間はあると思います」
「時間を遡れるわけではないですが、今の自分が過去を確かめに行くことはできる。それは時間が可能にしていることで」
「帰省がそれですね」
「帰省も、そうだと思います。あるいは、記憶を呼び出すことも。記憶を確かめるために、今の自分が過去を訪ねる。そこに時間の面白さの一つがあると思っています」
小春はノートに書いた。進むだけじゃなく、戻って確かめるためにも時間はある。
「ありがとうございます」
「記事の参考になりましたか」
「なりました。それだけじゃなく」
「それだけじゃなく?」
「自分のことを考えるためにも」
「そうですか。それはよかった」
「また取材でお邪魔します。企画展の件も、上司に確認して連絡します」
「よろしくお願いします。取材、うまくいくといいですね」
「ありがとうございます」
電話を切った後、小春はしばらくソファに座っていた。
ノートを開いた。今日書き留めたことを読み返した。
見る側の状態が違えば、見えるものが変わる。思い込みと感じ方は時々つながっている。変わっていないものが基準になる。進むだけじゃなく、戻って確かめるためにも時間はある。
これだけのことが、一本の電話の中にあった。
仕事の電話だったはずだが、仕事だけではなかった。田中との会話はいつも、そういうことになる。仕事の言葉が、個人的な言葉になる。あるいは個人的な言葉が、仕事に戻ってくる。その往復が、この人との会話の特徴だった。
小春はノートを閉じた。
来週、下灘へ行く。
今度は仕事として、でも仕事だけではない気持ちで行く。美緒と、カメラマンと一緒に。颯太に会って、蒼に会って、もう一度あの場所を見る。
朝の下灘を、もう一度見たかった。颯太が乗る列車の時間に、あのホームにいたかった。
それから、実家にも寄ろうと思った。
二泊三日の日程に、実家への一泊を足すことはできる。両親に会って、店が動いている時間をもう一度見ておきたかった。
店を閉めるまで、あとどのくらいの朝があるか。
その一つ一つが、今の小春には大事に思えた。
小春はスマートフォンを取り出して、母にメッセージを送った。
「来週、取材で下灘に行きます。一泊、実家に泊まっていいですか」
すぐに返信が来た。
「もちろん。お父さんも喜ぶ」
お父さんも喜ぶ、というのは、母の代弁だ。父は自分でそれを言わないから、母が言う。それがこの家の形で、小春はそれをもう、苦しいとは思わなかった。
「ありがとう。また連絡します」
送ってから、もう一通送った。
「あと、帰ったら企画の話をしてもいいですか。書いてる記事のこと」
少し間があってから返信が来た。
「聞かせて。楽しみにしとる」
楽しみにしとる、という母の言葉を読んで、小春は少しだけ、記事を書き上げようという気持ちが具体的になった。
誰かに楽しみにしてもらっていることが、書く理由になる。
書くことは、誰かへ届けることだ。読者だけでなく、母でも、蒼でも、颯太でも。届ける相手が顔を持っているとき、書くことが変わる。
小春はパソコンを開いた。
企画書の草稿があった。タイトルはまだ仮のままだった。
その仮タイトルの欄に、小春は一行打ち込んだ。
「夕日の町と、標準時の街」
打ち込んでから、しばらく画面を見た。
これが正しいタイトルかどうかは、まだ分からない。でも今の自分が考えている、この企画の核心に一番近い言葉だった。
夕日の終わる場所と、時間の始まる場所。
その二つが、海でつながっている。
小春は草稿の続きを書き始めた。まだ断片的で、順番も整っていない。でも書き始めることが大事だった。
窓の外の明石の空が、完全に夜になった。
海の向こうに、今日も下灘がある。明日も、来週も、そこにある。
小春は書き続けた。




