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夕日の町と、標準時の街― 海をはさんだふたつの時間  作者: 明石竜


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第十章 出ていった日のこと

 四月になった。

 明石の桜が咲いて、散り始めた。海沿いの道に花びらが落ちていて、風が来るたびに動く。それを踏みながら通勤する日が、一週間ほど続いた。

 桜の季節が来るたびに、小春は高校を卒業した春を思い出す。

 卒業式が終わって、友人たちと写真を撮って、それから家に帰った。その夜のことを、小春は今でも細部まで覚えている。

 夕食が終わって、父は早めに寝た。母と二人で厨房の片づけをした。食器を洗いながら、母が「向こうで困ったことがあったら電話してきてね」と言った。困ったことがあったら、という条件付きで。困ってなければ電話しなくていい、という意味ではなかったはずだが、そう受け取った。

 自分の部屋に戻って、荷物の最終確認をした。

 段ボール箱は先に送ってあった。手元に残ったのは、二泊分の荷物くらいの量だった。この部屋で十八年過ごしてきたのに、持っていくものはそれだけだと思った。でも不思議と、それで足りる気がした。

 あの夜、小春が思っていたことを、今の自分は正確には再現できない。

 ただ、窓から見えた夜の山の稜線だけは覚えている。暗い山に、星がいくつか見えた。あの山の向こうへ出ていく。その感覚が、恐ろしくはなかった。ただ、大きかった。


 取材の合間に、小春は自分の過去を整理しようとしていた。

 整理する、というのは思い出すことではなく、なぜ出ていったのかを、今の目で確かめることだった。

 高校時代の小春が、この町を出たかった理由は何だったのか。

 単純に言えば、この町には未来がない、と思っていた。

 でも今の自分がそれを振り返ると、その言葉は正確ではなかったと分かる。未来がないのではなく、自分がここでどんな未来を持てるかを、想像できなかった。想像できないことを、未来がない、と言い換えていた。

 もう少し正直に言うと。

 この町の狭さが、苦しかった。

 狭さ、というのは、物理的な広さの話ではない。人と人の距離が近いことの苦しさだった。誰が誰の娘で、誰が誰と付き合っていて、誰の成績がどうで、誰がどこの大学を受けた。そういうことが、すぐに分かってしまう環境が、高校時代の小春には息苦しかった。

 見透かされる近さ、とでも言うような感覚だった。

 どこへ行っても誰かに見られている気がして、自分が何者かを決める前に、誰かに決められてしまいそうな気がして。だから出たかった。誰も自分を知らない場所へ行って、自分で自分を作り直したかった。

 その感覚は、正しかったと今でも思う。

 出ていったことを後悔していない。あの選択は、あの時の自分に必要だった。

 でも。

 出ていくことと、もう戻らない、と決めることは、別のことだった。そこを、あの頃の自分はごっちゃにしていた。


 水曜日の午後、美緒が小春のデスクに来た。

「少し話せますか」

「どうぞ」

 美緒は椅子を引いて座った。珍しく、少し改まった顔をしていた。

「下灘の取材、進んでますよね」

「うん。来月、カメラマンと一緒に本取材に入る予定で」

「そのことなんですけど」

 美緒は少し間を置いた。

「私も一緒に行っていいですか」

 小春は少し驚いた。美緒が現場取材に来たがることは、あまりなかった。

「来たいの?」

「来たいというか」

 美緒は言葉を選んだ。

「この企画を小春さんと一緒に作りたくて。現場を見ないまま編集に入りたくないなと思って」

「いいと思う。来てほしい」

「ありがとうございます」

 美緒はほっとした顔をした。

「実は、あの夜小春さんと話してから、ずっと考えてたんです。観光として見せることと、生活として見せること、の話」

「うん」

「私、これまでわりと、伝わる形を先に考えてたと思って。入口を作ってから、中身を当てはめる、みたいな。でも今回の企画は、中身から考えないといけない気がして」

「どう違うと思った?」

「入口から考えると、コンテンツになるんです。中身から考えると、話になる。コンテンツと話は、見た目が似てても、違うものだと思って」

 小春はそれを聞いて、美緒のことを少し見直した。見直す、という言い方は失礼かもしれない。でも正直な感想だった。

「そう思う。コンテンツと話は、違う」

「だから現場を見たい。自分の目で見ないと、コンテンツになってしまいそうで」

「一緒に行こう」


 その週の金曜日の夜、小春はアパートで一人、高校時代の写真を見ていた。

 スマートフォンに移してある古い写真ではなく、本物のプリント写真だ。実家から帰るときに、母が押しつけてきた。「整理してくれんと困る」と言いながら、本当は小春に持っていってほしかったのだと思う。

 アルバムではなく、封筒に入った写真たちだった。

 修学旅行。体育祭。文化祭。卒業式。それから、日常のスナップ写真が何枚か。

 一枚、気になる写真があった。

 下灘の駅で撮った写真だった。

 制服を着た小春が、ホームに立っている。海を背にして、カメラを向けられて少し照れたような顔をしている。隣に蒼がいる。二人とも十六か十七の頃だろう。

 この写真を撮ったのは誰だろう、と思った。他の友人か、あるいは先生か。覚えていない。

 でも写真の中の小春は、笑っていた。

 このホームで笑っていた。観光地として夕日を見に来たのではなく、ただ友人と来た日の写真だ。部活の帰りか、休日のどこかか。特別な理由はなかったと思う。ただ、ここへ来た日があった。

 この場所を、何もない場所だと思っていたはずなのに、笑っていた。

 小春は写真をテーブルの上に置いた。

 蒼と並んでいる写真の自分を、しばらく見た。

 あの頃の蒼は、もう地元に残ることを決めていたのだろうか。それとも、あの頃はまだ迷っていたのだろうか。聞いたことがなかった。

 今度聞いてみようと思った。


 週末に、蒼から電話が来た。

 珍しかった。蒼はいつもメッセージアプリで連絡してくる。電話してくることは滅多にない。

「どうしたの」と小春は出た。

「話したくて。メッセージじゃなくて、声で」

「どうかした?」

「何かあったわけじゃないんだけど」

 蒼は少し間を置いた。

「小春が帰ってきてから、なんかいろいろ考えることがあって」

「私が帰ってきたことで?」

「うん」

「どんなことを考えてた?」

 蒼は少し考えてから話し始めた。

 小春が帰ってきて、一緒に下灘に行って、話したことが、蒼にとっても何かを揺さぶったらしかった。

「小春に言ったんよね。帰ってこんでもええけど、知らん町みたいに言わんで、って」

「言ってくれた。ずっと残ってる、その言葉」

「あれ、小春に言いながら、自分にも言い聞かせてた気がして。残った私が、自分の選択を知らんふりしないように、って」

「どういうこと?」

「残ることを選んだつもりで、でも本当に選んだのかどうか、時々分からなくなるんよ」

 蒼は正直に言った。

「なんとなく残ったのか、ちゃんと決めて残ったのか。その境目が、曖昧で」

「蒼でも、そういうことがあるんだね」

「あるよ。残った人間が全部すっきりしてると思ったら、大間違い」

 小春は少し笑った。

「思ってなかったけど」

「思ってたでしょ、少しは」

「少しは」

「そうやろ」

 蒼も笑った。

 それから、少しの間、お互いに黙った。電話の沈黙は、対面の沈黙より少し重い。でも悪い重さではなかった。

「ねえ、蒼。高校の頃、下灘に一緒に行ったことがあるよね」

「あるある。何回か」

「写真が出てきて。二人で撮ったやつ」

「どんな写真?」

「ホームで、海を背にして立ってる。制服着て」

「ああ。あの写真、私も持ってるかも。誰が撮ったんやったっけ」

「覚えてない」

「なんかの帰りやったかな。でも何の帰りかは覚えてない」

「そういう日があったんだね、ただそこに行った日が」

「そういう日があった。今は有名な観光地になったけど、あの頃はただそこやった」

「あの頃の私、笑ってた」

「そりゃ笑うやろ。何もないと思ってたとしても、楽しかったんやけん」

「そうだね」

「何もないと思ってたのと、楽しかったのは、矛盾しないんよ。若い頃の感覚って、そういうものやと思う。退屈やのに好きで、好きやのに出たくて、出たいのに寂しい。そういうのが全部一緒にある」

 小春はその言葉を聞きながら、自分の十七歳を思った。

 退屈やのに好きで、好きやのに出たくて、出たいのに寂しい。

 全部一緒にあった。それを一つに整理しようとして、「この町には未来がない」という言葉に押し込めていた。でも本当は、全部一緒にあったのだ。

 「蒼は、あの頃、出ていこうと思ったことはあった?」

 しばらく間があった。

「あった。何回か。ほなけど、行きたい場所が具体的に思いつかんかった。小春みたいに、ここではないどこか、って感じで考えられんかった。私は、どこかに行くより、ここで何かをする方が自分に合ってると思って」

「それで残ることにしたの?」

「それだけじゃないけど、それが一番大きかった」

「後悔したことは?」

「さっき言ったやろ。ある、って。でも出ていけばよかったとは思わない、それも言ったけど」

「うん」

「小春は? 出ていったことを後悔してる?」

 今度は小春が間を置いた。

「してない。でも、もう戻らないと決めてしまったことは、少し違ったかもしれない」

「どう違う?」

「出ていくことと、切り離すことを、同じにしてしまってた」

 蒼は少し黙ってから言った。

「そっか。難しいよな、それ」

「うん」

「でも今は、切り離してないやろ」

「今は、切り離そうとしてないと思う」

「それでええやん。時間かかっても、気づいたら」


 電話を切った後、小春はしばらくソファに座っていた。

 テーブルの上に、下灘の写真が置いてある。制服の自分と蒼が、海を背にして笑っている。

 あの日の小春は、もう戻らないとはまだ思っていなかった。その決意は、もう少し後に来た。大学に合格した日か、引っ越しの準備をしている間か、改札を抜けた瞬間か。正確にはどこで決めたか分からない。

 でも決めた。

 その決意が自分を守っていた部分はある。完全に切り離すと思えたから、出ていけた。中途半端に振り返らずに、前を向けた。それは必要なことだったかもしれない。

 でも同時に、その決意が自分を縛っていた。

 帰れるのに帰らない理由になった。懐かしんではいけない理由になった。故郷の話を自分からしない癖になった。

 今の小春には、あの決意はもう必要ない。

 出ていくことを守るために、切り離す必要はない。明石にいながら、愛媛を持っていられる。両方持っていることが、中途半端ではない。それが今の自分に分かっていることだ。

 小春は写真を手に取った。

 蒼に、この写真を送ろうと思った。写真に撮って、メッセージアプリで送る。一言だけ、「出てきた」と書いて。

 写真を撮って、送った。

 しばらくして、蒼から返信が来た。

 写真が一枚、添付されていた。

 同じ日に蒼が持っていた写真だった。アングルが少し違うが、同じ場所、同じ服装の二人が映っていた。

 そして一言。

 「帰り方が分からんだけやったんやろうね、ずっと」

 小春はその言葉を画面の中に見た。

 帰り方が分からんだけやった。

 母が似たようなことを言っていた。あの夜、店の片づけをしながら、母が「帰らんでもええって思っとった。でも、帰り方が分からんだけやったんやね」とこぼしていた。

 母も蒼も、同じことを言った。

 小春は気がついていなかったが、周りには分かっていた。

 帰れないのではなく、帰り方が分からなかっただけだ。

 その言葉が、ようやく自分のものになった気がした。

 外から言われて、初めて自分のものになる言葉がある。

 小春はスマートフォンを置いて、窓の外を見た。

 明石の夜の海が、遠くに光っていた。

 この街に来て七年。ここが今の自分の場所だ。でも愛媛も、消えていない。消えたことは一度もなかった。ただ、持ち方が分からなかった。

 帰り方が分からなかっただけで、帰れなかったわけではなかった。

 そのことを、これからは自分に許してもいいと思った。


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