第2話「逆さ井戸の声」
家の近くには古いお寺がいつくかあって、遊ぶ所に飢えている子供たちは、校区内なので少し遠くても広い境内のお寺や神社に集まって遊ぶ。
その日は、いつもの五人で、探検の延長で古いお寺まで遊びに行った。大人になった今、地図上で確認したら、実家から徒歩三十分ほどの場所だった。
当時一番年下の私にとっては大冒険だったが、通っていた幼稚園、そして隣接する小学校も徒歩三十分程の距離なので苦痛ではなかった。
地元だけでなく、遠い所からもお参りの人が来る。お坊さんのような巡礼の、錫杖を突いている人とすれ違う。
ガツン、ジャラン。ガツン……ジャラン。
お寺に近づくと農道から車一台通れる分かれ道がある。突如現れる、赤いよだれかけ、と、石の像。お地蔵さんの形もあれば、長年の風雨にさらされ溶けてしまった大きな灰色の石に、人型が薄く浮いているだけのものもある。
ひびが入った台座のコンクリートに置かれたお供えの一円玉や五円玉、ワンカップ酒の分厚いグラスには水が溜まり、苔のようなゴミが浮いていた。
裏山から流れてくる細い水路から、涼しい清浄な空気を感じる一方、赤いよだれ掛けが重なるように巻かれたお地蔵さんの横からは、藪から染み出た水が澱み道路を濡らしていた。
顔の一部が欠け傾いたお地蔵さんの台座のコンクリートに埋め込まれている、花を挿す用途の灰色の細い筒に、赤い風車が一つだけ差し込まれていて、力なくゆらゆらと揺れていた。
こんな田舎のお寺に場違いな、立派な仁王像が見下ろす門。くぐると、突如線香の煙の匂いに包まれる。歩く度、砂利が鳴く。
丸く重なるように整えられた木の横には鐘撞堂があり、お城の石垣を思わせる立派な石が反った土台は、涙を流した跡のように下の方が黒ずんでいた。
既に遊んでいる子どもたちが、鐘撞堂の梁によじ登っていて、上の方に吊り下げられている鐘付きの紐に飛びつきながら、鐘をついて遊んでいた。
ゴーーーン
大晦日に眠気と戦い聞いた、あの遠くから届いていた鐘の音であった。私も鐘を付いてみたいと思ったが、梁に登っても紐には飛び掴めないくらい高かったので諦めた。
巡礼の人が刺していく蝋燭立てのケースは、金属部分が錆び、足の部分は歪んでいた。歪に汗を流す蝋が指のような形で固まり、焦げた芯が針のようにむき出しになっていた。
「お賽銭いれるよ!」
キヨちゃんが一円玉を古びた賽銭箱に入れた。
コン、コロコロ、――チャリ。
「せーの!」皆で本堂の丸い青銅の鐘の縄をつかみ鳴らした。釣鐘堂の響く荘厳な音とは違い、トタンを叩いたようなガンッという予想外の音が鳴り、皆で笑った。
薄暗い本堂の中を木の格子の隙間から覗くと、薄暗い中に仏像らしき形が見えた。顔の部分を見ると、薄ら目がこちらを見た気がして。格子から離れた。
本堂の横にある朽ちかけた木の小さなお堂にも、鮮やかな赤や、薄汚れた古い布、字が書かれrたよだれ掛けが幾重にも格子に結びつけられ、小さな折り紙で折られた千羽鶴や鞠もいくつか飾られていた。線香の煙の筋が風もないのに、途切れてまた、戻ってきた。
私達は広い境内で走り回り、よじ登り、古代の遺物であろう石の上から飛び降りたりして遊んだ。濁った小さな池には鯉がうっすらと錦を浮かび上がらせ、澱みに沈む。池の横のヘドロがたまったような窪みには、緑の筋の入った葉のような生き物が、ぬらりぬらりと身をくねらせて泳いでいた。
このお寺迄の長い道のり、あの彼女が話していた井戸。その井戸が社務所の横にひっそりとあった。小さなお堂のような建物の中にはその井戸と水を汲める水場があった。チョロチョロと水が流れ、漏れた水が足元を濡らしていた。
「この井戸やねん」
彼女が井戸の入り口で指さした。
「ほんまにさかさまに声が聞こえるん?」
ミドリちゃんがさっちゃんの腕に捕まりながら井戸を覗こうとした。
「あぶない、おちるで!」
さっちゃんがミドリちゃんの腕を掴んで井戸の縁から移動した。ピチャっと水を踏む音が妙に鮮明に聞こえて、私はお堂の入り口から小さく二歩程下がった。
「井戸の底に向かって声を出すと、やまびこみたいに返ってくんねん。でもな、ある日だけ“逆さま”に返ってきたんよ」
彼女は、薄暗い井戸の横に立って湿った石の縁をつうっと撫でた。彼女の顔から胸のあたりまで斜めに影が落ちて、表情だけがすっぽりと消えていた。声だけが小さなお堂に反響し、水の音を飲み込んだ。
「『お~い』って言ったら、『い……、お、おぉ』って。カセットで録音して確かめよう思て、キュルキュルって巻き戻したときに聞こえてん……『こっちへ……来るかぁ?』って」
録音したん?言い方オッサンやん!って皆は笑ったけど、私は余りの不気味さと、彼女がなぜそこまでして確かめようとしたのか、妙に引っかかった。
「で、ためしてみん?」
「お~いって言えばええんやな?」
「ほんまに聞こえるんかな?」
皆が、薄暗いお堂の影に吸い込まれて声だけが反響している。湿った井戸の縁から覗き込んでいる。
このまま皆が井戸の中に吸い込まれて消えてしまう気がして私はお堂の外から皆に声をかけた。
「なー、みんな、あっちの木のほうへいかへん?」
誰も私の方を見ない。私がいないかのように井戸に取り憑かれている。
「お~い」
「おーい」
おおぃ、おおーぃ……
突如、線香の匂いも人の気配もプツリと途切れた。皆は必死に井戸に向かって声を出している。
鐘付き堂で遊んでいた子どもたちはいつの間にか消えていて、かわりに重々しい錫杖の音が近づいてきた。
ガツン、シャララン。ガツン、シャララン。
ジャッ、ジャ、ザッ……
砂利を食む音。そして、あのトタンのような鐘の音。
……カーン……
赤いよだれ掛けが風で揺れ、日が傾き始めたのか影の向きが変わった。藪の笹の擦れる音が大きくなった。
ザァアアア……、ザァアさアア……。
皆は井戸を囲んで耳を澄ましているのだろうか。お堂からは水のチョロチョロ……ぴちゃん……ぴちゃん……という音だけが聞こえる。
本堂の前で、お経を唱え始めたお参りの男の人の低い声と重なって、井戸の底からおおおおおお……と小さな低い音が風と一緒に這い上がってきた。子供たちは気付かない。私だけが聞いた。
彼女が陰の中からこちらを見た気がした。
カーン……。
またあの乾いた音が聞こえた。
【あとがき】
読んでくださりありがとうございます。
実を言うと、この「逆さ井戸」のあと、私たちがどうやってお寺を出て、どうやって家に帰ったのか、全く覚えてません。幼かったから忘れてしまったのか、それとも、脳が防衛反応で消してしまったのかは分かりません。
ただ、大人になった今でも、遠くで乾いた金属音が聞こえたり、暗闇の中でゆっくり明滅する電波塔の赤いライトを見ると、あの水音と、井戸の底から這い上がってきた「おおおおお……」という低い音が、耳の奥で蘇るような気がしてサブイボが出ます。
次回、第3話は「赤い影法師」です。明日も22時に投稿します。
※地元のお寺の場所については、特定を避けるため伏せさせていただきます。




