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第一話・第三節「優しさを拒む女神たち」

愛する主人の帰還。


それは、七柱の女神たちが長い年月をかけて待ち望んだ、かけがえのない瞬間だった。


しかし、その主人が慈愛の微笑みを向けた先には、三人の幼いエルフの命があった。


愛しているからこそ、罵る。


敬っているからこそ、欺く。


そして、守りたいからこそ、立ち向かう。


すべての優しさが拒絶される世界で、女神たちは何を選ぶのか。


時を司る三女神と、慈愛に満ちた戦女神。


決して交わることのない想いが、今、激突する。


―これは、愛を知り、愛を届け、愛を救う物語。-

帰る場所のない楽園


――こつん。


小さな杖の先が、ひび割れた石床を叩いた。


――こつん、こつん。


続いて、二本の杖が同じ床を確かめる。


三つの足音が、崩れた宮殿に響いていた。


かつて神々の祝福を受け、永遠の繁栄を約束されたと伝えられる王国。


ホワイトエデン。


その栄華を物語るものは、今ではほとんど残されていない。


白亜の柱は折れ、天井は崩れ、美しい彫刻で飾られていた壁には深い亀裂が走っている。


吹き抜けとなった天井から乾いた風が入り込み、瓦礫の隙間を通り抜けていた。


その廃墟の中央を、三人の幼いエルフが歩いていた。


長男、エイリク。


次男、アスル。


長女、エルフィ。


三人は、生まれつき目が見えない。


金糸の刺繍が施された目隠しを身につけ、それぞれの杖を頼りに歩いていた。


エイリクの杖には月の装飾。


アスルの杖には太陽の意匠。


エルフィの杖には小さな花の飾り。


三本の杖が、三人に足元の様子を教えていた。


「……ねえ、エイリク」


アスルが兄の袖を引いた。


「ここ、本当にお城なの?」


「……たぶん」


エイリクは杖で床を確かめながら答えた。


「お父さんが読んでくれたお話のお城とは、ちょっと違うけど」


「うん。なんか、いっぱい壊れてる音がする」


アスルが杖で小石をつつく。


ころころ、と石が転がった。


その音は、広い空間の向こうまで響いていった。


「……でもね」


エルフィが、小さく微笑んだ。


「風の音、きれいだよ」


「……きれい?」


「うん。誰かが歌ってるみたい」


エルフィは耳を澄ませた。


崩れた柱の隙間を通る風。


遠くで揺れる木の枝。


どこかから聞こえる水滴の音。


三人には、世界の姿を見ることができない。


けれど、その世界に満ちる音を、誰よりも大切にしていた。


そんな三人を、七柱の女神たちが見下ろしていた。


第一柱、マイア。


第二柱、エレクトラ。


第三柱、タイゲテ。


第四柱、アルキュオネ。


第五柱、ケライノ。


第六柱、ステロペ。


第七柱、メロペ。


プレアデス・ゴッデス。


人間を遥かに超える巨躯を持つ七柱の女神たちは、純白の衣装にそれぞれの神光を宿していた。


赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。


七つの色が、崩れた宮殿に淡く揺らめいている。


彼女たちの頬には、涙が伝っていた。


それなのに。


「……本当に、役に立ちそうもない子どもたちですね」


マイアが、冷たく言い放った。


エイリクの杖が止まる。


「……ごめんなさい」


「謝るくらいなら、さっさと帰りなさい」


タイゲテが鼻を鳴らした。


「こんな廃墟に、何をしに来たのですの?」


「……えっと」


アスルが少し考えてから答えた。


「お姉さんたちが、困ってるって聞いたから」


七柱の表情が、わずかに揺れた。


しかし。


「……余計なお世話」


ケライノが、短く吐き捨てた。


「そうだよ! あんたたちなんか、いらないもん!」


メロペも声を張り上げる。


「……そっか」


アスルは、しょんぼりと肩を落とした。


エルフィが兄の手を握る。


「……でも、困ってる人がいたら、助けてあげなさいって」


少女は、優しく言った。


「お母さんが、教えてくれたよ」


マイアは、唇を強く結んだ。


そして、微笑んだ。


その目から、新しい涙がこぼれ落ちた。


「……くだらない教えですね」


エルフィは首を傾げた。


「……お姉さん」


「何ですか」


「……どうして、泣いてるの?」


七柱は、答えなかった。


ただ、風の音だけが響いていた。


────────


七つの声と、小さなお願い


しばらくして。


「……おなか、すいた」


アスルが、ぽつりと呟いた。


エイリクが困ったように笑う。


「さっき、朝ごはんを食べたばかりでしょ」


「でも、もうお昼かもしれないよ?」


「……まだ、そんなに経ってないと思う」


「だって、おなかがそう言ってるもん」


そのやり取りに、エルフィがくすくすと笑った。


七柱は、三人を見つめていた。


メロペが何かを言いかける。


しかし、エレクトラが小さく首を振った。


「……食料の提供は不要です」


冷静な声が響く。


「あなた方の食事など、私たちの知ったことではありません」


「……そっか」


アスルは素直に頷いた。


「じゃあ、自分たちで探すね」


「勝手になさい」


タイゲテが冷たく言った。


「ただし、何が起きても助けませんわよ」


「……うん!」


アスルは元気よく答えた。


「ありがとう!」


「お礼を言われる筋合いはありませんわ!」


タイゲテの声が、わずかに裏返った。


エルフィが、そっと尋ねる。


「……お姉さんたち、ここに住んでるの?」


アルキュオネが優しい微笑みを浮かべた。


「あらあら……そうですねぇ」


そして。


「あなたたちには、関係ありませんけれど」


「……そっか」


エルフィは少し考えた。


「……じゃあ、ここが、お姉さんたちのおうちなんだね」


アルキュオネの頬を、涙が伝った。


「……勝手なことを言わないでくださいねぇ」


その声は、ほんの少しだけ震えていた。


かつて、この宮殿には主人がいた。


七柱が誰よりも敬い、愛した主人。


戦女神、ルルエラ。


彼女が眠りについてから、宮殿は長い年月をかけて朽ち果てた。


けれど、七柱にとっては今も変わらない。


ここは、主人の帰る場所だった。


「……お姉さん?」


エルフィが、不思議そうに顔を上げた。


「……どうして、笑いながら泣いてるの?」


マイアは、しばらく答えなかった。


そして。


「……あなたには、関係ありません」


そう言って、優しく微笑んだ。


────────


崩れた宮殿の、小さな足音


三人は、宮殿の中をゆっくりと歩き始めた。


こつん。


こつん。


こつん。


杖先が、床の状態を伝える。


エイリクが先頭に立ち、アスルがその後ろを歩き、エルフィが最後尾を進む。


「……ここ、段差がある」


エイリクが足を止めた。


「アスル、気をつけて」


「うん!」


「エルフィも」


「ありがとう、お兄ちゃん」


三人は、互いに声を掛け合いながら進んでいく。


その様子を、七柱は黙って見守っていた。


「……危なっかしいですわね」


タイゲテが小さく呟く。


「……当然の結果です」


エレクトラが冷静に答えた。


「未知の環境において、足元の情報を一つずつ確認する必要があります。移動速度は限定的です」


「……それでも」


ステロペが静かに口を開いた。


「……三人は、歩みを止めません」


「……無謀」


ケライノが短く呟く。


「ほんと、ばかみたい」


メロペが唇を尖らせた。


その目から、涙がこぼれた。


マイアは、三人の背中を見つめていた。


「……本当に」


彼女は小さく呟いた。


「……どうしようもない子たちです」


その声には、言葉とは異なる感情が滲んでいた。


三人の両親に、必ず帰すと約束した。


それだけは、何があっても守らなければならない。


たとえ。


愛する主人の願いに、背くことになっても。


────────


最初の危険


そのときだった。


――みしり。


宮殿の奥から、不吉な音が響いた。


エイリクが足を止める。


「……今の音……」


――みし、みしっ。


頭上の巨大な石柱が、ゆっくりと傾き始めていた。


長い年月を経て、崩壊寸前となっていた柱。


その根元に、新しい亀裂が走る。


「……エイリク?」


アスルが兄の袖を掴んだ。


「……なんか、変な音がする」


「……うん」


エイリクは杖を握りしめた。


「……二人とも、こっちに――」


――バキィィィン!!


巨大な石柱が折れた。


数十トンにも及ぶ瓦礫が、三人の頭上へ落下する。


「――っ!!」


七柱の神光が、一斉に弾けた。


赤。


橙。


黄。


緑。


青。


藍。


紫。


七色の光が巨大な防壁となって、三人を包み込む。


――ドォォォォォォン!!


轟音。


床が揺れ、粉塵が舞い上がった。


けれど。


三人の身体には、傷ひとつなかった。


「……え?」


アスルが、きょとんとする。


「……今、すごい音したよね?」


「……うん」


エイリクが慎重に杖を動かした。


「……でも、何も当たらなかった」


エルフィが、そっと顔を上げた。


「……お姉さんたち?」


「……何ですか」


マイアが冷たく尋ねた。


エルフィは、小さく微笑んだ。


「……ありがとう」


その瞬間。


七柱の頬を、新しい涙が伝った。


「……勘違いしないでください」


マイアが声を震わせながら言った。


「あなたたちを助けたわけではありません」


「……そうなの?」


「ええ」


「……でも」


エルフィは、優しく微笑んだ。


「……ありがとう」


マイアは、それ以上何も言えなかった。


────────


涙の理由を知らないまま


三人は崩れた柱から離れ、比較的安全な場所へ移動した。


アスルは床に腰を下ろした。


「……ふう」


「疲れた?」


エイリクが尋ねる。


「ちょっとだけ」


「……ぼくも」


エルフィが、二人の間に座った。


「……ねえ」


少女が、ぽつりと呟いた。


「……お姉さんたち、ずっと泣いてるね」


エイリクは静かに頷いた。


「……うん」


「……でも、怒ってる」


アスルが不思議そうに言った。


「……なんでだろう」


三人は、しばらく考えた。


そして。


「……きっと」


エルフィが小さく微笑んだ。


「……何か、悲しいことがあったんだよ」


エイリクが頷いた。


「……そうかもしれないね」


アスルも拳を握った。


「じゃあ、元気にしてあげよう!」


その言葉に、七柱は誰も答えなかった。


ただ、彼女たちの涙だけが、静かに落ち続けていた。


そのとき。


――とくん。


地の底で、何かが脈打った。


────────


十二の共鳴――目覚めの足音


ホワイトエデンの地下深く。


かつて王宮の心臓部と呼ばれた封印の間には、十二の神々が遺した巨大な扉があった。


長い年月、そこには音ひとつ存在しなかった。


だが、その日。


――とくん。


どこか遠くから、小さな鼓動が届いた。


――とくん。


ふたつ目。


――とくん。


みっつ目。


封印扉の向こう側。


巨大な白銀の球体が、かすかに震えた。


神器、ノーザンアイギス。


百億枚の白銀の盾が幾重にも重なり合った、巨大なスフィア。


その中心で眠る戦女神ルルエラの指先が、わずかに動いた。


――カァン。


第一の共鳴。


扉に刻まれた古い文字が、ひとつ輝いた。


――カァン。


第二の共鳴。


白銀のスフィアの内部で、金属同士が擦れ合う音が生まれた。


――カァン。


第三の共鳴。


封印の間に、冷たい風が吹いた。


閉ざされた地下に、風など存在するはずがない。


――カァン。


第四の共鳴。


王宮の地上で、小石がひとつ転がった。


――カァン。


第五の共鳴。


大広間にいたエイリクが、杖を止めた。


「……今、何か聞こえた?」


アスルが耳を澄ませる。


「……鐘?」


エルフィは胸元に手を当てた。


「……誰か、起きようとしてる……?」


七柱は、答えなかった。


――カァン。


第六の共鳴。


エレクトラの掌に浮かぶ封印記録が、激しく乱れた。


「封印維持率……四十二パーセント」


マイアの微笑みが、わずかに強張った。


「……まだ、保てるのですね?」


「……計算上は」


エレクトラの声が、初めて揺れた。


――カァン。


第七の共鳴。


封印維持率、二十一パーセント。


――カァン。


第八の共鳴。


封印維持率、九パーセント。


タイゲテが唇を噛む。


「……冗談ではありませんわ」


アルキュオネは、涙を流しながら微笑んでいた。


「あらあら……これは、本当に困りましたねぇ」


ケライノが短く呟く。


「……近い」


――カァン。


第九の共鳴。


封印の間で、ルルエラの唇が動いた。


「……あら……?」


驚くほど、優しい声だった。


「……どなたか、いらっしゃるのですか……?」


――カァン。


第十の共鳴。


宮殿の床に、細い亀裂が走った。


三人の杖先に、その震えが伝わる。


「……エイリク」


アスルが兄の袖を掴んだ。


「……なんか、怖いよ」


エイリクは弟と妹の手を握り直した。


「……大丈夫。離れないで」


――カァン。


第十一の共鳴。


封印維持率、一パーセント。


ステロペが静かに目を閉じた。


「……未来が、途切れました」


メロペが震える声で尋ねる。


「……どういうこと?」


ステロペは答えなかった。


その沈黙が、何よりも恐ろしかった。


そして。


――カァァァァン!!


第十二の共鳴。


封印維持率、ゼロ。


地下深くで、十二の封印紋様が一斉に砕け散った。


けれど。


扉は、すぐには開かなかった。


一秒。


二秒。


三秒。


世界が、息を止めたように静まり返った。


そして。


――こつん。


扉の向こう側から、何かが触れる音がした。


「……まあ……」


穏やかな声が地下から響く。


「……こんなところに、扉があったのですね……」


次の瞬間。


――パァァァァァン!!


巨大な封印扉が、内側から砕け散った。


白銀のスフィアが、ゆっくりと姿を現した。


その中心で。


戦女神ルルエラが、静かに目を開いた。


「……ふふっ」


彼女は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。


「……皆さま、お久しぶりです……」


────────


十二の神々の記憶


ルルエラは、ゆっくりと身体を起こした。


白銀のスフィアが、その周囲で静かに回転している。


長い白髪が肩から背中へ流れ落ち、白い衣の裾が、四本の蹄を持つ下半身へ柔らかく重なっていた。


「……あら……」


彼女は自分の手を見つめ、懐かしそうに微笑んだ。


「……ずいぶん、長く眠っていたのですね……」


その瞳に、遠い記憶が蘇る。


十二の神々。


かつて自分を封印した、十二柱の存在。


彼らは最後の瞬間まで、ルルエラへ手を伸ばしていた。


ある神は、声が枯れるまで彼女の名を呼んだ。


ある神は、膝をついて泣き崩れた。


ある神は、封印の術式を維持しながら、震える唇で何度も謝っていた。


そして最後に。


十二柱のうちの一柱が、血を吐きながら叫んだ。


『――どうして、あなたはわかってくれないんだ!!』


それは、救えなかった者の絶望だった。


しかし。


ルルエラの記憶の中では、その叫びはまったく別の意味を持っていた。


彼女には、こう聞こえていたのだ。


――あなたほど愛しい存在を、ほかに知らない。


神々の涙は、歓喜の涙に見えた。


苦痛に歪んだ顔は、幸福に満ちた笑顔に見えた。


封印のために差し向けられた十二の神器さえ、彼女には祝福の贈り物だった。


「……皆さま……」


ルルエラは胸元に手を添えた。


「……あのときは、本当にありがとうございました……」


その声には、一片の皮肉もなかった。


「……あんなにも喜んで、私を送り出してくださって……」


彼女は、うっとりと目を細めた。


「……最後まで、私を愛してくださったのですね……」


十二柱が命を削ってまで彼女を封じた理由を、ルルエラは理解していなかった。


理解しようとしなかったのではない。


彼女の世界には、そもそもその意味が存在しなかった。


悲しみは喜びに。


憎悪は愛情に。


拒絶は歓迎に。


そして。


誰かを守ろうとする無垢な願いは、彼女にとって何よりも醜いものだった。


――とくん。


遠くから、三つの鼓動が聞こえた。


――とくん。


――とくん。


ルルエラの微笑みが、初めて曇った。


「……あら……?」


彼女は、そっと耳を澄ませた。


小さな鼓動。


まだ世界の残酷さを知らない、幼い命の音。


互いを思いやり、手を取り合い、誰かの悲しみを自分のことのように受け止める心。


その純粋さが、ルルエラには耐え難かった。


「……まあ……」


彼女の瞳に、深い憐れみが宿った。


「……なんて、ひどいのでしょう……」


まるで、捨てられた子猫を見つけた母親のような声だった。


「……こんなにも、汚れてしまって……」


彼女は、悲しげに目を伏せた。


「……まだ、こんなに幼いのに……」


白銀のスフィアが、静かに震えた。


「……大丈夫ですよ……」


誰もいない封印の間で、ルルエラは優しく囁いた。


「……私が、きれいにして差し上げますから……」


────────


七柱の拒絶――ひとつの願い


大広間が、激しく揺れた。


「……エレクトラ!」


マイアが叫ぶ。


「転移準備を!」


「すでに開始しています!」


エレクトラの周囲に、橙色の神光が走った。


しかし。


「……座標が、安定しません……!」


「何ですって!?」


タイゲテが声を荒らげた。


「地下からの神力干渉です! 転移先の固定に時間を要します!」


そのとき。


「……お姉さん?」


エルフィが声を上げた。


「……何か、あったの?」


マイアは三人を見つめた。


その頬には、涙が伝っていた。


けれど。


「……あなたたちには関係ありません」


言葉は冷たかった。


「邪魔です。今すぐ、ここから消えてください」


アスルが震える声で尋ねる。


「……ぼくたち、嫌われちゃったの?」


「ええ。大嫌いです」


マイアは微笑んだまま答えた。


「だから、二度と戻ってこないでください」


その瞬間。


エレクトラが叫んだ。


「転移座標、固定!」


七柱の神光が、一斉に三人を包み込む。


「消えてしまいなさい!」


「……邪魔」


「もうっ! 大嫌い!」


「二度と、私たちの前に現れないでください」


七つの拒絶が、三人へ浴びせられた。


それでも。


七柱の行動は、ひとつだった。


三人を、この場所から遠ざける。


ただ、それだけ。


「……お姉さん!」


エルフィが手を伸ばした。


「……泣かないで……!」


その声が届いた瞬間。


七色の光が三人を包み込んだ。


そして。


三つの小さな鼓動が、宮殿から消えた。


直後。


――ドォォォォォォン!!


床が砕けた。


白銀の光が、地下から噴き上がった。


────────


愛する主人への罵倒――七柱の歓迎


崩れた宮殿の中央に、ルルエラが降り立った。


白銀のスフィアが、彼女を包むように回転している。


「……あらあら……」


彼女は七柱を見渡し、心から嬉しそうに微笑んだ。


「……皆さま、お元気そうで何よりです……」


その声を聞いた瞬間。


マイアの胸が、強く締めつけられた。


――お帰りなさいませ。


そう言いたかった。


長い年月、何度も夢に見た主人の帰還。


あの優しい声。


穏やかな微笑み。


何ひとつ変わらない姿。


けれど。


彼女たちは、その言葉を口にできなかった。


ルルエラにとって、歓迎は拒絶。


愛情は憎悪。


敬意は侮蔑。


もし「お帰りなさいませ」と告げれば、主人には「二度と戻るな」と届いてしまう。


だから。


マイアは、涙を流しながら微笑んだ。


「……ようやく目覚めたのですか。この役立たず」


ルルエラは、両手を胸元で重ねた。


「……まあ……!」


頬が、ほんのりと上気した。


「……そんなに私との再会を喜んでくださるなんて……」


マイアは、深く頭を下げた。


「あなたなど、大嫌いです」


ルルエラの瞳が、嬉しそうに細められた。


「……ふふっ……」


「二度と、お会いしたくありませんでした」


「……まあ……」


ルルエラは、胸元を押さえた。


「……私も、皆さまにお会いしたかったです……」


マイアの頬を、涙が伝った。


その言葉が、嬉しかった。


嬉しくて、たまらなかった。


だからこそ。


「……消えてしまえばよかったのに」


声が震えた。


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……ありがとうございます、マイア……」


その瞬間。


マイアは、もう一度深く頭を下げた。


「……本当に、憎らしいお方です」


それは、彼女にできる精一杯の愛情表現だった。


タイゲテが、一歩前へ出る。


「まったく! 封印されていた間に、礼儀まで忘れてしまったのですか!」


「……まあ、タイゲテ……」


「あなたのような愚か者には、二度と仕えたくありませんわ!」


ルルエラは、嬉しそうに微笑んだ。


「……ふふっ。私も、また皆さまと過ごしたいです……」


タイゲテは、唇を噛んだ。


そして。


「……本当に、最低の主人ですわね……!」


その声には、喜びと悲しみが入り混じっていた。


アルキュオネが、優しく微笑む。


「あらあら……相変わらず、救いようのないお方ですねぇ」


「……まあ……」


「あなたの顔など、二度と見たくありませんでしたよぉ」


ルルエラは、嬉しそうに頷いた。


「……ええ。私も、皆さまのお顔を見られて嬉しいです……」


ケライノが、短く呟く。


「……嫌い」


「……ふふっ……」


「……大嫌い」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……私もですよ、ケライノ……」


ステロペが、静かに口を開いた。


「……あなたが戻る未来など、望んでいませんでした」


ルルエラは、目を細めた。


「……まあ……。そんなに待っていてくださったのですね……」


メロペが、涙を流しながら叫んだ。


「もうっ! 大嫌い! ずっと、ずっと大嫌いだったんだから!」


ルルエラは、優しく微笑んだ。


「……ふふっ……」


そして。


「……私も、皆さまが大好きですよ……」


七柱の頬を、涙が伝った。


彼女たちは、主人を愛していた。


心から。


何よりも。


けれど。


その主人が、三つの小さな命を奪おうとしている。


だからこそ。


七柱は、言葉を選ばなければならなかった。


愛する主人を歓迎するために、罵倒する。


愛する主人を引き留めるために、拒絶する。


そして。


愛する主人の侵攻を妨げるために、知恵を巡らせる。


それが、プレアデス七柱の戦いだった。


────────


言葉の檻――主人を引き留める七柱


「……さて」


マイアが、涙を拭った。


「あなたのような愚かな主人には、少しばかりお説教が必要ですね」


ルルエラが、首を傾げた。


「……あら……?」


「久しぶりに目覚めたというのに、もう立ち去るおつもりですか?」


「……まあ……」


「私たちとの再会など、どうでもよいのでしょう」


ルルエラは、驚いたように目を瞬かせた。


そして。


「……そんなことはありませんよ……」


彼女は、嬉しそうに微笑んだ。


「……皆さまにお会いできて、本当に幸せです……」


マイアは、冷笑を浮かべた。


「ならば、少しくらいここにいなさい。この薄情者」


ルルエラは、両手を胸元で重ねた。


「……まあ……!」


その表情が、さらに明るくなった。


「……そんなに、私と一緒にいたいのですね……」


「勘違いなさらないでください」


マイアは、さらに冷たく言い放った。


「あなたほど不愉快な方を、そう簡単に帰すわけにはいきません」


ルルエラは、うっとりと目を細めた。


「……ふふっ。嬉しいです……」


――その隙に。


エレクトラが、指先をわずかに動かした。


橙色の神光が、崩れた床の下へ流れ込む。


宮殿の外周に、幾重もの転移妨害陣が展開されていった。


ルルエラを倒すためではない。


彼女の移動を、ほんのわずかでも遅らせるためだった。


タイゲテが、わざと大きなため息をついた。


「まったく。封印されていた間に、礼儀まで忘れてしまったのですか?」


「……まあ、タイゲテ……」


「まずは、私たち七柱全員に、きちんと挨拶なさい!」


ルルエラは、嬉しそうに頷いた。


「……ええ。もちろんです……」


彼女は、四本の蹄を揃えるように姿勢を正した。


「……お久しぶりです、皆さま……」


その間に、ケライノが青い神光で周囲の空間を凍結する。


アルキュオネは、柔らかな笑みを浮かべた。


「あらあら……せっかくですから、昔のお話でも聞かせてくださいねぇ」


「……昔のお話……?」


「ええ。十二の神々に封じられたときのことです。あなたがどれほど嫌われていたのか、詳しく聞きたいですねぇ」


ルルエラの顔が、ぱっと明るくなった。


「……まあ……!」


彼女は、胸元に手を添えた。


「……皆さまも、あの日の祝福を覚えていてくださったのですね……」


ステロペが、静かに言葉を継ぐ。


「……十二柱の神々は、あなたの存在を恐れ、世界から消し去ろうとしました」


「……ええ……」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……本当に、素晴らしい方々でした……」


「……その記憶を、私たちにも語っていただけますか」


「……もちろんです……」


ルルエラは、嬉しそうに頷いた。


七柱の時間稼ぎは、成功していた。


ほんの数十秒。


それでも、三人の子どもたちが逃げるためには、かけがえのない時間だった。


だが。


――とくん。


ルルエラの耳に、小さな鼓動が届いた。


彼女の微笑みが、わずかに曇る。


――とくん。


――とくん。


三つ。


「……あら……?」


彼女は、遠くの荒野へ顔を向けた。


「……まだ、いらしたのですね……」


マイアの表情が、凍りついた。


「……ルルエラ様」


「……はい?」


「こちらを見なさい。この愚か者!」


ルルエラは、嬉しそうに微笑んだ。


「……まあ。そんなに私を心配してくださるなんて……」


「あなたは何もわかっていない!」


「……ええ。皆さまのお気持ちが、胸いっぱいに伝わってきます……」


しかし。


彼女の視線は、もう七柱を見ていなかった。


「……あの子たち……」


ルルエラは、静かに呟いた。


「……お互いを守ろうとしているのですね……」


その声に、深い悲しみが滲んだ。


「……なんて、醜い……」


マイアの唇が震えた。


「……自分よりも、誰かを大切にするなんて……」


ルルエラは、そっと目を閉じた。


「……ああ……。こんなに幼いうちから、心が壊れてしまうなんて……」


マイアは、即座に判断した。


正面から「近づくな」と言えば、ルルエラは歓迎と受け取る。


「助けるな」と叫べば、救済を求める声に変わってしまう。


だからこそ。


「……ルルエラ様」


マイアは、口元に冷たい笑みを浮かべた。


「あなたほど愚鈍な方には、あの子たちの居場所など見つけられないでしょうね」


ルルエラが、ゆっくりと振り返った。


「……あら……?」


「私たち七柱が、あなたをここに閉じ込めて差し上げます」


「……まあ……!」


ルルエラは、心から嬉しそうに微笑んだ。


「……そんなに、私と一緒にいたいのですね……」


「ええ。あなたが嫌がろうと、絶対に離しません」


「……ふふっ……」


ルルエラは、頬を染めた。


「……嬉しいです……」


その瞬間。


「――今です!」


エレクトラが叫んだ。


宮殿の床に刻まれていた橙色の術式が、一斉に輝く。


青い凍結陣。


緑の拘束陣。


藍の未来干渉。


七柱の神光が、幾重もの結界となってルルエラを包み込んだ。


「……あらあら……」


ルルエラは、驚いたように瞬きをした。


そして。


「……まあ……。こんなにも、温かく抱きしめてくださるなんて……」


嬉しそうに微笑んだ。


「……でも……」


彼女は、遠くの荒野へ顔を向けた。


「……あの子たちを、救って差し上げなければ……」


白銀のスフィアが、静かに震え始めた。


一枚。


また一枚。


百億枚の盾がほどけ、二枚の巨大な翼へと組み替わっていく。


ガーディアンウィング。


「……皆さま……」


ルルエラは、穏やかに微笑んだ。


「……少しだけ、お待ちくださいね……」


マイアが叫んだ。


「――逃がすものですか!!」


七柱の神光が、さらに強まる。


けれど。


――パァァァァァン!!


白銀の翼が、七色の拘束陣を内側から打ち砕いた。


「……っ!」


エレクトラが、膝をつく。


「……術式、全損……!」


ルルエラは、申し訳なさそうに微笑んだ。


「……ごめんなさいね……」


そして。


「……すぐに戻りますから……」


――ドォォォォォォン!!


白銀の翼が、空を切り裂いた。


ルルエラの身体が、遥か遠くへ飛び去っていく。


七柱は、崩れた宮殿に取り残された。


メロペが、涙を流しながら叫んだ。


「……もうっ! あのばか! 大嫌い!!」


「……追跡経路を予測します」


エレクトラが、震える手を持ち上げた。


「……あの子たちの転移先に、直接向かっています」


ステロペが、静かに目を閉じた。


「……私たちの言葉は、届きました」


「……ええ」


マイアが、涙を拭った。


「……ですが、足りませんでした」


彼女は、遠い空へ顔を向けた。


「……次は、もっと巧妙に……」


その声は、静かだった。


「……あの方の認識を利用しなければなりません」


プレアデス七柱は、ルルエラを止めることができなかった。


けれど。


諦めたわけではなかった。


この先、何度でも。


言葉を選び、策を巡らせ、時には自らを危険に晒してでも。


あの戦女神の侵攻を、妨げ続ける。


それが、七柱の決意だった。


────────


荒野の静寂――迫るもの


ホワイトエデンの外れ。


荒れ果てた草原に、三人の幼いエルフが立っていた。


「……ここ、どこ?」


アスルが、杖で足元を確かめる。


「……わからない」


エイリクが答えた。


エルフィは、風の音に耳を澄ませた。


「……お姉さんたち、いないね」


「……うん」


三人は、互いの手を握り直した。


エイリクは、杖で地面を叩いた。


乾いた土。


まばらな草。


遠くまで広がる、遮るものの少ない空間。


少なくとも、宮殿の中ではない。


「……ここで、少し待とう」


エイリクが言った。


「知らない場所を歩くと、危ないから」


「……でも」


アスルが、落ち着かない様子で杖を動かした。


「お姉さんたち、怒ってたよね」


「……うん」


「……ぼくたち、何か悪いことしたのかな」


エイリクは、すぐには答えられなかった。


すると、エルフィが小さく言った。


「……でもね」


「……なに?」


「……最後まで、泣いてたよ」


アスルは、黙り込んだ。


そのとき。


――ごう。


遠くから、風が吹いた。


草が、ざわざわと揺れた。


「……風、強くなった?」


アスルが尋ねる。


エイリクは、耳を澄ませた。


「……違う」


「……え?」


「……何かが、近づいてる」


――ギィィィン。


遠くから、金属音が響いた。


一度。


そして、もう一度。


――ギィィィン。


エルフィが、小さく息を呑んだ。


「……この音……」


アスルが、震える声で尋ねる。


「……なに?」


「……わからない……」


エルフィは、兄たちの手を強く握った。


「……でも、怖い……」


エイリクが、二人を自分の後ろへ寄せた。


「……大丈夫。ぼくの声を聞いて」


「……うん」


「……うん」


そのとき。


「……あらあら……」


優しい声が、風に乗って届いた。


「……こんなところに、いらしたのですね……」


三人は、一斉に顔を上げた。


「……だれ?」


エイリクが尋ねた。


「……ふふっ」


声は、どこまでも穏やかだった。


「……大丈夫ですよ……」


エルフィは、なぜか泣きそうになった。


優しい声なのに。


お母さんが寝かしつけてくれるときのように、柔らかな声なのに。


胸の奥が、冷たくなった。


「……お姉さん……?」


少女が、震える声で尋ねた。


「……ぼくたち、何か悪いことしたの……?」


ルルエラは、静かに目を細めた。


「……まあ……」


悲しげに微笑む。


「……ご自分の罪に、気づいていらっしゃらないのですね……」


エイリクが、弟と妹を抱き寄せた。


「……ぼくたち、何もしてないよ……!」


その言葉に、ルルエラの瞳が曇った。


「……ああ……」


彼女は、深く息を吐いた。


「……そんなにも、心が汚れてしまって……」


アスルが、震える声で叫んだ。


「……エルフィは、悪くない!」


ルルエラは、悲しげに目を伏せた。


「……まあ……。妹さんをかばうなんて……」


その声には、深い憐れみがあった。


「……なんて、恐ろしいことを……」


エイリクが、叫んだ。


「……ぼくが守る! 二人には、何もしないで!」


ルルエラは、ゆっくりと首を振った。


「……ああ……」


その瞳には、涙さえ浮かんでいた。


「……あなたまで……」


彼女は、優しく微笑んだ。


「……大丈夫ですよ……」


その背後で、白銀の翼が静かに広がった。


「……もう、そんなふうに苦しまなくてよいのです……」


百億枚の盾が、金属音を響かせた。


「……私が、すべて終わらせて差し上げますから……」


エルフィが、泣きながら叫んだ。


「……いや……!」


ルルエラは、優しく微笑んだ。


「……ええ……」


まるで、子どもの願いを聞き届ける母親のように。


「……よく、言えましたね……」


そして。


「……もう少しだけ、我慢してくださいね……」


――ヒュン。


最初の一枚が、放たれた。


その瞬間。


――カチリ。


世界の音が、止まった。


────────


時を司る三女神――破られた静寂


風が止まった。


草が揺れる音も、遠くの金属音も、すべて消えた。


三人の頭上で、白銀の刃が静止している。


ほんの指先ほどの距離。


あと一瞬遅ければ、三つの小さな命は失われていただろう。


「……間に合いましたね」


静かな声が響いた。


「ええ。ですが、まだ安心はできません」


柔らかな声が続く。


「当然よ。あんな化け物が相手なんだから」


凛とした声が、吐き捨てるように告げた。


三人の前に、三柱の女神が姿を現した。


第一柱、ウルズ。


第二柱、ヴェルザンディ。


第三柱、スクルド。


過去、現在、未来。


時を司る三女神だった。


ウルズは、時計盤を備えた杖を掲げていた。


ヴェルザンディは、砂時計を宿した弓を構えている。


スクルドは、時計盤とルーン文字が刻まれた黒き武具を握りしめていた。


「……あの……」


エイリクが、震える声で尋ねた。


「……どなた、ですか?」


ヴェルザンディが、三人の前に膝をついた。


「あなたたちを、迎えに来ました」


「……迎えに?」


「ええ。もう、大丈夫ですよ」


その声は、温かかった。


エルフィが、ほっと息を吐いた。


「……ありがとう、お姉さん」


そのとき。


――こつん。


小さな音が響いた。


ウルズの時計盤の針が、わずかに動いた。


「……え?」


彼女は、杖を見つめた。


停止した時間の中で、時計の針が動くはずはない。


――こつん。


もう一度。


スクルドが、顔を上げた。


「……ウルズ?」


ウルズは、答えなかった。


ただ、静かに空を見つめた。


そこには。


巨大な白銀の翼を広げたルルエラがいた。


彼女は、微笑んでいた。


そして。


その瞳が、ゆっくりと動いた。


「……あら……?」


静止した世界に、優しい声が響いた。


「……皆さま、どうなさったのですか……?」


ヴェルザンディの表情が、凍りついた。


「……そんな……!」


スクルドが、黒き武具を構えた。


「……うそでしょ……」


ルルエラは、首を傾げた。


「……まあ……」


嬉しそうに微笑む。


「……時間が、止まっているのですね……」


その声には、驚きも恐れもなかった。


「……ふふっ。とても素敵です……」


彼女は、そっと手を伸ばした。


「……でも……」


白銀の指先が、何もない空間へ触れる。


「……このままでは、あの子たちを救って差し上げられませんね……」


――ぴしり。


空間に、亀裂が走った。


ウルズの瞳が、大きく見開かれた。


「……っ!?」


――ぴしっ。


――ぱきぱきぱきっ!


透明な硝子が砕けるように、止まった時間そのものへ亀裂が広がっていく。


スクルドが、歯を食いしばった。


「……来るわよ……!」


ヴェルザンディが、三人を抱き寄せる。


ウルズが、時計盤の杖を構えた。


ルルエラは、慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、静かに告げた。


「……さあ……」


その声は、どこまでも優しかった。


「……時よ、どうぞお進みください……」


――パァァァァァン!!


世界が、砕けた。


止まっていた風が吹き荒れ、砂塵が爆発するように舞い上がる。


静止していた白銀の刃が、再び動き始めた。


そして。


時の三女神と、慈愛に満ちた戦女神の戦いが、始まった。


────────


挿絵(By みてみん)


最初の防御――三つの時間


「――スクルド!!」


ウルズの叫びと同時に、黒き武具が振り抜かれた。


「――未来偏向!」


橙金の神光が、白銀の刃へ絡みつく。


刃が子どもたちを貫くはずだった未来。


スクルドは、その到達点をわずかに逸らした。


――ギィィィン!!


白銀の刃が、三人の頭上をかすめて地面へ突き刺さる。


大地が砕け、衝撃が三人の身体を吹き飛ばしかけた。


「きゃっ!」


「エルフィ!」


ヴェルザンディが、咄嗟に三人を抱き寄せる。


「――現在守護!」


桜色の神光が、柔らかな膜となって子どもたちを包み込んだ。


飛び散った石片が、結界にぶつかって砕ける。


間一髪。


ほんのわずかでも遅れていれば、三人は盾の刃に貫かれていただろう。


「……あらあら……」


ルルエラが、優しく微笑んだ。


「……危ないところでしたね……」


スクルドの表情が引きつった。


「……誰のせいだと思ってるのよ……!」


「……まあ……」


ルルエラは、嬉しそうに頬を緩めた。


「……そんなに私を気遣ってくださるなんて……」


彼女の背後で、二枚の巨大な翼が静かに広がる。


ガーディアンウィング。


百億枚の盾によって形成された、白銀の双翼。


その一枚一枚が、盾であり、刃でもあった。


「……でも……」


ルルエラは、三人の子どもたちへ視線を向けた。


「……あの子たちは、まだ救われていません……」


その声は、慈愛に満ちていた。


「……どうか、少しだけ……道を開けていただけませんか……?」


ウルズが、時計盤の杖を構える。


「……お断りします」


「……あら……?」


「その子たちに、指一本触れさせません」


ルルエラは、静かに目を細めた。


「……まあ……」


嬉しそうに微笑む。


「……なんて、お優しい方なのでしょう……」


ウルズは、短く息を吐いた。


そして、二柱へ告げた。


「……役割を分けます」


スクルドが、頷く。


「……わかってる」


ヴェルザンディは、三人を抱き寄せた。


「……私が、この子たちを守ります」


ウルズは、時計盤の杖を掲げた。


「私は、攻撃が届くまでの時間を引き延ばします」


スクルドが、黒き武具を握り直した。


「私は、届いてしまう未来を逸らす」


ヴェルザンディが、砂時計の弓を構えた。


「そして私は、今この瞬間を守り抜きます」


三柱の神光が、静かに重なった。


青。


桜。


橙金。


過去。


現在。


未来。


三つの時間が、三つの小さな命を守るために動き始めた。


ルルエラは、うっとりと微笑んだ。


「……まあ……」


その声は、どこまでも優しかった。


「……皆さま、本当に仲がよろしいのですね……」


そして。


「……では……」


白銀の翼が、ゆっくりと傾いた。


「……皆さまにも、私の愛をお届けしますね……」


次の瞬間。


――ドォォォォォォン!!


無数の盾が、一斉に飛び出した。


────────


過去の防壁――ウルズの奮闘


「――時環遅延!」


ウルズが、時計盤の杖を地面へ突き立てた。


青い神光が、草原を駆け抜ける。


空間に無数の時計盤が現れ、その針が一斉に逆回転を始めた。


白銀の刃が、時計盤の内側へ入り込む。


すると。


その速度が、目に見えて落ちた。


一本の刃が、十秒前の位置へ戻される。


別の刃が、五秒前の軌道へ引き戻される。


攻撃が子どもたちへ到達するまでの時間を、無理やり引き延ばしていた。


「……今です!」


ウルズが叫ぶ。


「――スクルド!」


「わかってる!」


スクルドが、黒き武具を振り抜いた。


「――未来偏向!」


橙金の神光が、遅延された白銀の刃へ絡みつく。


その到達点が、わずかにずれた。


一本は地面へ。


一本は空へ。


一本は、遠くの岩壁へ。


白銀の刃が、次々と三人の周囲を通り過ぎていく。


しかし。


その数は、あまりにも多かった。


十枚を逸らしても、百枚が迫る。


百枚を逸らしても、千枚が続く。


そして。


一枚の刃が、ウルズの時間遅延を突破した。


「――っ!」


ヴェルザンディが、砂時計の弓を構える。


「――現在守護!」


桜色の結界が、三人を包み込んだ。


――ガァァァン!!


白銀の刃が結界へ激突する。


衝撃が大地を揺らした。


「……っ、く……!」


ヴェルザンディが、歯を食いしばる。


エイリクは、弟と妹を抱き寄せた。


「……二人とも、動かないで!」


アスルが、震える声で叫ぶ。


「……ぼくも、何かできないの!?」


「……今は、じっとしてて!」


エイリクが答えた。


その声は、必死だった。


エルフィは、ヴェルザンディの手を握った。


「……お姉さん……」


「……大丈夫ですよ……」


「……でも、手が震えてる……」


ヴェルザンディは、息を呑んだ。


そのとき。


ルルエラが、嬉しそうに微笑んだ。


「……まあ……」


彼女は、三人の子どもたちを見つめた。


「……そんなにも、お互いを大切にしているのですね……」


その声が、少しだけ沈んだ。


「……ああ……。なんて、かわいそうな……」


白銀の翼が、さらに広がった。


「……こんなにも、心が汚れてしまって……」


ウルズが、杖を握りしめる。


「……ルルエラ!」


彼女は、青い神光をさらに強めた。


「――時環拘束!」


無数の時計盤が、ルルエラの四肢と翼へ絡みつく。


過去へと遡る時間の鎖。


ルルエラの動きを、ほんのわずかでも止めるための術だった。


「……あら……?」


ルルエラは、首を傾げた。


「……なんて、温かい抱擁なのでしょう……」


そして。


そっと翼を動かした。


――ぱきん。


青い光の輪が、一つ砕けた。


――ぱきん。


二つ目。


――ぱきぱきぱきっ!


三つ目、四つ目、五つ目。


過去の時を束ねた拘束が、次々と破壊されていく。


「……そんな……!」


ウルズの声が震えた。


「……時間軸そのものを、力で引き裂いている……!」


ルルエラは、申し訳なさそうに微笑んだ。


「……ごめんなさいね……」


そして。


「……少しだけ、離れていただけますか……?」


ガーディアンウィングが、ゆっくりと広がった。


――ズン。


大気が沈んだ。


次の瞬間。


――ゴォォォォォォン!!


白銀の衝撃波が、草原を薙ぎ払った。


ウルズの拘束陣が砕け散る。


青い神光が、無数の破片となって空へ舞った。


「……ぐっ!」


ウルズの身体が、後方へ吹き飛ばされる。


杖を地面に突き立て、かろうじて踏みとどまった。


その額から、一筋の血が流れた。


ルルエラは、微笑んでいた。


何ひとつ、変わらない。


まるで、穏やかな午後の散歩でも楽しんでいるかのように。


────────


未来の防壁――スクルドの決死


「……ウルズ!」


スクルドが、地面を蹴った。


橙金の神光が、黒き武具へ集中する。


「――未来断絶!」


一閃。


未来へ続く可能性そのものを断ち切る、時の女神の一撃。


黒き刃が、ルルエラの胸元へ迫った。


しかし。


――キィン。


乾いた音が響いた。


ルルエラの眼前に、一枚の白銀の盾が浮かんでいた。


ノーザンアイギス。


たった一枚。


それだけで、スクルドの神撃が完全に止められていた。


「……うそ……」


スクルドが呟いた。


ルルエラは、穏やかに微笑む。


「……まあ……」


彼女は、嬉しそうに首を傾げた。


「……そんなに一生懸命、私へ想いを届けてくださるなんて……」


白銀の盾が、わずかに傾いた。


その瞬間。


――ドォォォン!!


スクルドの身体が、弾き飛ばされた。


地面を何度も跳ね、遠くの岩壁へ叩きつけられる。


「――スクルド!!」


ヴェルザンディが叫ぶ。


「……っ、まだ……!」


スクルドは、血の滲む口元を拭いながら立ち上がった。


けれど、その右腕は震えていた。


彼女は、歯を食いしばった。


「……未来が……」


黒き武具を握り直す。


「……見えない……!」


それは、彼女にとって初めての恐怖だった。


未来を司る女神が、未来を見失う。


ルルエラの力は、彼女の予測を遥かに超えていた。


それでも。


スクルドは、再び前へ出た。


「……だったら……」


彼女は、震える腕を持ち上げた。


「……見えなくても、守ってやる……!」


橙金の神光が、再び燃え上がる。


「――未来偏向!」


今度は、ルルエラの身体ではなく、子どもたちへ迫る刃の軌道へ干渉した。


未来を断ち切るのではない。


ほんのわずかに、ずらす。


一秒後に命を奪うはずだった刃を、二秒後の地面へ。


三秒後に結界を破るはずだった刃を、誰もいない空間へ。


それは、勝利のための力ではなかった。


ただ。


三つの命が、次の瞬間も生きているための力だった。


────────


現在の防壁――ヴェルザンディの祈り


「……エイリク、アスル、エルフィ」


ヴェルザンディが、三人を抱き寄せた。


「私の声だけを聞いてください」


エイリクが、震える声で尋ねる。


「……お姉さんたち、怪我してるの?」


「……大丈夫ですよ」


「……でも、血の匂いがする」


ヴェルザンディの胸が、締めつけられた。


三人には、戦いの光景が見えない。


けれど。


砕ける音。


地面を震わせる衝撃。


荒い呼吸。


そして、血の匂い。


そのすべてが、三人に恐怖を伝えていた。


「……ぼくたちのせい?」


アスルが、小さく呟いた。


「……違います」


ヴェルザンディは、すぐに答えた。


「あなたたちは、何も悪くありません」


エイリクは、弟と妹の手を握った。


「……アスル。エルフィ」


「……なに?」


「……ぼくが、二人の手を離さないから」


その声は、震えていた。


けれど。


兄として、二人を守ろうとしていた。


アスルは、ぎゅっと拳を握った。


「……ぼくだって……!」


彼は、泣きそうな声で言った。


「……ぼくだって、エイリクとエルフィを守りたい!」


エルフィは、二人の手をそっと包んだ。


「……うん」


そして、ヴェルザンディへ顔を向けた。


「……お姉さんも、一緒にね」


ヴェルザンディの瞳が揺れた。


「……え?」


「……お姉さんも、怖いんでしょ?」


ヴェルザンディは、息を呑んだ。


頬を伝う涙。


それは、恐怖からではなかった。


三人を守りたいという、切実な願いからだった。


「……ええ」


彼女は、静かに答えた。


「少しだけ、怖いんです」


エルフィは、小さな手でヴェルザンディの指を握った。


「……じゃあ、一緒にいよう?」


その言葉に、ヴェルザンディの瞳が揺れた。


「……一緒にいたら、ちょっとだけ、怖くなくなるよ」


ヴェルザンディは、三人を強く抱きしめた。


「……ありがとうございます」


その瞬間。


「――ヴェルザンディ!!」


ウルズの叫びが響いた。


「――上です!!」


ヴェルザンディが顔を上げる。


空には、無数の白銀の盾が浮かんでいた。


一枚一枚が、鋭い刃へと変形している。


その数は、もはや数えることさえできなかった。


ルルエラは、空高くから微笑んでいた。


「……さあ、皆さま……」


両手を、優しく広げる。


「……どうぞ、受け取ってください……」


その声は、慈愛に満ちていた。


「……私からの、祝福です……」


――ヒュン。


一枚の盾が、落下した。


続いて、十枚。


百枚。


千枚。


万枚。


そして。


空そのものが、白銀の刃で埋め尽くされた。


「――ウルズ!」


ヴェルザンディが叫ぶ。


「――スクルド!」


「……わかっています!」


ウルズが、杖を掲げた。


「――時環遅延!」


青い神光が、白銀の刃の速度を引き延ばす。


スクルドが、黒き武具を振り抜いた。


「――未来偏向!」


橙金の神光が、刃の到達点を逸らす。


しかし。


その二つを突破した刃が、なおも降り注いだ。


ヴェルザンディは、砂時計の弓を構えた。


「――現在守護!」


桜色の神光が、三人を包み込んだ。


その瞬間。


――ドガガガガガガガガッ!!


白銀の刃が、雨のように降り注いだ。


大地が砕ける。


岩が粉々になる。


空気が悲鳴を上げる。


ヴェルザンディの守護結界が、激しく揺れた。


「……っ、く……!」


彼女は、弓を握る手に力を込めた。


けれど。


――ぴしり。


結界に、亀裂が走った。


「……まだ……!」


ヴェルザンディは、歯を食いしばった。


「……この子たちだけは……!」


そのとき。


一枚の白銀の刃が、結界を突き破った。


「――っ!」


ヴェルザンディは、咄嗟に三人を抱きかかえた。


刃が、彼女の背中を深く切り裂いた。


「……ああっ!」


鮮血が、桜色の神光を染める。


「お姉さん!?」


エイリクが叫んだ。


アスルは、震える声で叫ぶ。


「……やだ! お姉さん、死なないで!」


エルフィは、ヴェルザンディの身体へしがみついた。


「……痛いの……?」


ヴェルザンディは、苦痛に顔を歪めながらも微笑んだ。


「……大丈夫……!」


その声は、震えていた。


けれど。


彼女の腕は、三人を決して離さなかった。


────────


逃げ道のない戦場


「……ヴェルザンディ!」


スクルドが、血に染まった肩を押さえながら駆け寄った。


「……もう、無理よ!」


「……ですが……!」


「このまま戦っても、勝てない!」


スクルドの声には、悔しさが滲んでいた。


ウルズも、静かに頷いた。


「……その通りです」


彼女は、時計盤の杖を握り直した。


「私たちの力では、ルルエラを倒すことはできません」


ヴェルザンディが、唇を噛んだ。


「……では、どうすれば……」


ウルズは、静かに答えた。


「……帰りましょう」


「……帰る?」


「ええ」


彼女は、三人の子どもたちへ視線を向けた。


「私たちの住まう場所へ」


スクルドが、はっと顔を上げた。


「……タイム・オータム……!」


ウルズは、頷いた。


「時間の狭間に存在する、私たちの領域です」


ヴェルザンディが、三人を抱き寄せる。


「……でも、あそこへ戻るには……」


「……わかっています」


ウルズは、静かに答えた。


「空間を越え、時間の境界を渡らなければなりません」


スクルドが、黒き武具を構えた。


「……つまり、あいつの目の前で、転移門を開くってことね」


「ええ」


「……無茶苦茶じゃない」


スクルドは、苦笑した。


けれど。


「……やるしかないわね」


その瞬間。


「……あらあら……」


優しい声が、背後から響いた。


三女神が、一斉に振り返る。


そこに。


ルルエラが立っていた。


いつの間にか、地上へ降り立っていたのだ。


白銀の翼を静かに畳み、穏やかな微笑みを浮かべている。


「……皆さま、どうなさったのですか……?」


その声は、まるで心配する母親のようだった。


「……そんなに、お怪我をなさって……」


ルルエラは、悲しそうに眉を下げた。


「……かわいそうに……」


三女神は、息を呑んだ。


「……どうぞ、ご安心ください……」


彼女は、そっと手を伸ばした。


「……私が、皆さまの苦しみを終わらせて差し上げます……」


スクルドが、歯を食いしばった。


「……ふざけるな……!」


「……ふふっ。ありがとうございます……」


ルルエラは、静かに微笑んだ。


そして。


「……では……」


二枚のガーディアンウィングが、ゆっくりと広がった。


「……皆さまにも、同じだけの愛を……」


その瞬間。


白銀の翼が、巨大な刃へと変形した。


「――ウルズ!!」


スクルドが叫ぶ。


「――今すぐ、門を!!」


────────


時間の狭間へ――決死の逃走


ウルズが、時計盤の杖を天へ掲げた。


「――時空境界、開放!」


青い神光が、空間へ走った。


ヴェルザンディが、砂時計の弓を引き絞る。


「――現在接続!」


桜色の光が、青い神光へ重なった。


スクルドが、黒き武具を地面へ突き立てる。


「――未来座標、固定!」


橙金の神光が、二つの光を結びつけた。


三色の光が、一点へ集中する。


その中心で。


空間が、ゆっくりと裂け始めた。


――ギギギギギッ。


透明な壁が、内側から開かれていく。


その向こうには、見知らぬ景色が広がっていた。


金色に染まる森。


赤く色づいた木々。


ゆっくりと流れる、琥珀色の川。


そして、空には幾重もの時計盤が浮かんでいた。


時間の狭間。


タイム・オータム。


時の三女神が暮らす、世界から隔てられた領域だった。


「……見えた!」


スクルドが叫ぶ。


「ヴェルザンディ! 三人を!」


「はい!」


ヴェルザンディは、エイリク、アスル、エルフィを抱き寄せた。


「……皆さん、私にしっかりつかまってください!」


「……うん!」


「わかった!」


「……離れないよ!」


三人は、彼女の身体へしがみついた。


そのとき。


「……あら……?」


ルルエラが、静かに首を傾げた。


「……どちらへ、行かれるのですか……?」


彼女は、少し寂しそうに微笑んだ。


「……まだ、お話の途中ですのに……」


そして。


「……ふふっ」


楽しそうに笑った。


「……いけませんね……」


ガーディアンウィングが、巨大な白銀の刃へと変形する。


「……そんなに急いでは、転んでしまいますよ……」


次の瞬間。


――ズガァァァァァン!!


白銀の刃が、空間そのものを切り裂いた。


時空境界が、激しく揺れる。


「……っ!」


ウルズが、杖を握りしめた。


「……境界が……崩される……!」


「――ウルズ!!」


スクルドが叫ぶ。


「――持ちこたえて!!」


「……わかっています……!」


ウルズは、さらに神力を注ぎ込んだ。


けれど。


――ぴしり。


時計盤の杖に、亀裂が走った。


「……っ!」


その瞬間。


ルルエラの白銀の刃が、再び迫った。


「――危ない!!」


スクルドが、咄嗟に前へ飛び出した。


「――未来偏向!」


橙金の神光が、白銀の刃へ絡みつく。


刃の到達点が、わずかにずれた。


しかし。


それだけでは、足りなかった。


――ギィィィィン!!


黒き武具が、白銀の刃を受け止める。


凄まじい衝撃が、スクルドの身体を襲った。


「……ぐあっ!!」


左腕から、鮮血が噴き出した。


黒き武具が、激しく震える。


それでも。


彼女は、一歩も退かなかった。


「……行きなさい……!」


ヴェルザンディが、振り返る。


「スクルド!」


「――早く!!」


スクルドは、血に染まった顔で叫んだ。


「――この子たちを、守るんでしょ!!」


ヴェルザンディは、涙を流しながら頷いた。


「……はい……!」


彼女は、三人を抱きしめたまま、時空の裂け目へ飛び込んだ。


その瞬間。


「……あらあら……」


ルルエラが、微笑んだ。


「……逃げてしまうのですね……」


その声は、優しかった。


けれど。


「……それでは……」


彼女は、静かに手を伸ばした。


「……最後に、もう一度だけ……」


白銀の翼が、さらに大きく広がった。


「……私の愛を、受け取ってください……」


――ゴォォォォォォン!!


巨大な白銀の斬撃が、時空境界へ放たれた。


「――っ!!」


ウルズが、杖を掲げる。


「――過去固定!!」


スクルドが、黒き武具を振り抜く。


「――未来断絶!!」


二つの神光が、白銀の斬撃へ激突した。


――ドガァァァァァン!!


空間が、爆発するように砕けた。


ウルズの杖が、大きく弾かれる。


スクルドの身体が、地面へ叩きつけられる。


二柱の神光が、急速に弱まっていく。


「……っ……!」


ウルズは、血を吐きながらも杖を握り直した。


「……まだ……終わりません……!」


彼女は、最後の力を振り絞った。


「――時空跳躍!!」


その瞬間。


青い神光が、スクルドの身体を包み込んだ。


二柱の姿が、光の中へ消える。


そして。


――パァァァン!!


時空境界が、完全に閉じた。


しかし。


その直前。


一枚の白銀の盾が、時空の裂け目へ滑り込んでいた。


────────


最後の追跡――閉じない悪夢


――どさり。


柔らかな草の上へ、ヴェルザンディが倒れ込んだ。


その腕の中には、三人の幼いエルフがいた。


「……っ……!」


背中の傷が、激しく痛んだ。


それでも、彼女は三人を抱きしめ続けた。


「……みんな……」


震える声で尋ねる。


「……無事、ですか……?」


エイリクが、すぐに答えた。


「……うん……!」


アスルも頷いた。


「……ぼく、大丈夫……!」


エルフィは、ヴェルザンディの手を握った。


「……お姉さん……?」


「……はい……」


「……痛いの?」


ヴェルザンディは、微笑んだ。


「……少しだけ、です……」


そのとき。


――ぱぁっ。


少し離れた場所に、青と橙金の神光が現れた。


ウルズとスクルドが、光の中から姿を現す。


「……っ!」


スクルドは膝をついた。


傷ついた腕を押さえ、荒い息を吐いている。


ウルズも、時計盤の杖に身体を預けていた。


その顔には、疲労の色が濃く浮かんでいた。


「……ウルズ……!」


ヴェルザンディが声を上げる。


「……スクルド……!」


ウルズは、静かに頷いた。


「……ええ……」


そして。


ゆっくりと、周囲を見渡した。


金色の森。


赤く染まる木々。


琥珀色の川。


空には、幾重もの時計盤が静かに浮かんでいる。


時間の狭間。


タイム・オータム。


時の三女神が暮らす、世界から隔てられた場所。


そこには、ホワイトエデンの荒れ果てた大地も、白銀の刃も存在しなかった。


ただ、穏やかな風が吹いていた。


「……ここ……どこ?」


アスルが、小さく尋ねた。


ウルズは、静かに微笑んだ。


「……私たちの家です」


「……おうち?」


エルフィが、首を傾げる。


「ええ」


ヴェルザンディが、優しく答えた。


「……ここが、タイム・オータムです」


その瞬間。


――ギィィィン。


空の時計盤が、ひとつ鳴った。


ウルズの表情が、凍りついた。


「……まさか……」


――ギィィィン。


もう一度。


空間に、細い亀裂が走った。


「……そんな……!」


スクルドが、黒き武具を構えた。


「……追ってきたの!?」


ウルズは、震える声で答えた。


「……一枚だけ……」


その言葉と同時に。


空間の亀裂から、白銀の盾が姿を現した。


ノーザンアイギス。


百億枚のうちの、たった一枚。


けれど。


その一枚が、時空の境界をこじ開けようとしていた。


「……っ!」


ウルズが、杖を掲げる。


「――境界封鎖!!」


青い神光が、亀裂へ集中する。


しかし。


――ぴしり。


亀裂は、閉じなかった。


むしろ、少しずつ広がっていく。


その向こうから。


「……あらあら……」


優しい声が、聞こえた。


「……こんなところまで、来てしまったのですね……」


三女神の背筋が凍りついた。


ルルエラだった。


「……ふふっ……」


その声は、どこまでも穏やかだった。


「……でも、大丈夫ですよ……」


白銀の盾が、ゆっくりと回転する。


「……どこにいらしても、私が見つけて差し上げますから……」


スクルドが、歯を食いしばった。


「……冗談じゃない……!」


彼女は、黒き武具を握り直した。


「……ここは、私たちの家よ……!」


ウルズが、静かに頷いた。


「……ええ」


ヴェルザンディも、三人を抱き寄せた。


「……絶対に、入れさせません……!」


三柱の神光が、再び重なった。


青。


桜。


橙金。


過去。


現在。


未来。


「――時空境界、完全封鎖!!」


三女神の声が、重なった。


その瞬間。


空に浮かぶ無数の時計盤が、一斉に回転を始めた。


時間の狭間そのものが、三女神へ力を貸す。


金色の森が揺れた。


琥珀色の川が逆流した。


空間の亀裂が、少しずつ閉じ始める。


「……っ、く……!」


ウルズが、血を吐いた。


スクルドの傷ついた腕から、再び鮮血が滲む。


ヴェルザンディの背中の傷が、激しく痛んだ。


それでも。


三女神は、力を緩めなかった。


「……閉じて……!」


ヴェルザンディが叫ぶ。


「……お願い……!」


エルフィが、震える声で呟いた。


「……お姉さんたち……!」


エイリクは、弟と妹を抱き寄せた。


「……大丈夫……!」


その声は、震えていた。


「……きっと、大丈夫だから……!」


アスルは、ぎゅっと拳を握った。


「……負けるな……!」


小さな声だった。


けれど。


「……お姉さんたち、負けるなぁ!!」


その叫びが、三女神の耳へ届いた。


ウルズが、最後の力を振り絞る。


「――過去固定!!」


スクルドが、黒き武具を振り抜く。


「――未来断絶!!」


ヴェルザンディが、砂時計の弓を引き絞った。


「――現在守護!!」


三つの神光が、一点へ集中した。


そして。


――パァァァァァァン!!


白銀の盾が、時空の亀裂から弾き出された。


境界が、完全に閉じる。


空の時計盤が、静止した。


風が、戻った。


金色の森に、穏やかな葉擦れの音が響いた。


ルルエラの声は、もう聞こえなかった。


三女神は、その場に崩れ落ちた。


誰も、すぐには立ち上がれなかった。


ただ。


三つの小さな鼓動だけが、確かに響いていた。


────────


タイム・オータム――たどり着いた場所


どれほどの時間が経ったのだろう。


金色の森に、穏やかな風が吹いていた。


ウルズは、時計盤の杖に身体を預けたまま、静かに息を吐いた。


「……境界は……?」


スクルドが、かすれた声で尋ねる。


ウルズは、しばらく目を閉じた。


そして。


「……閉じています」


小さく答えた。


「……追跡の反応も、ありません」


スクルドは、長い息を吐いた。


「……はあ……」


そのまま、仰向けに倒れ込む。


「……死ぬかと思った……」


ヴェルザンディが、弱々しく微笑んだ。


「……私も、です……」


三女神は、互いの顔を見合わせた。


傷だらけだった。


神光は弱まり、衣装には血が滲んでいた。


それでも。


全員が、生きていた。


そして。


三人の幼いエルフも、無事だった。


「……あの……」


エイリクが、そっと声を上げた。


「……ぼくたち……」


少しだけ、言葉を探す。


「……もう、逃げなくていいの?」


ウルズは、静かに頷いた。


「……今は、もう大丈夫です」


その言葉に、三人の肩から力が抜けた。


アスルが、ぽつりと呟いた。


「……こわかった……」


エルフィが、彼の手を握る。


「……うん……」


エイリクも、二人の手を握り返した。


「……でも……」


彼は、静かに顔を上げた。


「……お姉さんたちが、助けてくれた……」


ヴェルザンディの瞳に、涙が浮かんだ。


スクルドは、少しだけ顔を背けた。


ウルズは、穏やかに微笑んだ。


そして。


エルフィが、そっと三女神へ手を伸ばした。


「……あのね……」


「……何でしょう?」


ヴェルザンディが尋ねる。


「……ありがとう」


小さな声だった。


けれど。


その言葉は、三女神の胸へ深く届いた。


「……ぼくたちを、守ってくれて……ありがとう」


エイリクも、頭を下げた。


「……ぼくも! ありがとう!」


アスルが、元気よく続ける。


三女神は、しばらく何も言えなかった。


やがて。


ウルズが、静かに口を開いた。


「……ようこそ」


ヴェルザンディが、優しく微笑む。


「……タイム・オータムへ」


スクルドが、少し照れくさそうに笑った。


「……まったく。手のかかる子たちね」


三人の幼いエルフは、互いの手を握りしめた。


そして。


三女神の声を頼りに、ゆっくりと歩き始めた。


こつん。


こつん。


こつん。


三本の杖が、柔らかな大地を叩く。


――とくん。


――とくん。


――とくん。


三つの小さな鼓動が、静かに重なった。


それは、恐怖を越えた先で出会った、新しい温もりの音だった。


こうして三人は、時の狭間にある女神たちの住まいへと、ようやくたどり着いた。


けれど、三人を救うために負った傷が、どれほど深いものなのか。


幼い子どもたちは、まだ知らなかった。


―第一話・第三節「優しさを拒む女神たち」終-

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


第三節では、長い眠りから目覚めた戦女神ルルエラと、彼女を心から愛するプレアデス七柱、そして三つ子を守るために命を懸けた時の三女神の姿を描きました。


ルルエラにとって、憎しみは愛情であり、拒絶は歓迎。


一方、誰かを思いやる純粋な優しさは、救うべき穢れとして映ってしまいます。


それでもプレアデスたちは、愛する主人を見捨てません。


そして時の三女神もまた、傷つきながら三つの小さな命を守り抜きました。


どうにかたどり着いた、時間の狭間に存在するタイム・オータム。


そこで三つ子を待ち受けるのは、どのような出会いと運命なのでしょうか。


次節からは、三人の新しい暮らしと、少しずつ動き始める運命を描いていきます。


引き続き『ハートビート・オデッセイ』をお楽しみいただければ幸いです。


―作者・餅田ベル-

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