第3話「赤い影法師」
ある日、あぜ道の向こうでミドリちゃんとさっちゃんがプラスチックの小さいピンクのバケツと、虫取り網を道路にほっぽって、田んぼの中に手を突っ込んで何かを競い合うようにすくっていた。
両端が田んぼの土を盛っただけの泥濘んだあぜ道を慎重に渡ってミドリちゃんたちの所へ向かった。
「さっちゃん、ミドリちゃん、なにとってるん?」
「んー?何か分からんけど田んぼの中にめちゃおんねん、あ、つぶしてもた」
「カブトエビの赤ちゃんかなぁ」
目を凝らすと、尻尾が二つに割れた茶色いカブトエビが静かに泥をかき混ぜている周りに、無数の白くて足がわさわさと蠢く、緑の目をした生き物が上向きに泳いでいた。
その生き物に群がるように水面の一角が、まるで沸騰したように赤茶色く濁って揺れていた。顕微鏡でしか見えないはずのミジンコが、文字通り『一塊の肉』のようになってひしめき合っているのだ。チチチ、チチチ、と、耳の奥に直接刺さるような、幻聴じみた微小な羽羽音が聞こえて、毛穴一つ一つから侵入されそうになる。
「あかん、つまんだらすぐつぶれるわ」
「でもきれいやなぁ」
「そうかなぁ、なんかぶきみやわ」
この一帯の泥水の中の無数の緑色の点、仰向けになって無数の白い脚が波打ち蠢き、その傍らでは、硬い殻を被ったカブトエビが、泥を掻き分けながら狭い水溜まりの中で互いを踏みつけ、擦れ合っている。
カサカサとも、モゾモゾともつかない、水底から微かに湧き上がるその蠢きを見ているだけで、自分の衣服の裏側を這い回られているような、耐え難い痒みが背中を駆け抜けた。
向こうの方で、用水路から紛れ込んだフナが、背びれを水面から出してものすごいスピードで稲の間を縫うように泳いでいる水の線に目を向けた。
「あたし、フナのほうがすきかも。フナ早くて、とるんめっちゃむずかしいけど、一回つかまえたことあるで」
「フナ早いよなぁ。ウ~ン、これとるんあきたから、虫取りに行こ!」
さっちゃんとミドリちゃんは熱された道路の縁で泥水を拭って手の水気を取った。こすりつけられたつぶっとした肉片の水分が次第に蒸発し、そこには初めから泥の粒しかないようだった。
あぜ道を慎重に戻り、用水路を覗く。
「あれなんやろなぁ。いっつもゆらゆら。あのすみっこのとこから顔出してんねん」
私は、用水路のヘドロを絡めた藻の隙間から揺らぐ、ブツブツしたもよおうの茶色い生き物を指さした。
「どこ?そんなんおる?見たことないねんけど」
「しらんなぁ」
「あ!ひっこんでしもた……」
スッポンを思わせる奇怪な口元のウナギのような正体不明の生き物が、泥の残像を残してシャッと消えた。
田んぼの泥水の小さなカブトガニ、無数の脚をワサワサと蠢かせる白い化け物のような生き物、密集して数え切れないほど湧いて蠢いている小さな生命体の生きる音が、しゃらしゃらと風に揺れる青々とした稲の周りで踊る異国の儀式のように感じた。
ぶわりと分厚い空気の膜が全ての音と風を遮断し。耳鳴りがぼわんと頭蓋骨を内側から叩いた。思わず肩をすくめたら静寂と一緒にす……っと通り過ぎていった。
ざぁああああ、さぁああああ。と苗がこすれて波を作る。
当時は平気で触っていたそれらが、夕暮れの影が伸びるにつれて、急にひどく禍々しいものに見えてくるのだ。
そんな、生命の息吹の畏怖に近い何かから目をそらすように、さっちゃんとミドリちゃんと、トンボを追いかけた。
水色と黒のオスの尾に、黄黒のメスがしっかりとしがみついているしっぽを草の隙間から見つけて追いかける。
「合体トンボおった!そっちいった!」
ブンっと虫取り網がしなって、網の中でトンボたちが暴れる音が聞こえた。網の薄い不織布越しに、指先へ伝わる『ぶぶぶぶぶぶ』という硬質な振動。それは死から逃れようとする、虫の剥き出しの生命力そのものだった。網の中で狂ったように翅を擦り合わせ、のたうち回るその音の、なんと浅ましく、なんと心地悪いことか。
「やった!つかまえた!」
私たちは網の布に強力にしがみついて離れない、オスのシオカラトンボの羽をつかんで引っ張った。網を反対から指で押してとげとげした足を網から引き離した。左右に傾く複眼の大きな丸い頭を観察した。
その間も黄色いメスはオスのしっぽに、その強力なあごでくらいついていた。
「離れへんのかな?」
さっちゃんが黄色いメスの羽をもってオスから離そうとした。
ずるり……
「「「うわあああああああ」」」
さっちゃんはトンボを投げ捨てた。
メスはオスの胴体の繊維を引きずり出しても尚、くらいついていた。オスもあの複眼の頭を左右にカクカクと動かして、そのままトンボたちは飛び去って行った。
「「「……」」」
私たちは、畑の真ん中にポツンとある小さな祠とご神木の間に座り込んだ。
ギィ――ィィイン、ミンミンミンミン、ビィ――……
じ――ーーーーーじじじいじいじりじりじりじり……
ミンミンゼミとアブラゼミが頭の上で競い合い、音で全てを覆う。その瞬間は全ての音がセミの音に支配された。その覆われた瞬間だけ、忌々しい生ぬるい音が消えた。
時折、コツンとスカスカの松ぼっくりが風に落とされる。
心臓の音が、カクカクとしたあのトンボの頭の動きを思い出すたびに大きく打った。
ご神木の横にある大きくえぐれた窪みには、どこからか持ち込まれた壊れた自転車やテレビ、時折、カタン、カン、カタン、カンと揺れるトタンの欠片などが捨てられていた。
どのくらいの深さか分からず、虫たちだけが素通りできる、底の見えない異界への入り口のように見えた。
「今日は、かえろ」
「「うん」」
何事もなかったかのように帰った。背中から夕陽に照らされ、影が赤く前に伸びた。
私は“彼女”が、以前語っていた赤い影法師の話を、思い出す必要なんてないのにおもいだしてしまった。
「影が伸びる夕方の五分だけな、赤い影が混じんねん」
さっちゃんの影にもミドリちゃんの影にも赤い色が伸びた。ぶわっと汗が一気に毛穴から噴き出した。ぼとぼとと顎から汗がおちる。荒いアスファルトの上に染みを作った。
カーン……カタン。
「その陰はその人の影でなくて、反対に動いたり、ちょっとずれて動いたりするんよ。その影がな、あーんって真っ黒な大きな口を開けるんよ」
さっきトンボをつかまえた、不法投棄の窪みを吹き抜ける生ぬるい風を思い出した。
……カタン、カン……
「その影に踏まれたら次の日、熱が出るんよ。それだけやったらまだええねん。影に体を乗っ取られてしまうかもしれん。
でな、その赤い影法師が口開ける時に……カーンって音がするんよ。あれ、呼んでるんやって。それ、見ても、聞いても返事したらあかんで。
――だって、探してんのかもしれんから」
さっちゃんもミドリちゃんも、気づいていない。
明日、指にはめて舐める大きな指輪の飴を駄菓子屋に買いにいくからお小遣いをいつもより多い五十円をもらう、という話で盛り上がっていた。
私もイチゴ味とメロン味のどちらも食べたいけど、迷うと話に混じった。
さっちゃんが次の日からしばらく熱が出て、指輪の飴は買えなかった。
【あとがき】
読んでくださりありがとうございます。
小さな水生物とトンボの描写、書いていて自分でも少し気持ち悪くなってしまいました(笑)
子供の頃って、どうしてあんなに無邪気に残酷なことができてしまうんでしょうね。男の子はもっとエグかったですが……まぁそんなもんですね。
思い返せば、あれだけ活発だったさっちゃんが、あの熱の後、元気がなくなってしまったのが気がかかりです。
次回、第4話はおなじみ「リカちゃん電話」です。明日、22時に投稿します。




