最終章 朝の海
五月の終わりの朝、小春はいつもより早く目が覚めた。
アラームより三十分早かった。二度寝しようとしたが、できなかった。体が起きようとしていた。
布団の中で、天井を見た。
昨夜、蒼からメッセージが来ていた。記事について、一言だけ書いてあった。
『読んだ。ちゃんと、ここのことやった』
ちゃんと、ここのことやった。
その言葉が、夜のうちから胸の中にあって、朝になっても残っていた。
ここのことを、ちゃんと書けた。蒼がそう言ってくれた。それは、小春にとって、どの評価よりも重かった。残った人が、ちゃんとここのことだと言ってくれた。それだけで、書いた理由が全部揃った気がした。
起き上がった。
顔を洗って、着替えた。お茶を入れようとして、やめた。
海を見に行こうと思った。
アパートを出たのは、六時前だった。
まだ人が少ない時間の明石の道を、小春は歩いた。イヤホンはしなかった。音楽も、ニュースも、今朝は要らなかった。
潮の匂いが来た。
歩くたびに、少しずつ強くなった。海が近づいていることが、匂いで分かった。
防波堤の手前に出ると、海が見えた。
朝の海だった。
光がまだ低くて、水面を横から照らしていた。波が小さく、規則的に来ていた。遠くに明石海峡大橋の白いケーブルが見えて、その向こうに淡路島がある。霞んでいたが、輪郭はあった。
誰もいなかった。
釣り人が一人、遠くにいた。それだけだった。
小春は防波堤の手前に立った。
海を見た。
明石の朝の海は、白に近い色をしていた。光を含んだ白。颯太が好きだと言っていた、双海の朝の海と、同じ色だった。瀬戸内の朝の海は、どこも同じ色になる時間がある。
同じ時刻に、同じ色の海がある。
でも、ここで見る海と、双海で見る海は、同じではない。光の角度が少し違う。波の質が違う。匂いが違う。立っている自分の位置が違う。
揃えられた時刻の中に、揃えられない光がある。
記事に書いた言葉が、朝の海の前で、また正確になった。
しばらく立っていた。
何かをしようとは思わなかった。考えようとも思わなかった。ただ、立っていた。
波の音が来た。規則的な音だった。一定のリズムで、止まらない。
この音が、明石の朝の音だ。
子どもの頃に聞いていた音は、別の音だった。海の音は同じ海の音でも、どこの海かで違う。伊予上灘の海の音を、小春は体で覚えている。明石の海の音は、八年かけて覚えた。
両方持っている。
どちらかを忘れなければいけない理由は、なかった。どちらかを選ばなければいけない理由も、なかった。両方が今の自分の中にあって、それが今の自分だった。
スマートフォンを取り出した。
母からのメッセージを開いた。昨夜、記事へのお礼を送ったら、短い返信が来ていた。
『小春、ありがとう。お父さんも、ありがとうって言いよった』
お父さんも、ありがとうって言いよった。
父が言った言葉を、母が代わりに伝える。それがこの家の形だった。父は自分では言わないが、言っている。その言葉が、母を通して届く。そういうつながり方で、三人はずっとつながってきた。
「ありがとう」と小春は声に出して言った。
誰もいない防波堤の前で、海に向かって言った。
変な行動だと自分でも思ったが、言いたかったから言った。父に言えていなかったことが、たくさんある。母にも。言葉にしないまま過ごしてきた年数が、長かった。全部を取り戻すことはできないが、言えるときに言おうと思った。
海が、波を返してきた。
答えではなかった。でも、波が来たことが、何かのように感じた。
しばらくして、スマートフォンに通知が来た。
田中からのメッセージだった。
珍しかった。田中からメッセージが来るのは、仕事の連絡のときが多い。
開いた。
『今朝、天文科学館の近くで空を見ていました。明石の朝の空が、きれいでした。記事を読んでから、空を見る時間が少し増えた気がします』
小春はそれを読んで、少し笑った。
田中が空を見ている。明石の朝の空を。自分が防波堤の前で海を見ているのと、同じ時刻に。
同じ時刻に、それぞれの光の中に。
返信を打った。
「私も今、明石の海を見ています。朝の海が、きれいです」
送ってから、画面を閉じた。
返信は待たなかった。今朝は、返信を待つより、海を見ていたかった。
波の音を聞きながら、小春はこの一年のことを思った。
去年の春、母からメッセージが来た。お父さんのこと、少し話したいんよ、という一言が、止まっていたものを動かした。
帰省して、父の話を聞いて、蒼に会って、颯太に会って、田中と話して、美緒と話した。取材をして、書いた。父の店の最後の日に立ち会って、置き時計を持って帰った。
一つ一つは、小さなことだった。
大きな決断も、劇的な変化も、なかった。ただ、少しずつ、止まっていたものが動いた。帰れないのではなく、帰り方が分からなかっただけだと気づいた。持てないのではなく、持ち方が分からなかっただけだと気づいた。
今の自分が、去年の自分と何が違うかを言葉にしようとすると、うまくいかない。でも違う、ということは確かだ。
海が、また波を寄越した。
小春はその波を見ていた。
双海の夕日は、今夜も沈む。明石の朝は、明日もこうして来る。どちらも、自分がいてもいなくても、続く。でも今この瞬間、自分がここにいて、見ている。
見ているということが、大事なことだと思った。
立ち止まって、見ること。それだけのことが、止まっていたものを動かすことがある。
空が少しずつ明るくなってきた。
太陽が上がり始めると、水面の色が変わった。白から、青に向かっていく。明石の朝の光が、海を照らし始めた。
その光の中に、小春は立っていた。
明石の光の中に。
愛媛の光を体に持ちながら、明石の光の中に立っていた。
両方が、今の自分だった。
どちらかを消すことなく、どちらかを切り離すことなく、両方持ったまま、この朝の光の中にいる。それが今の自分の場所だった。
時間は続いていく。
父の店がなくなった後も、颯太が大阪へ行った後も、蒼が地元で続けている間も、田中が明石の空を見ている間も、時間は続いていく。揃えられた時刻の中で、それぞれの光の中で、それぞれの時間が続いていく。
小春はゆっくりと、空を見上げた。
明石の朝の空が、青かった。
雲がいくつかあって、その端が光を受けて白く輝いていた。この空が、海峡を越えて、双海の空につながっている。同じ空の下に、今朝もみんながいる。
急がなくていい。
今日の仕事は、また始まる。美緒が来て、宮田さんが来て、次の企画が動き始める。田中との企画展の広報も、これから本格化する。颯太の進学があって、蒼の仕事が続いて、両親の新しい日常が続く。
その全部の時間が、今日も動いている。
でも今この瞬間は、この朝の海の前に立っていていい。
波の音を聞いていていい。
潮の匂いを、ちゃんと吸い込んでいていい。
急かされない時間が、ここにある。
標準時は、時刻を揃えた。でも時間は揃えられない。この朝の海の前に立っている時間は、今日の自分だけの時間だ。誰とも共有できない。でも、同じ時刻に、みんながそれぞれの時間の中にいる。
それが、瀬戸内の時間の話だと思った。
記事には書いた。でも書いた後も、ここに立つと、また分かる。知っていることが、また分かる。そういうことがある。
波が来た。
小春の足元まで来て、引いた。
また来た。
また引いた。
その繰り返しを、少しの間、見ていた。
引くたびに、砂が少しだけ動いた。同じ場所が、波が来るたびに少しずつ変わっていく。変わっているのに、同じ場所だった。
それが何かのように思えた。
うまく言葉にできなかったが、何かのようだった。言葉にできないことを、そのままにしておくことが、今の自分には苦ではなかった。言葉にならないものを、言葉にならないまま持っていられる。それも、この一年で変わったことの一つかもしれない。
スマートフォンに通知が来た。
田中からの返信だった。
『同じ時刻に、それぞれの光の中に。今朝もそうですね』
記事の言葉を、田中が返してきた。
自分が書いた言葉が、書いた相手から戻ってくる。それが今朝の海の前で届いた。
小春は返信を打った。
「今日も、いい朝です」
送ってから、スマートフォンをポケットに入れた。
今日も、いい朝だった。
特別なことは何もない朝だった。でも、立ち止まって見ることができた朝だった。潮の匂いを、ちゃんと吸い込めた朝だった。双海の光と明石の光を、両方持ったまま立っていられた朝だった。
そういう朝が、これからも来る。
小春はもう一度、空を見上げた。
明石の朝の空が、少し高くなっていた。
時間が動いている。
でも今は、その時間に追われていなかった。
自分の時間を、自分の速さで、生きていた。
波が来た。
引いた。
また来た。
小春は、その繰り返しをもう少しだけ見ていることにした。
仕事は、その後に始まる。
今は、ここにいる。
明石の朝の光の中に、今日の自分がいた。
少し後、小春はゆっくりと防波堤を離れた。
アパートへ戻る道を歩きながら、今日やることを頭の中で整理した。田中への企画展の件で確認することがある。美緒と午後に打ち合わせがある。宮田さんへの報告もある。
いつもの仕事の一日が、今日も始まる。
でも今朝、海を見てから始まる一日は、見なかった日と少し違う。その違いが、どこかに出る。すぐには分からなくても、どこかに。
道を歩きながら、潮の匂いがまだあった。
明石の朝の匂いだった。
小春はそれを、立ち止まらずに、でも意識して吸い込みながら歩いた。
アパートへ向かって。
今日へ向かって。
自分の時間の中を、歩いていた。
(了)




