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第一話・第四節『傷ついた女神と、三つの小さな手』

誰かを守りたいと願う心。


その想いは、ときに神々の力さえも超えていく。


傷ついた三女神と、三つの小さな命。


そして、遠い過去に世界を守るため、愛する者との別れを選んだ十二柱の女神たち。


それぞれの愛が、長い時を越えて結びつき始めます。


第一話第四節「傷ついた女神と、三つの小さな手」。


どうか、彼女たちの想いに耳を傾けていただけたら幸いです。

傷ついた女神と、三つの小さな手


――さらさら。


黄金色の葉が、柔らかな風に揺れていた。


金色に輝く森。


深紅に染まる木々。


ゆっくりと流れる琥珀色の川。


そして、空に浮かぶ無数の時計盤。


時間の狭間に存在する、時の三女神の住まい。


タイム・オータム。


そこには、世界のどこにも存在しない、不思議な秋が広がっていた。


――こつん。


小さな杖が、柔らかな土を叩く。


――こつん、こつん。


続いて、二本の杖が同じ地面を確かめた。


三人の幼いエルフ。


長男、エイリク。


次男、アスル。


長女、エルフィ。


三人は五歳。


生まれつき目が見えず、金糸の刺繍が施された黄金の目隠しを身につけていた。


月の意匠を持つ杖。


太陽の意匠を持つ杖。


花の意匠を持つ杖。


三本の小さな杖が、森の静寂に音を響かせていた。


「……ねえ」


アスルが、兄の袖を引いた。


「……お姉さんたちのおうち、まだ?」


「……わからない」


エイリクは、少し考えた。


「……でも、森の匂いがするね」


「……うん!」


エルフィが、嬉しそうに笑った。


「……葉っぱが、いっぱいあるね」


三人は、耳を澄ませた。


風の音。


落ち葉の音。


川のせせらぎ。


そして。


すぐ後ろから聞こえる、大きな足音。


――どすん。


――どすん。


時の三女神だった。


過去を司るウルズ。


現在を司るヴェルザンディ。


未来を司るスクルド。


三柱は、いずれも身長五メートル。


小さな三つ子とは、あまりにも歩幅が違っていた。


「……ウルズ」


スクルドが、静かに声をかけた。


「……このまま歩かせてたら、日が暮れるわよ」


ウルズは、三人の小さな背中を見つめた。


「……そうですね」


そして。


時計盤の杖を、そっと掲げた。


「――時環浮遊」


青い神光が、三人の身体を包み込む。


同時に、スクルドが片手を上げた。


「――未来軌道、安定」


橙金の神光が、青い光へ重なった。


その瞬間。


――ふわり。


三人の足が、地面から離れた。


「……わあっ!」


アスルが、歓声を上げた。


「エイリク! ぼく、浮いてる!」


「……うん。ぼくも!」


「……ふわふわする!」


エルフィが、くすくす笑った。


三人は、柔らかな神光に包まれながら、女神たちの歩みに合わせて進んでいく。


「……怖くありませんか?」


ウルズが、優しく尋ねた。


「……ううん!」


アスルが、元気よく答えた。


「すっごく楽しい!」


「……落ちたりしない?」


エイリクが、少し心配そうに尋ねる。


スクルドが、鼻を鳴らした。


「……ふん。誰に言ってるのよ」


彼女は、得意げに微笑んだ。


「私たちは、時を司る三女神よ。これくらい、朝飯前なんだから」


「……すごい!」


アスルが、嬉しそうに笑った。


けれど。


スクルドの額には、うっすらと汗が浮かんでいた。


先ほどの戦いで負った傷。


消耗した神力。


その身体は、まだ十分に回復していなかった。


それでも。


三人の楽しそうな声を聞いていると、不思議と痛みが和らぐような気がした。


「……お姉さん」


エルフィが、そっと声を上げた。


「……なによ?」


「……手、痛くない?」


スクルドの表情が、わずかに固まった。


「……別に」


「……でも、さっきから息が苦しそう」


「……気のせいよ」


「……そっか」


エルフィは、それ以上尋ねなかった。


ただ。


「……早く、おうちに帰ろうね」


そう言って、優しく微笑んだ。


スクルドは、何も答えられなかった。


少し後ろでは、ヴェルザンディがゆっくりと歩いていた。


桜色の神光は弱まり、背中の傷からは今も血が滲んでいる。


彼女は、三人の子どもたちを見つめた。


小さな身体。


小さな手。


そして、互いを気遣う優しい声。


――どうして。


こんなにも、愛おしいのだろう。


ヴェルザンディは、静かに微笑んだ。


その瞬間。


背中に鋭い痛みが走った。


「……っ!」


彼女の足が、わずかにもつれた。


ウルズが振り返る。


「……ヴェルザンディ?」


「……大丈夫です」


ヴェルザンディは、無理に微笑んだ。


「……もう少し、ですから……」


ウルズは、彼女の背中を見つめた。


白銀の神力。


それが傷口の奥深くで、今も消えずに残っている。


あの戦女神が放った、慈愛の名を持つ破壊の力。


――ルルエラ。


ウルズは、そっと杖を握り直した。


────────


三女神の住まい――温かな時計の家


黄金の森を抜けた先。


小さな丘の上に、巨大な時計塔が立っていた。


塔の周囲には、白亜の石造りの建物が連なっている。


秋色の蔦が壁を伝い、窓辺には小さな花々が咲いていた。


五メートルの女神たちに合わせて造られた住まいは、三つ子にとってはお城のような大きさだった。


もっとも。


三人には、その姿を見ることができない。


「……あれ?」


エイリクが、ふと顔を上げた。


「……鐘の音がする」


――からん。


風に揺れた鐘が、小さく響いた。


「……ほんとだ!」


アスルが、耳を澄ませる。


「……おうち?」


「ええ」


ウルズが微笑んだ。


「私たちの家に着きましたよ」


「……わあ!」


エルフィが、嬉しそうに声を弾ませた。


大きな玄関扉をくぐり、三人を包んでいた神光が、ゆっくりと高度を下げていく。


柔らかな絨毯の上へ、小さな足が降り立った。


――とん。


「……あ!」


アスルが笑った。


「地面だ!」


エルフィが、にっこり微笑む。


「……おかえり、だね」


その言葉に、三女神は思わず顔を見合わせた。


おかえり。


長い年月を生きてきた彼女たちにとって、ありふれた言葉のはずだった。


けれど。


こんなにも温かく聞こえたのは、いつ以来だろう。


「……そうですね」


ヴェルザンディが、小さく頷いた。


「……ただいま、です」


その瞬間。


――ぽたり。


床に、赤い雫が落ちた。


ヴェルザンディの膝が、崩れた。


「――ヴェルザンディ!」


ウルズが、咄嗟に身体を支える。


スクルドが駆け寄った。


「ちょっと! しっかりしなさい!」


「……すみ、ません……」


ヴェルザンディは、苦しげに息を吐いた。


背中の傷が、先ほどよりも広がっていた。


白銀の光が、傷口の奥で脈打っている。


ルルエラの神器、ノーザンアイギス。


その神力が、今もヴェルザンディの身体を侵していた。


「……治癒を!」


スクルドが叫んだ。


ウルズは、時計盤の杖を掲げた。


「――過去修復!」


青い神光が、ヴェルザンディを包み込む。


傷つく前の身体へ。


血が流れる前の時間へ。


過去を司る女神の権能が、彼女の身体を巻き戻そうとした。


しかし。


――ぱきん。


青い光が、砕け散った。


「……っ!」


ウルズが、杖を握りしめる。


「……過去が、拒絶されている……!」


スクルドが歯を食いしばった。


「だったら、未来を!」


橙金の神光が、彼女の周囲に広がる。


「――未来接続!」


傷が癒えた未来。


再び笑顔を取り戻す未来。


その可能性を、現在へ引き寄せようとする。


けれど。


――ぱきん。


未来を映す時計盤が、ひとつ砕けた。


続いて、二つ。


三つ。


「……うそ……!」


スクルドの声が震えた。


「……治る未来が、見つからない……!」


ヴェルザンディは、薄く目を開けた。


「……二人とも……」


「喋らないで!」


スクルドが、涙声で叫んだ。


「……お願いだから……!」


そのとき。


――こつん。


小さな杖の音がした。


「……お姉さん?」


エイリクだった。


アスルも、不安そうに声を上げた。


「……どうしたの?」


エルフィは、じっと耳を澄ませていた。


荒い呼吸。


震える声。


床へ落ちる、血の雫。


そして。


誰かが、痛みに耐えている気配。


「……ねえ」


少女が、そっと尋ねた。


「……お姉さん、痛いの?」


ヴェルザンディは、答えようとした。


「……大丈夫、ですよ……」


けれど。


その声は、あまりにも弱々しかった。


エイリクが、杖を握りしめる。


「……ぼくたちを守ったから?」


誰も、答えられなかった。


アスルの声が震えた。


「……ぼくたちのせいで……?」


「違います!」


ウルズが、即座に答えた。


「あなたたちは、何も悪くありません」


その言葉に、エルフィが小さく首を傾げた。


「……じゃあ」


彼女は、そっと杖を置いた。


「……わたしたちにも、お手伝いさせて?」


────────


三つの小さな手――無垢なる祈り


「……お手伝い?」


スクルドが、驚いたように尋ねた。


「……うん」


エルフィは頷いた。


「……お母さんが言ってたの」


少女は、ゆっくりと言葉を探した。


「……痛いときは、ひとりにしちゃだめなんだって」


エイリクも、小さく頷く。


「……ぼくたちにも、何かできませんか?」


アスルが、拳を握った。


「ぼく、がんばる!」


ウルズは、三人を見つめた。


神力を持たない、幼いエルフ。


彼らに、ルルエラの神力を消し去ることなどできるはずがない。


まして。


自分たちですら、傷を癒すことができなかったのだ。


けれど。


「……わかりました」


ウルズは、静かに答えた。


「では、ヴェルザンディのそばにいてあげてください」


「……うん!」


三人が、嬉しそうに頷いた。


ウルズは神光で三人を浮かせ、ヴェルザンディの傍らへ運んだ。


エルフィが、そっと尋ねる。


「……お姉さん、どこ?」


「……ここですよ」


ヴェルザンディが、弱々しく答えた。


少女は、声のする方へ手を伸ばした。


小さな指が、女神の手に触れる。


「……あった」


エルフィは、ほっとしたように微笑んだ。


「……お姉さんの手、あったかいね」


ヴェルザンディの瞳が揺れた。


「……あなたの手も、温かいですよ……」


エイリクが、もう片方の手を握った。


アスルも、ヴェルザンディの腕へそっと触れた。


「……ねえ、お姉さん」


アスルが、小さく言った。


「……痛いの、なくなったらいいね」


「……そうですね……」


「……ぼく、お祈りする!」


エルフィが、ぱっと顔を上げた。


「……わたしも!」


エイリクも頷いた。


「……じゃあ、三人で」


三つの小さな手が、ヴェルザンディの身体へ触れた。


そして。


三人は、そっと祈った。


特別な呪文など、知らない。


神々の名を唱えることもない。


ただ。


目の前で苦しんでいる、大切な人へ。


心から願った。


「……お姉さんが、痛くありませんように」


エイリクが呟いた。


「……もう、苦しくなりませんように」


アスルが続けた。


そして。


エルフィが、優しく微笑んだ。


「……また、一緒に笑えますように」


――とくん。


三つの小さな鼓動が、重なった。


その瞬間。


ヴェルザンディの背中に残っていた白銀の神力が、静かに震えた。


「……え?」


ウルズが、息を呑んだ。


傷口から滲み出ていた白銀の光。


それが。


三人の手に応えるように、柔らかな輝きへ変わっていく。


「……そんな……!」


スクルドが、目を見開いた。


白銀の神力が、少しずつ傷口から離れていく。


まるで、何かを思い出したかのように。


まるで、そこにあるべき温もりを見つけたかのように。


そして。


――ぱぁっ。


白銀の光が、柔らかな粒子となって舞い上がった。


ひとつ。


またひとつ。


ヴェルザンディの身体を蝕んでいた神力が、三人の祈りに触れるたび、消えていく。


「……ノーザンアイギスの神力が……!」


ウルズの声が震えた。


「……消えている……!?」


スクルドが、思わず叫んだ。


「どういうことよ!?」


ウルズは、答えられなかった。


あれほど強大だった神力。


自分たちの権能すら拒絶した、絶対的な力。


それが今。


三つの小さな手によって、静かに消えようとしている。


エルフィが、不思議そうに尋ねた。


「……お姉さん?」


「……はい……?」


「……少し、楽になった?」


ヴェルザンディは、そっと息を吸い込んだ。


先ほどまで、呼吸するたびに走っていた痛み。


それが。


消えていた。


「……ええ……」


彼女の頬を、涙が伝った。


「……とても……楽になりました……」


エルフィが、にっこり笑った。


「……よかった!」


エイリクも、ほっと息を吐いた。


アスルが、嬉しそうに声を上げる。


「やったぁ!」


その声が響いた瞬間。


最後の白銀の粒子が、静かに消えた。


傷口を侵していたルルエラの神力は、完全に失われていた。


残された傷には、ウルズの治癒術が今度こそ届いた。


青い神光が優しく流れ、裂けた皮膚を修復していく。


「……治って、いく……」


スクルドが、呆然と呟いた。


ヴェルザンディは、ゆっくりと身体を起こした。


そして。


三人の小さなエルフを、そっと抱き寄せた。


「……ありがとう……ございます……」


その声は、涙で震えていた。


「……本当に……ありがとう……」


エルフィが、小さな手で女神の頬に触れた。


「……お姉さん」


「……はい……」


「……もう、泣かなくていいんだよ」


ヴェルザンディは、微笑んだ。


「……ええ……」


けれど。


涙は、止まらなかった。


────────


消えた神力――慈愛の証明


ウルズは、静かに杖を見つめていた。


その時計盤には、先ほどまで存在しなかった時間の痕跡が残されていた。


三人の祈り。


白銀の神力。


そして。


その神力が消えた瞬間に生まれた、微かな共鳴。


「……まさか……」


ウルズが、呟いた。


スクルドが振り向く。


「……何?」


「……あの神力は、三人の祈りを拒絶しませんでした」


「……ええ。それが?」


「……ルルエラの神力は、私たちの治癒を妨げていた」


ウルズは、ゆっくりと言葉を続けた。


「けれど、三人がヴェルザンディを救いたいと願った瞬間……自ら消えたのです」


スクルドは、眉を寄せた。


「……どういうこと?」


ウルズは、目を伏せた。


「……あの方の慈愛は、偽物ではなかったのでしょう」


静かな声だった。


「ルルエラは、本当に誰かを救いたいと願っている」


スクルドが、息を呑んだ。


「……冗談じゃないわ」


彼女は、傷ついた腕を握りしめた。


「……あいつは、私たちを殺そうとしたのよ!」


「……ええ」


ウルズは、静かに頷いた。


「その事実は、決して消えません」


そして。


三人の子どもたちを見つめた。


「……ですが、あの方の力の根源には、確かに慈愛がある」


ヴェルザンディが、小さく口を開いた。


「……つまり……」


「……ええ」


ウルズは、静かに答えた。


「ルルエラは、愛を失ったのではありません」


その言葉に、スクルドが顔を上げた。


「……愛の意味を、見失っているのです」


誰かを守ろうとする願い。


誰かを助けようとする優しさ。


本来ならば、ルルエラ自身が大切にしていたはずのもの。


けれど今の彼女には、それが醜いものとして映っている。


一方で。


彼女の神力そのものは、無垢な祈りを受け入れた。


ルルエラの認識と、彼女の力の根源。


その二つは、決して同じではなかった。


「……もし」


ウルズが、小さく呟いた。


「……あの方が、本当の愛を知ることができたなら……」


その先の言葉を、口にすることはできなかった。


けれど。


ウルズの胸には、ひとつの疑問が芽生えていた。


――なぜ、ルルエラは世界を愛しながら、世界を傷つけるようになったのか。


そして。


――十二の女神たちは、何を思って彼女を封印したのか。


ウルズは、時計盤の杖を握り直した。


「……少し、過去を確かめます」


────────


忘れられた約束――十五柱の協議


――こつん。


ウルズの杖が、床を叩いた。


青い神光が、静かに広がる。


時計盤の針が、逆回転を始めた。


一日。


一年。


百年。


千年。


数え切れない時間が、彼女の意識を過去へと導いていく。


「――過去追想」


やがて。


彼女の周囲から、音が消えた。


そして。


――カァァァン。


遠い過去の鐘が、鳴った。


目を開けたウルズの前には、巨大な白亜の円卓があった。


そこには、十五柱の女神が集まっていた。


叡智神トゥリフェーラ。


皇龍神アイーシャ。


海神ロデー。


植物神ライアスター。


獣神ララフェンリア。


風神朝霧。


魔神女王ペルセネラ。


天界神・天使女王シャルティア。


天啓神ヒミコ。


武闘神イーピン。


天界神・堕天使女王ルキフェル。


雷神夕霧。


そして。


時の三女神。


ウルズ。


ヴェルザンディ。


スクルド。


「……私たち……?」


過去を覗くウルズは、息を呑んだ。


そこには、紛れもなく過去の自分がいた。


けれど。


まったく、覚えがなかった。


「……これが、最後の協議になります」


トゥリフェーラが、静かに告げた。


円卓の中央には、巨大な時空の模型が浮かんでいた。


無数の世界。


幾重にも重なる時間軸。


そして、それらを貫くように広がる白銀の神力。


ルルエラの力だった。


「……彼女の力は、すでに世界の境界へ干渉しています」


トゥリフェーラが、模型を指さした。


「このままでは、いずれ時空そのものが崩壊します」


過去のウルズが、静かに頷いた。


「……私たちの領域も、無事では済みませんね」


「ええ」


トゥリフェーラは、目を伏せた。


「たとえ時間の狭間へ逃れたとしても、彼女が本気で境界を破ろうとすれば……」


スクルドが、拳を握り締めた。


「……だったら、私たちも戦う!」


しかし。


トゥリフェーラは、首を横に振った。


「……いいえ」


「……どうしてよ!」


「あなたたちには、別の役目があります」


その言葉に、三女神が顔を上げた。


トゥリフェーラは、円卓の中央に十二の光を浮かべた。


「私たちが封印を完成させるためには、それぞれの存在を繋ぎ留める媒体が必要になります」


「……媒体?」


ヴェルザンディが尋ねた。


「ええ」


トゥリフェーラは、静かに答えた。


「私たちが自らを贄として捧げ、その存在の一部を媒体へ託すのです」


十二の光が、ゆっくりと形を変えていく。


脳。


炎。


心臓。


花束。


宝玉。


頭蓋骨。


翼。


血を納めた壺。


そして、第三の眼。


「……これらを、あなたたちに託したい」


過去のウルズが、眉を寄せた。


「……私たちに?」


「ええ。タイム・オータムで保管していただきたいのです」


スクルドが、腕を組んだ。


「……そんな危険なものを?」


「危険だからこそ、です」


トゥリフェーラは、静かに答えた。


「世界のどこかに隠せば、ルルエラが見つける可能性があります」


「……では、時間の狭間に……」


ヴェルザンディが呟く。


「ええ」


トゥリフェーラは、頷いた。


「しかし、それだけでは足りません」


その表情が、わずかに曇った。


「……私たちは、あなたたちに残酷なお願いをしなければなりません」


三女神は、黙って続きを待った。


そして。


トゥリフェーラは、静かに告げた。


「……大戦に関わる記憶を、消してください」


沈黙が落ちた。


「……何ですって?」


スクルドが、声を震わせた。


「……私たちが、忘れろっていうの!?」


「ええ」


「……ルルエラのことも!? あなたたちのことも!?」


「すべてではありません。けれど、封印の核心に触れる記憶は残せません」


トゥリフェーラは、静かに続けた。


「時を司るあなたたちの記憶は、時間軸そのものと繋がっています」


「……つまり」


ウルズが、ゆっくりと言葉を探した。


「……私たちが封印の秘密を覚えていれば、ルルエラに辿られる可能性がある……」


「ええ」


トゥリフェーラは、頷いた。


「彼女が復活したとき、その記憶を辿って時空の奥へ侵入することも考えられます」


スクルドが、唇を噛んだ。


「……そんな……」


ヴェルザンディは、静かに尋ねた。


「……では、私たちは何を覚えていればよいのですか?」


その問いに、トゥリフェーラは、少しだけ微笑んだ。


「……希望を」


「……希望?」


「ええ」


彼女は、円卓の中央へ手を伸ばした。


「媒体は、タイム・オータムの最も深い時間に封じます」


「……どうやって、見つけるのですか?」


「そのときが来れば、封印そのものが道を開くでしょう」


トゥリフェーラは、静かに続けた。


「ルルエラが復活したとき、媒体を守る封印もまた目覚めるようにします」


「……復活した瞬間に?」


「ええ。ただし、その先に何が起こるかは、誰にもわかりません」


過去のウルズは、しばらく黙っていた。


そして。


「……わかりました」


静かに答えた。


「私たちが、そのときまで媒体を守りましょう」


スクルドが、驚いたように振り向いた。


「……ウルズ!」


ウルズは、微笑んだ。


「……覚えていなくても、きっと守れます」


ヴェルザンディも、静かに頷いた。


「……ええ」


スクルドは、しばらく俯いていた。


そして。


「……まったく」


小さく息を吐いた。


「……ほんと、無茶苦茶な話ね」


けれど。


その唇には、微かな笑みが浮かんでいた。


「……でも、いいわ」


スクルドは、拳を握った。


「……いつか、私たちの力が必要になったら、そのときは絶対に逃げないんだから!」


十二柱の女神たちが、静かに微笑んだ。


トゥリフェーラは、最後に告げた。


「……どうか、未来を生きる者たちに世界を見せてあげてください」


「……世界を?」


「ええ」


彼女は、静かに微笑んだ。


「……世界は、十二の女神たちが守る大国だけでできているのではありません」


小さな島。


雪に閉ざされた村。


山奥の集落。


名もなき国々。


そこにも、誰かの暮らしがある。


誰かの喜びがある。


誰かの悲しみがある。


「……幸せの形は、ひとつではありません」


トゥリフェーラは、静かに続けた。


「……いつか、誰かがそれをルルエラに伝えてくれるように」


その言葉に。


十五柱の女神たちは、静かに頷いた。


そして。


円卓の中央に、ひとつの約束が刻まれた。


それは、未来を信じるための約束だった。


────────


十二の別れ――それぞれの愛の形


過去の景色が、再び変わった。


崩れ落ちる大地。


燃え上がる都市。


泣き叫ぶ人々。


そして。


その中心に、一人の戦女神がいた。


白い肌。


長い白髪。


四本の蹄を持つ下半身。


彼女を守るように浮かぶ、無数の白銀の盾。


ルルエラ。


「……まあ……」


彼女は、涙を浮かべながら微笑んでいた。


「……皆さま、そんなにも喜んでくださるのですね……」


その周囲では、人々が逃げ惑っていた。


絶望の叫び。


助けを求める声。


けれど。


その悲鳴は、ルルエラには祝福として届いていた。


「……ふふっ……」


彼女は、嬉しそうに両手を広げた。


「……もっと、皆さまを幸せにして差し上げたいです……」


白銀の盾が、広がっていく。


そのたびに、大地が裂けた。


建物が崩れた。


人々の命が、消えていった。


ウルズは、唇を噛んだ。


「……なんて……」


ルルエラは、世界を憎んでいなかった。


むしろ。


誰よりも深く、愛していた。


だからこそ。


その愛が、世界を壊していた。


そのとき。


――ドォォォォン!!


天空から、十二の神光が降り注いだ。


ルルエラを取り囲むように、十二柱の女神たちが姿を現した。


かつて、ルルエラと同じアヴァロンティア神域魔導学校で時を過ごした十二柱。


その全員が、涙を流していた。


「……ルルエラ」


トゥリフェーラが、静かに名を呼んだ。


ルルエラが振り返る。


「……まあ……!」


ぱっと、顔が明るくなった。


「……皆さま!」


嬉しそうに、両手を広げる。


「……お会いしたかったです……!」


その笑顔を見た瞬間。


十二柱の表情が、崩れた。


何も変わっていなかった。


あの日と同じ、優しい声。


同じ、穏やかな微笑み。


傷ついた者を見つければ、自分のことなど忘れて駆け寄っていた、あの少女。


ただひとつ。


世界の感じ方だけが、変わってしまっていた。


「……ルルエラ」


トゥリフェーラが、静かに告げた。


「……あなたに、最後のお別れを言いに来ました」


「……まあ……?」


ルルエラが、不思議そうに首を傾げた。


トゥリフェーラは、涙を拭った。


そして。


「……私たちは、あなたが大嫌いです」


その瞬間。


ルルエラの顔が、ぱっと明るくなった。


「……まあ……!」


両手を胸元で重ねる。


「……皆さま……そんなにも、私を愛してくださって……」


十二柱は、泣きながら微笑んだ。


そう。


それでいい。


今だけは。


せめて、最後の別れくらいは。


この子に、自分たちの愛を届けたかった。


だから。


十二柱は、一人ずつ口を開いた。


それぞれの思い出を。


それぞれの愛を。


心とは正反対の言葉に変えて。


最初に歩み出たのは、叡智神トゥリフェーラだった。


「……覚えていますか、ルルエラ」


ルルエラが、微笑む。


「……何を、でしょう……?」


「……アヴァロンティアの図書館です」


その言葉に、ルルエラが嬉しそうに頷いた。


「……まあ……! 懐かしいですね……」


かつて。


二人は、神域魔導学校の大図書館で出会った。


本に囲まれた静かな場所。


誰とも話さず、一人で書物を読み続けていたトゥリフェーラに、ルルエラが声をかけたのだ。


『……隣に座っても、よろしいですか?』


その日から。


毎日のように、二人は同じ机で本を読んだ。


ルルエラは、わからないことがあれば何度でも質問した。


トゥリフェーラは、何度でも答えた。


そして。


ある日、ルルエラは言った。


『……知らないことを知るのは、とても幸せですね』


トゥリフェーラは、その言葉を今も覚えていた。


彼女にとって、知識は真理を探すためのものだった。


けれど、ルルエラは。


知識を、誰かの笑顔を増やすために使おうとしていた。


「……あなたは、本当に愚かでした」


トゥリフェーラが、涙を流しながら告げた。


「私の静かな時間を奪い、くだらない質問ばかりして……」


ルルエラが、嬉しそうに微笑む。


「……ふふっ……」


「……あなたと過ごした時間など、すべて忘れてしまいたい」


その声が、震えた。


――本当は。


あの日々が、何よりも大切だった。


あなたが隣に座ってくれたから。


私は、知識を誰かと分かち合う喜びを知った。


「……二度と、私の隣に座らないでください」


ルルエラは、幸せそうに頷いた。


「……ええ……」


そして。


「……また、一緒に本を読みましょうね……」


トゥリフェーラは、顔を伏せた。


涙が、止まらなかった。


────────


次に進み出たのは、皇龍神アイーシャだった。


「……おい、ルルエラ」


「……はい?」


「……あんた、覚えてるか?」


アイーシャは、唇を噛んだ。


「……あの、くそったれな雨の日を」


かつて。


アイーシャは、訓練中に大怪我をしたことがあった。


誰よりも強くありたい。


誰にも負けたくない。


そんな彼女は、傷ついた姿を見せることを嫌っていた。


だから。


誰もいない訓練場で、一人、血を流していた。


そこへ。


ルルエラが、やってきた。


『……まあ……! 大変です!』


そして。


何も聞かずに、傷口へ手を添えた。


『……痛かったですね……』


その言葉に。


アイーシャは、初めて泣いた。


強くなければならない。


弱さを見せてはいけない。


そう信じていた彼女に、ルルエラは言った。


『……強い方だって、痛いときは泣いていいんですよ……』


その日から。


アイーシャは、ルルエラの前でだけ、少し弱音を吐けるようになった。


「……あんたのせいで、あたしは弱くなった!」


アイーシャが、叫んだ。


「……あんたなんか、いなければよかった!」


ルルエラは、嬉しそうに笑った。


「……まあ……! 私が、お役に立てたのですね……」


「……そうだよ!」


アイーシャの目から、大粒の涙がこぼれた。


「……あんたと出会って、最悪だった!」


――本当は。


あんたのおかげで、弱い自分を許せるようになった。


誰かに頼ることを覚えた。


強さとは、誰かを傷つけることじゃないって。


教えてくれたのは、あんただった。


「……二度と、あたしの前で笑うんじゃねえ!」


ルルエラは、嬉しそうに微笑んだ。


「……ふふっ……」


「……私も、アイーシャの笑顔が大好きですよ……」


「……ばか……!」


アイーシャは、顔を覆った。


「……この、大馬鹿野郎……!」


────────


海神ロデーが、静かに歩み出た。


「……ルルエラ」


「……まあ、ロデー……」


ロデーは、少しだけ微笑んだ。


「……あなた、海が嫌いだったでしょう?」


ルルエラが、不思議そうに首を傾げた。


かつて。


ルルエラが、初めて海の国を訪れた日。


彼女は、波打ち際で立ち尽くしていた。


『……まあ……! なんて、広いのでしょう……』


初めて見る海。


どこまでも続く水平線。


その美しさに、ルルエラは目を輝かせていた。


けれど。


海の中に、傷ついた小さな魚を見つけた瞬間。


彼女は、迷わず海へ飛び込んだ。


『……待っていてくださいね……!』


ロデーは、慌てて追いかけた。


そして。


二人で、傷ついた魚を救った。


その後、ルルエラは言った。


『……海って、素敵ですね……』


『……どうして?』


『……こんなにたくさんの命を、抱きしめているんですもの……』


ロデーは、その言葉を一度も忘れなかった。


「……あなたは、本当に迷惑な方でした」


彼女は、涙を流しながら告げた。


「……勝手に海へ飛び込んで、私を困らせて……」


ルルエラが、嬉しそうに微笑んだ。


「……まあ……! そんなに楽しかったのですね……」


「……ええ」


ロデーの声が震えた。


「……あなたと見た海なんて、二度と思い出したくありません」


――本当は。


もう一度、あなたと海を見たい。


あの日と同じ波の音を聞きたい。


そして。


今度こそ、あなたに言いたい。


私も、あなたと同じくらい、この海が大好きだと。


「……海の底で、永遠に眠ってしまいなさい」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……ふふっ……」


「……また、ロデーと海を見たいです……」


ロデーは、泣きながら頷いた。


────────


植物神ライアスターは、震える足で前へ出た。


「……ル、ルルエラ……」


「……まあ、ライアスター……」


ルルエラが、優しく微笑む。


ライアスターは、小さく俯いた。


かつて。


彼女は、人前で話すことが苦手だった。


声が小さく、いつも誰かの後ろに隠れていた。


そんな彼女に、ルルエラは一輪の花を差し出した。


『……この花、あなたに似ていますね……』


『……わ、私に……?』


『……ええ。とても、優しい色をしています……』


その日から。


ルルエラは、毎日のようにライアスターの花壇を訪れた。


花の名前を尋ねたり。


水やりを手伝ったり。


時には、何も話さず、ただ隣に座ったり。


そして。


ある日。


ライアスターは、初めて自分から声をかけた。


『……あ、あの……』


『……はい?』


『……また、明日も……来てくれますか……?』


ルルエラは、嬉しそうに笑った。


『……もちろんです……!』


その笑顔が、今も忘れられなかった。


「……あなたなんて……」


ライアスターの声が震えた。


「……もう、来ないでください……」


ルルエラは、嬉しそうに頷いた。


「……まあ……! また、お庭へ招いてくださるのですね……」


「……私の花に、二度と触れないで……!」


――本当は。


また、一緒に花を育てたい。


咲いた花を見せたい。


枯れた花を悲しんで。


新しい芽を、一緒に喜びたい。


「……あなたのことなんて……忘れたい……!」


ルルエラは、優しく微笑んだ。


「……私も、忘れませんよ……」


ライアスターは、泣き崩れた。


────────


獣神ララフェンリアが、一歩前へ出た。


「……ルルエラ」


その声は、力強かった。


けれど。


瞳には、涙が浮かんでいた。


「……お前は、本当に厄介な奴だった」


かつて。


獣王の国では、ひとりの獣人の子どもが、種族の違いを理由に仲間外れにされていた。


誰も、その子へ近づこうとしなかった。


けれど。


ルルエラだけは違った。


『……こんにちは……』


そう言って、子どもの隣へ座った。


『……一緒に、お昼ごはんを食べませんか?』


子どもは、泣きながら尋ねた。


『……ぼく、怖くないの……?』


ルルエラは、不思議そうに首を傾げた。


『……どうしてですか?』


そして。


優しく微笑んだ。


『……あなたは、あなたでしょう……?』


その言葉に。


ララフェンリアは、自分が守るべきものの意味を知った。


強い者だけが生き残る国ではなく。


弱い者も、違う者も、誰もが帰る場所を持てる国。


それが、彼女の目指す獣王国になった。


「……お前は、私の国を滅茶苦茶にした!」


ララフェンリアが、叫んだ。


「……お前と出会わなければ、こんな国にはならなかった!」


ルルエラは、嬉しそうに微笑んだ。


「……まあ……! 私が、お力になれたのですね……」


「……そうだ!」


ララフェンリアの目から、涙がこぼれた。


「……お前なんか、二度と私の国へ来るな!」


――本当は。


お前の帰る場所を、ずっと残しておきたい。


どれほど遠くへ行っても。


どれほど傷ついても。


いつでも帰ってこられるように。


「……お前の居場所など、どこにもない!」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……ふふっ……」


「……ありがとうございます……」


────────


風神、朝霧。


雷神、夕霧。


二柱が、同時に前へ出た。


「……ルルエラ」


朝霧が、静かに呼びかける。


「……覚えているかしら。あの日の嵐を」


夕霧が、唇を噛んだ。


かつて。


二柱の力が、制御できなくなったことがあった。


風と雷がぶつかり合い、巨大な嵐が生まれた。


誰も近づけなかった。


けれど。


ルルエラは、嵐の中心へ歩いてきた。


『……まあ……! お二人とも、大丈夫ですか?』


朝霧も、夕霧も、叫んだ。


『……来ないで!』


『……危ない!』


それでも。


ルルエラは、微笑んだ。


『……お二人が泣いているのに、放っておけません……』


そして。


二柱の手を、そっと握った。


嵐は、すぐには止まらなかった。


けれど。


三人で手を繋いでいるうちに。


少しずつ。


風が穏やかになった。


雷鳴が遠ざかった。


そして、雲の隙間から光が差し込んだ。


『……ほら……』


ルルエラが、嬉しそうに笑った。


『……きれいな空ですね……』


朝霧は、涙を流しながら告げた。


「……あなたのせいで、わっちらはいつも振り回されました」


夕霧が続ける。


「……二度と、わっちらの手を握るな!」


ルルエラは、嬉しそうに頷いた。


「……まあ……! また、一緒にいられるのですね……」


「……ええ」


朝霧の声が震えた。


「……あなたなんて、風に吹き飛ばされてしまえばいい」


夕霧も、涙を流した。


「……雷に打たれて、消えてしまいなんし!」


――本当は。


もう一度、三人で空を見上げたい。


嵐の後に訪れる、あの青い空を。


もう一度、あなたと見たい。


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……ふふっ……」


「……私も、お二人が大好きですよ……」


二柱は、互いの手を握りしめた。


────────


魔神女王ペルセネラが、静かに歩み出た。


「……ルルエラ」


その声は、低かった。


「……お前は、私の誇りを踏みにじった」


かつて。


魔族の国で、ペルセネラは孤独だった。


強大な力を持つ女王。


誰もが恐れ、敬い、近づこうとしなかった。


けれど。


ルルエラは、違った。


『……ペルセネラ、お茶にしませんか?』


女王の私室へ、何の遠慮もなく現れた。


『……なぜ、お前は私を恐れない?』


そう尋ねると。


ルルエラは、不思議そうに首を傾げた。


『……だって、あなたは優しい方ですもの……』


ペルセネラは、笑った。


初めて、心から笑った。


女王としてではなく。


ただ、一人の友人として。


「……お前は、私を侮辱した」


ペルセネラが、涙を流しながら告げた。


「……私を、ただの女として扱った」


ルルエラは、嬉しそうに微笑んだ。


「……まあ……。また、お茶に誘ってくださるのですね……」


「……二度と、私の隣に座るな」


――本当は。


私を、女王ではなく友人として見てくれて、ありがとう。


お前の前でだけは。


私は、ただの私でいられた。


「……お前のことなど、忘れてやる」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……私も、ペルセネラとの時間を忘れません……」


ペルセネラは、静かに目を閉じた。


────────


天界神・天使女王シャルティアが、翼を広げた。


「……ルルエラ」


その声は、祈りのように静かだった。


かつて。


シャルティアは、ひとりの罪人を裁こうとしていた。


罪を犯した者。


多くの者を傷つけた者。


誰もが、その者への罰を望んでいた。


けれど。


ルルエラは、尋ねた。


『……この方は、もう幸せになれないのですか?』


シャルティアは、答えられなかった。


『……罪を犯した者にも、もう一度やり直す道があってもよいのではありませんか……?』


その言葉に。


シャルティアは、初めて気づいた。


正しさだけでは、救えないものがある。


裁くことと、救うことは、同じではないのだと。


「……あなたは、私の正義を汚しました」


シャルティアが、涙を流しながら告げた。


「……あなたの言葉など、聞くべきではなかった」


ルルエラが、嬉しそうに微笑んだ。


「……まあ……! 私の言葉を、大切にしてくださったのですね……」


「……ええ」


シャルティアは、唇を噛んだ。


「……あなたを、決して許しません」


――本当は。


あなたのおかげで、許すことを知った。


誰かを裁く前に。


その人の痛みを知ろうとすることを覚えた。


「……あなたなど、天界へ来る資格はありません」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……ふふっ……」


「……いつか、また皆さまとお会いしたいです……」


シャルティアは、翼で顔を隠した。


────────


武闘神イーピンが、一歩前へ出た。


「……ルルエラ」


その拳は、震えていた。


かつて。


イーピンは、強さこそがすべてだと信じていた。


勝つこと。


倒すこと。


誰にも負けないこと。


それが、武闘神としての誇りだった。


けれど。


ある日、ルルエラに尋ねられた。


『……どうして、そんなに強くなりたいのですか?』


イーピンは、即座に答えた。


『……誰にも負けたくないからだ』


すると。


ルルエラは、小さく首を傾げた。


『……では、誰かを守るために強くなるのは、いけないことですか?』


その言葉が、胸に残った。


以来。


イーピンは、弱い者を守るためにも拳を振るうようになった。


「……お前は、私の拳を鈍らせた!」


イーピンが、叫んだ。


「……お前と出会わなければ、私はもっと強くなれた!」


ルルエラは、嬉しそうに頷いた。


「……まあ……! 私が、あなたの力になれたのですね……」


「……そうだ!」


イーピンの目から、涙がこぼれた。


「……二度と、私の前で弱い者をかばうな!」


――本当は。


お前が教えてくれた強さを、守り続けたい。


誰かを倒すためではなく。


誰かを守るための拳を。


「……お前なんか、大嫌いだ!」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……私も、イーピンが大好きですよ……」


イーピンは、顔を背けた。


────────


天界神・堕天使女王ルキフェルが、静かに歩み出た。


「……ルルエラ」


黒い翼が、ゆっくりと広がる。


かつて。


ルキフェルは、天界を追われた者たちを率いていた。


居場所を失った者。


誰にも受け入れられなかった者。


そのすべてを、彼女は自らの国へ迎え入れた。


けれど。


自分自身だけは、どこにも帰る場所がないと思っていた。


そんな彼女に、ルルエラは言った。


『……ルキフェル』


『……何だ?』


『……疲れたら、いつでも私のところへ来てくださいね……』


ルキフェルは、笑った。


『……私のような者を、迎えるつもりか?』


ルルエラは、当然のように頷いた。


『……ええ』


そして。


『……あなたが帰ってこられる場所を、私はいつでも空けておきますから……』


その言葉に。


ルキフェルは、初めて涙を流した。


「……お前の言葉など、信じるべきではなかった」


ルキフェルが、静かに告げた。


「……私に居場所など、必要なかった」


ルルエラは、嬉しそうに微笑んだ。


「……まあ……! 私を、帰る場所だと思ってくださるのですね……」


「……二度と、私を迎えに来るな」


――本当は。


今度は、私がお前を迎えに行きたい。


世界中がお前を拒んでも。


私だけは、お前の帰る場所でありたい。


「……お前には、帰る場所などない」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……ふふっ……」


「……ありがとうございます……」


ルキフェルは、静かに涙を流した。


────────


そして。


最後に歩み出たのは、天啓神ヒミコだった。


「……ルルエラよ」


その声は、どこか懐かしい響きを持っていた。


「……覚えておるかのう」


ルルエラが、嬉しそうに微笑んだ。


「……まあ、ヒミコ……」


ヒミコは、静かに目を細めた。


かつて。


まだ邪馬台国が、小さな集落の集まりだったころ。


ヒミコは、民を導くことに悩んでいた。


未来を知ることができても。


すべての人を、幸せにできるわけではない。


どんな道を選んでも、誰かが傷つく。


そんな現実に、彼女は苦しんでいた。


ある日。


ヒミコは、ルルエラに尋ねた。


『……のう、ルルエラ』


『……はい?』


『……わらわは、本当に民を幸せにできておるのじゃろうか……』


ルルエラは、少し考えた。


そして。


『……ヒミコは、皆さまのことが大好きなのですね……』


ヒミコは、驚いた。


『……なぜ、そう思うのじゃ?』


『……だって、こんなにも悩んでいらっしゃるんですもの……』


ルルエラは、優しく微笑んだ。


『……大切に思っていなければ、そんなに苦しくはなりませんよ……』


その言葉に。


ヒミコは、泣いた。


誰にも見せたことのない涙だった。


そして、ルルエラは続けた。


『……でも、ヒミコ』


『……何じゃ?』


『……皆さまの幸せを、全部ひとりで決めなくてもよいのではありませんか……?』


ヒミコは、その言葉を今も覚えていた。


民の幸せは、民自身が見つけるもの。


自分は、その道を照らすことしかできない。


それを教えてくれたのは、ルルエラだった。


「……ルルエラよ」


ヒミコが、涙を流しながら微笑んだ。


「……そなたは、本当に愚かな女じゃ」


ルルエラは、嬉しそうに頷いた。


「……まあ……!」


「……そなたのような者に、出会わねばよかったのじゃ」


「……ふふっ……」


「……そなたの言葉など、ひとつとして覚えておらぬ」


――本当は。


そなたの言葉が、今のわらわを作ったのじゃ。


そなたがいてくれたから。


わらわは、女王として歩み続けることができた。


「……二度と、わらわの前へ姿を現すでないぞ」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……ええ……」


そして。


「……また、お会いしましょうね……」


ヒミコの頬を、涙が伝った。


「……そうじゃのう……」


小さく、呟く。


「……そうじゃ……」


十二柱は、互いの顔を見合わせた。


もう、伝え残したことはなかった。


それぞれが、違う形の愛を口にした。


学ぶ喜び。


弱さを許す優しさ。


命を抱く海。


寄り添う花。


帰る場所。


嵐をともに越える絆。


孤独を癒す友情。


許し。


守るための強さ。


そして、誰かの幸せを願う心。


そのすべてを、反転した言葉に託して。


愛する友へ、届けたのだった。


────────


十二の封印――最後に残された天啓


十二柱の女神たちは、ルルエラを囲むように立っていた。


トゥリフェーラが、静かに手を掲げた。


「……始めましょう」


十二の神光が、天空へ伸びる。


それぞれの足元に、巨大な封印陣が現れた。


神々の存在そのものを封じることを代償とする、最高位の術式。


ルルエラだけを封じるのではない。


術を完成させた十二柱もまた、自らの自由を失う。


その存在は、それぞれの国へと繋ぎ留められ、永い眠りにつく。


ルルエラの封印は、永遠ではない。


十二柱自身も、いつ目覚めるかなどわからない。


保証は、どこにもなかった。


それでも。


誰一人として、退かなかった。


「……せめて、時間を稼ぐのです」


トゥリフェーラが、静かに告げた。


「……いつか、私たちでは見つけられなかった答えを、誰かが見つけてくれるように」


ルルエラの周囲に、十二の封印陣が重なった。


「……あら……?」


ルルエラが、不思議そうに首を傾げた。


「……これは……?」


トゥリフェーラが、涙を流しながら答えた。


「……あなたを、閉じ込めるためのものです」


ルルエラの顔が、ぱっと明るくなった。


「……まあ……!」


嬉しそうに両手を広げる。


「……そんなにも、大切にしてくださるのですね……」


トゥリフェーラは、静かに頷いた。


「……あなたなど、もう二度と見たくありません」


ルルエラは、幸せそうに微笑んだ。


「……ふふっ……」


そして。


「……ありがとうございます……」


白銀のスフィアが、彼女を包み始めた。


百億枚の盾が幾重にも重なり、巨大な球体を形成していく。


ノーザンアイギス。


その中心に、ルルエラの身体が静かに沈んでいった。


「……皆さま……」


彼女は、名残惜しそうに微笑んだ。


「……どうか、お元気で……」


その声を聞いた瞬間。


アイーシャが、歯を食いしばった。


「……あんたなんか……!」


声が、震えた。


「……二度と、帰ってくるな……!」


ルルエラは、嬉しそうに頷いた。


「……ええ……」


そして。


「……また、皆さまと笑い合える日を、楽しみにしていますね……」


誰も、その言葉に答えられなかった。


十二柱が望んでいたことを。


皮肉にも、ルルエラ自身が口にしたからだった。


――カァァァァァン!!


十二の封印陣が、一斉に輝いた。


白銀のスフィアが、完全に閉じる。


ルルエラの声が、途絶えた。


世界が、静まり返った。


やがて。


十二柱の身体にも、変化が訪れた。


「……始まったわね」


ロデーが、静かに呟いた。


その指先が、光へと変わり始めていた。


「……うん……」


ライアスターが、涙を拭った。


「……怖い、けど……」


ララフェンリアが、彼女の肩へ手を添えた。


「……大丈夫」


その声は、優しかった。


「……きっと、いつか……」


そのときだった。


「……待つのじゃ」


ヒミコが、静かに口を開いた。


十一柱が、一斉に振り向いた。


彼女の身体も、すでに光へと変わり始めていた。


けれど。


その瞳には、確かな意志が宿っていた。


「……最後に、ひとつだけ……」


ヒミコは、静かに微笑んだ。


「……未来を、見ておきたいのじゃ」


トゥリフェーラが、息を呑んだ。


「……ヒミコ! これ以上、神力を使えば……!」


「……構わぬ」


ヒミコは、首を横に振った。


「……わらわたちは、もう眠るのじゃ」


その声は、穏やかだった。


「……ならば、最後くらい、希望を見てもよいじゃろう?」


彼女は、ゆっくりと両手を広げた。


「――天啓」


その瞬間。


黄金の神光が、天空へ昇った。


ヒミコの瞳に、無数の未来が流れ込む。


滅びた国。


生まれる命。


幾度も繰り返される争い。


失われていく約束。


そして。


まだ誰も知らない、小さな光。


ひとつ。


ふたつ。


みっつ。


三つの光が、遠い未来の闇に浮かんでいた。


ヒミコの頬を、涙が伝った。


「……ああ……」


その声が、震えた。


「……そうか……」


そして。


彼女は、微笑んだ。


「……まだ、終わりではないのじゃな……」


その視線の先には、七つの神光があった。


赤。


橙。


黄。


緑。


青。


藍。


紫。


プレアデス・ゴッデス。


マイア。


エレクトラ。


タイゲテ。


アルキュオネ。


ケライノ。


ステロペ。


メロペ。


七柱は、封印の場から少し離れた場所で、涙を流していた。


愛する主人を失う悲しみ。


その主人を封じなければ、世界が滅びてしまうという現実。


彼女たちは、どちらも受け入れられなかった。


「……ヒミコ様……」


マイアが、震える声で呼びかけた。


ヒミコは、七柱へ手を伸ばした。


「……よいか、プレアデスの娘たちよ」


七柱が、一斉に顔を上げた。


「……これから、わらわたちは永い眠りにつく」


ヒミコの指先が、少しずつ光へと変わっていく。


「……じゃが、そなたたちは、まだ眠ってはならぬ」


マイアが、息を呑んだ。


「……私たちに、何を……?」


ヒミコは、涙を流しながら微笑んだ。


「……無垢なる子供らがやってくる」


その声は、小さかった。


けれど。


七柱の心へ、確かに響いた。


「……子供、ですか……?」


エレクトラが、静かに尋ねた。


ヒミコは、頷いた。


「……うむ」


そして。


最後の神力を振り絞るように、言葉を続けた。


「……決して死なすでないぞ……その子らが最後の希望じゃ……」


その瞬間。


七柱の表情が、変わった。


最後の希望。


十二柱ですら救うことのできなかったルルエラを。


いつか、救えるかもしれない存在。


「……ヒミコ様……!」


マイアが、涙を流しながら膝をついた。


「……その子たちは、ルルエラ様を……?」


ヒミコは、すぐには答えなかった。


天啓が映した未来は、絶対ではない。


希望が現れることと、その希望が実を結ぶことは、同じではない。


そのことを、ヒミコは誰よりも知っていた。


「……わからぬ」


正直な答えだった。


「……わらわにも、その先までは見えぬのじゃ」


七柱の瞳が揺れた。


けれど。


ヒミコは、静かに微笑んだ。


「……だからこそ、守ってほしいのじゃ」


「……はい……!」


マイアが、震える声で答えた。


「……必ず……!」


ヒミコは、頷いた。


「……そなたたちが、あの子らを守るのじゃ」


エレクトラも。


タイゲテも。


アルキュオネも。


ケライノも。


ステロペも。


メロペも。


七柱は、涙を流しながら深く頭を下げた。


やがて。


ヒミコが、十二柱の仲間たちへ振り返った。


「……皆の者」


その声は、穏やかだった。


「……もう、泣くでないぞ」


アイーシャが、涙を拭った。


「……泣いてなんか、ない!」


「……ふふっ……」


ヒミコは、小さく笑った。


「……そうか。ならば、よいのじゃ」


ロデーが、微笑んだ。


ライアスターが、頷いた。


ララフェンリアが、拳を握った。


朝霧と夕霧が、互いの手を握り直した。


ペルセネラが、静かに笑った。


シャルティアが、翼を広げた。


イーピンが、深く息を吐いた。


ルキフェルが、涙を拭った。


トゥリフェーラが、静かに頷いた。


そこには。


もう、絶望だけではなかった。


遠い未来への、確かな希望があった。


「……いつか、また会えるのね」


ロデーが、呟いた。


「……うん……」


ライアスターが、頷いた。


「……そのときは……」


小さく微笑む。


「……また、みんなで……」


その先は、言葉にならなかった。


けれど。


誰もが、同じことを願っていた。


――また、ルルエラと笑い合いたい。


ただ、それだけだった。


そして。


ヒミコの身体が、光へ変わり始めた。


「……ではのう……」


最後に、小さな声が響いた。


「……また、会おうぞ……」


その光は、天空へ昇った。


続いて。


十一柱の身体も、次々と光へ変わっていく。


ひとつ。


またひとつ。


十二の光が、世界へ散っていった。


それぞれの女神が守ってきた国へ。


愛した人々が暮らす故郷へ。


そして。


その地で。


十二柱は、静かに石像となる運命を迎えていた。


────────


十二の国――女神たちが遺した約束


最初の光が降り立ったのは、砂漠の国だった。


果てしない砂海。


白亜の王都。


その中央にそびえる、大図書館。


最上階の書斎で、ひとりの少女が机に向かっていた。


「……うう」


少女は、分厚い本を睨みつけた。


「……全然、わからない……」


そのとき。


――ぱぁっ。


書斎の中央に、淡い光が現れた。


「……あら」


静かな声が響く。


「まだ、解けていなかったのですか」


少女は顔を上げた。


「……先生?」


そこには、叡智神トゥリフェーラが立っていた。


長い旅から戻ったような、疲れた表情。


けれど、その瞳にはいつもの知性が宿っていた。


「先生!」


少女は椅子から飛び降りた。


「おかえりなさい! ずっと待ってたんですよ!」


「……声が大きいです。ここは図書館ですよ」


トゥリフェーラは、困ったように目を伏せた。


「それで、どこまで考えたのですか」


「えっと……ここまではわかったんですけど……」


少女が本を指さす。


トゥリフェーラは、机へ近づこうとした。


しかし。


――こつ。


足元から、乾いた音がした。


彼女の足先が、白い石へ変わり始めていた。


「……先生?」


少女が、不思議そうに尋ねた。


「……靴が、白く……」


トゥリフェーラは、自分の足元を見つめた。


そして、静かに息を吐いた。


「……始まりましたか」


「……何が?」


「少し長い休暇をいただくことになったのです」


少女は、首を傾げた。


「……どこへ行くんですか?」


「どこにも」


トゥリフェーラは、小さく微笑んだ。


「ここにおりますよ」


少女の表情が曇った。


石化は、足首から膝へとゆっくり進んでいた。


「……先生……?」


「……ええ」


「……どうして、動かないの……?」


トゥリフェーラは、答えなかった。


代わりに。


机の上の本へ、そっと手を伸ばした。


「……最後の問題です」


「……え?」


「私がいなくなったら、あなたは誰に答えを尋ねますか」


少女は、涙を浮かべた。


「……先生に、決まってるじゃないですか……」


「……不正解です」


トゥリフェーラは、いつものように淡々と答えた。


「私の答えが、常に正しいとは限りません」


「……そんなこと……!」


「ありますよ」


彼女は、少女の額を指先で軽くつついた。


「だから、考えるのです。疑うのです。そして、自分の答えを見つけるのです」


「……でも……」


少女の声が震えた。


「……わたし、先生がいないと……」


トゥリフェーラは、少しだけ視線を逸らした。


誰かから必要とされることに、慣れていなかった。


その静かな暮らしを変えたのは、かつて同じ図書館で隣に座った、ひとりの友人だった。


――ルルエラ。


トゥリフェーラは、少女の頭へ手を置いた。


「……私にも、教えてくれた人がいたのです」


「……先生に?」


「ええ。少々、お節介で……質問が多くて……」


その瞳に、涙が浮かんだ。


「……本当に、困った友人でした」


「……先生、泣いてる……」


「……気のせいです」


少女は、首を横に振った。


「……気のせいじゃないよ……」


トゥリフェーラは、困ったように微笑んだ。


そして、一冊の本を少女へ手渡した。


「……続きを、書いてください」


「……これ、先生の日記……?」


「ええ」


石化が、腰へと達していた。


「私が答えられなかったことも、そこには残されています」


少女は、本を胸に抱き締めた。


「……わたしが、全部調べる……」


「……そうですか」


「……先生が帰ってきたら、いっぱい教えてあげる!」


トゥリフェーラは、静かに目を細めた。


「……楽しみにしています」


やがて。


その手も、肩も、少しずつ石へと変わっていった。


少女は、最後まで女神の前に立っていた。


「……先生……!」


涙が、止まらなかった。


「……まだ、教えてほしいことが……いっぱいあるのに……!」


トゥリフェーラは、微笑んだ。


「……ならば」


最後の力で、静かに告げた。


「……学び続けなさい」


その唇が、白い石へ変わる。


「……いつか、私にも……教えてくださいね……」


叡智神トゥリフェーラは、永い眠りについた。


少女は、何度も頷いた。


「……はい……!」


胸に抱いた本へ、涙が落ちた。


「……絶対に……!」


────────


竜の国。


天を貫く岩山と、炎の流れる渓谷。


その中央にそびえる龍王宮へ、ひとつの紅い光が降り立った。


「――母上!!」


巨大な竜が、咆哮を上げた。


「帰ってきたのか!」


光の中から現れたのは、皇龍神アイーシャ。


誰よりも戦いを好み、誰よりも豪快に笑う、竜たちの母だった。


「おう! 戻ったぞ!」


アイーシャは、大きく笑った。


「留守の間、ちゃんと鍛えてたか!」


「当然だ!」


若い竜が、胸を張る。


「今度こそ、母上を倒す!」


「はっ! 百年早いわ!」


その声に、周囲の竜たちが笑った。


けれど。


アイーシャは、一歩踏み出そうとして、足を止めた。


――ぴしり。


足元に、白い亀裂のような模様が浮かんだ。


石化が始まっていた。


「……母上?」


若い竜が、首を傾げた。


「……足が……」


アイーシャは、自分の足を見下ろした。


そして。


「……あーあ」


小さく笑った。


「……やっぱり、こうなるか」


竜たちは、息を呑んだ。


「……どういうことだ……?」


アイーシャは、笑顔を崩さなかった。


「……お前ら」


その声が、王宮へ響いた。


「最後に、ひと勝負してやる!」


若い竜が、目を見開いた。


「……今からか!?」


「そうだ!」


アイーシャは、拳を握った。


「このあたしが動けなくなる前に、一本取ってみせろ!」


「……母上……?」


「いいから来い!」


若い竜は、震える身体で前へ出た。


「……じゃあ……!」


大きく息を吸い込む。


「――うおおおお!!」


渾身の一撃。


けれど、アイーシャは片手で受け止めた。


「……甘い!」


そして。


その拳を、優しく押し返した。


「……お前、まだ力任せだな」


若い竜が、涙を流した。


「……母上……」


「強いってのはな」


アイーシャは、静かに続けた。


「……負けないことだけじゃねえ」


石化が、膝を越えていた。


それでも。


彼女は、笑っていた。


「……守りたい奴がいるなら、何度負けても立ち上がれ」


「……母上……!」


「それから……」


アイーシャは、若い竜の頭へ手を伸ばした。


「……泣きたいときは、泣け」


その声が、ほんの少し震えた。


「……強い奴だって、泣いていいんだ」


かつて。


ルルエラが、彼女へ教えてくれた言葉だった。


若い竜は、泣き崩れた。


「……やだ……!」


「……母上、まだ俺……!」


「……お前、あたしに一度も勝ってないだろ……!」


アイーシャは、豪快に笑った。


「だったら、強くなっとけ!」


石化が、腰へ達した。


「……いつか、戻ってきたとき……」


彼女は、拳を突き出した。


「……次こそ、勝ってみせろ!」


若い竜は、震える拳を重ねた。


「……約束だぞ……!」


「……おう!」


アイーシャは、にやりと笑った。


「……あたしは、約束を破らねえ!」


やがて。


その拳が石へ変わった。


腕が。


肩が。


そして。


最後まで笑っていた顔も。


白い石へと変わっていった。


「――母上ええええ!!」


竜たちの咆哮が、天空を震わせた。


その日は、誰も戦わなかった。


誰も勝利を祝わなかった。


ただ、竜たちは母の石像を囲み、夜が明けるまで泣き続けた。


────────


海の国。


珊瑚の宮殿と、虹色の魚たちが泳ぐ美しい海底都市。


その王宮へ、青い光が降り立った。


「――姫様!!」


侍女たちが、一斉に駆け寄った。


「お帰りなさいませ!」


光の中から現れたのは、海神ロデー。


海の国の王女だった。


「……ただいま」


ロデーは、優しく微笑んだ。


「みんな、変わりない?」


「はい! 姫様のご帰還を、ずっとお待ちしておりました!」


「……そう」


彼女は、嬉しそうに頷いた。


そのとき。


小さな海の民の少女が、人々の間をかき分けて走ってきた。


「……姫様!」


「……あら?」


ロデーが、膝を折った。


「どうしたの?」


少女は、小さな貝殻を差し出した。


「……これ、姫様に!」


「……私に?」


「うん! すっごくきれいな貝殻なの!」


ロデーは、そっと受け取った。


白くて、小さな貝殻。


どこにでもありそうな、ありふれたものだった。


けれど。


少女の顔は、誇らしげだった。


「……ありがとう」


ロデーは、微笑んだ。


「とても素敵ね」


少女は、嬉しそうに笑った。


その瞬間。


――ぴしり。


ロデーの足元から、石化が始まった。


「……姫様……?」


侍女が、声を震わせた。


「……お足が……!」


ロデーは、自分の身体を見つめた。


そして。


ゆっくりと目を閉じた。


「……そうね」


小さく呟いた。


「……もう、時間なのね」


少女が、首を傾げる。


「……姫様?」


ロデーは、再び微笑んだ。


「……ねえ」


少女の手を、そっと握る。


「あなた、海は好き?」


「……うん!」


少女は、元気よく頷いた。


「だって、きれいだもん!」


「……そう」


ロデーは、優しく微笑んだ。


「でもね」


その声が、少しだけ震えた。


「……海は、きれいなだけじゃないの」


「……え?」


「嵐の日もある。冷たい日もある。怖い生き物だっている」


少女は、黙って聞いていた。


「……だけど」


ロデーは、少女の頭を撫でた。


「……それでも、海を好きでいてほしいの」


「……どうして?」


ロデーの瞳に、涙が浮かんだ。


「……だって」


彼女は、小さく微笑んだ。


「……海は、たくさんの命を抱きしめているから」


かつて、ルルエラが教えてくれた言葉。


その言葉を。


今度は、自分が伝える番だった。


石化が、腰へ達した。


侍女が、泣きながら叫んだ。


「……姫様……!」


「……どうか、行かないでください……!」


ロデーは、静かに首を横に振った。


「……泣かないで」


けれど。


自分の頬にも、涙が伝っていた。


「……私は、ここにいるわ」


そして。


小さな貝殻を、胸元へ抱いた。


「……だから、約束して」


「……何を……?」


少女が、震える声で尋ねた。


「……これからも、海を大切にしてね」


少女は、何度も頷いた。


「……うん……!」


「……絶対に……!」


ロデーは、嬉しそうに微笑んだ。


「……ありがとう」


その指先が、石へ変わる。


腕が。


肩が。


そして。


最後まで貝殻を抱き締めたまま、王女は静かに眠りについた。


「……姫様……!」


少女は、石像へしがみついた。


「……わたし、約束守るから……!」


────────


森の国。


空を覆う巨木。


花々が咲き誇る大地。


小鳥たちの歌声が響く、緑の楽園。


その森の中央へ、淡い緑の光が降り立った。


「……ライアスター様!」


森の民が、次々と集まってくる。


光の中から現れたのは、植物神ライアスター。


内気で、誰よりも優しい女神だった。


「……あ、あの……」


ライアスターは、少しだけ俯いた。


「……ただいま……帰りました……」


その声に、民たちが笑った。


「お帰りなさいませ!」


「女神様、今年も花がたくさん咲きましたよ!」


「……そ、そうですか……」


ライアスターは、嬉しそうに微笑んだ。


そのとき。


ひとりの少女が、小さな花束を抱えて駆け寄った。


「……女神様!」


「……は、はい……?」


「……これ!」


少女は、白い花束を差し出した。


「……女神様と一緒に育てたお花、咲いたの!」


ライアスターは、息を呑んだ。


「……まあ……」


その花は、かつて少女と一緒に植えたものだった。


毎日、水を与えて。


一緒に土を耕して。


芽が出た日には、二人で喜んだ。


「……あ、ありがとう……」


ライアスターは、花束を受け取った。


その瞬間。


――ぴしり。


彼女の足元が、白い石へ変わり始めた。


「……女神様……?」


少女が、首を傾げた。


「……足、どうしたの……?」


ライアスターは、自分の足元を見つめた。


そして。


小さく息を呑んだ。


「……あ……」


言葉が、出なかった。


怖かった。


誰とも話せなくなることが。


花に触れられなくなることが。


そして。


もう二度と、誰かと笑い合えなくなるかもしれないことが。


「……女神様……?」


少女が、不安そうに尋ねた。


ライアスターは、震える手で花束を抱き締めた。


「……あ、あのね……」


「……なあに?」


「……これからも……」


声が、震えた。


「……お花、育ててくれる……?」


少女は、すぐに頷いた。


「……うん!」


「……毎日、水あげる!」


「……そ、そう……」


ライアスターの瞳に、涙が浮かんだ。


「……ありがとう……」


石化が、膝を越えていた。


少女が、泣き始めた。


「……女神様……!」


「……どうして、動かないの……?」


ライアスターは、そっと手を伸ばした。


少女の頬へ、指先が触れる。


「……だ、大丈夫……」


その声は、震えていた。


「……わ、私……ここにいるから……」


「……ずっと……?」


「……うん……」


ライアスターは、優しく微笑んだ。


「……ずっと……」


そして。


最後の力を振り絞り、足元の土へ神力を流した。


――ぱぁっ。


石化した足の周囲から、小さな芽が生まれた。


ひとつ。


またひとつ。


やがて、白い花が咲いた。


「……女神様……!」


少女が、泣きながら微笑んだ。


ライアスターは、頷いた。


「……お花は……」


その声が、かすれた。


「……また、咲くから……」


腕が、石へと変わった。


肩が。


首が。


そして。


最後まで少女へ微笑みかけたまま、ライアスターは永い眠りについた。


少女は、石像の前で泣き続けた。


けれど。


その翌日。


少女は、再び花壇へやってきた。


「……女神様」


小さなじょうろを持って。


「……今日も、お水あげるね」


────────


獣王の国。


広大な平原と深い森。


獣人たちが誇り高く暮らす世界。


その王宮へ、黄金色の光が降り立った。


「――女王陛下!!」


兵士たちが、一斉に膝をついた。


光の中から現れたのは、獣神ララフェンリア。


獣王の国を治める女王だった。


「……顔を上げろ」


ララフェンリアが、力強く告げた。


「私がいない間、国は無事だったか」


「はっ!」


近衛隊長が、胸を張る。


「国境に異常なし! 民の暮らしも安定しております!」


「……よくやった」


ララフェンリアは、静かに頷いた。


そのとき。


小さな獣人の少年が、人々の間から走り出した。


「……女王様!」


「……ん?」


「……ぼく、今日、弟を守ったんだ!」


少年は、誇らしげに胸を張った。


「……ほう」


ララフェンリアが、微笑んだ。


「何から守った?」


「……大きな狼から!」


その言葉に、兵士たちが息を呑んだ。


「……それで、弟は?」


「……無事!」


「……お前は?」


少年は、少しだけ俯いた。


「……ちょっと、怖かった……」


ララフェンリアは、静かに頷いた。


「……そうか」


そして。


少年の頭へ、そっと手を置いた。


「……よくやった」


少年の顔が、ぱっと明るくなった。


その瞬間。


――ぴしり。


ララフェンリアの足元が、石へと変わり始めた。


「……陛下……!?」


近衛隊長が、声を震わせた。


ララフェンリアは、自分の足を見つめた。


そして。


静かに目を閉じた。


「……来たか」


「……陛下……?」


「……騒ぐな」


その声は、いつもと同じだった。


強く。


厳しく。


けれど、どこまでも温かかった。


「……お前たち」


ララフェンリアは、兵士たちへ告げた。


「……最後の命令だ」


近衛隊長が、膝をついた。


「……はっ!」


「……この国を、守れ」


「……はっ!」


「……強い者だけの国にするな」


兵士たちが、顔を上げた。


「……弱い者も。違う者も。誰もが帰る場所を持てる国にしろ」


その瞳に、涙が浮かんだ。


「……それが、私の願いだ」


石化が、腰へ達していた。


少年が、泣きながら叫んだ。


「……女王様……!」


「……いなくなっちゃうの……?」


ララフェンリアは、静かに微笑んだ。


「……私は、ここにいる」


少年が、涙を拭った。


「……ほんと?」


「……ああ」


ララフェンリアは、頷いた。


「……お前たちが、この国を愛してくれる限り……」


その声が、震えた。


「……私は、ここにいる」


やがて。


その身体が、少しずつ石へと変わっていく。


近衛隊長が、涙を流しながら叫んだ。


「……陛下! どうか、お命令を撤回してください!」


ララフェンリアは、小さく笑った。


「……馬鹿者」


そして。


最後に、力強く告げた。


「……私は、女王だ」


その瞳が、石へと変わる。


「……民を守ることに、後悔などない」


獣神ララフェンリアは、永い眠りについた。


その瞬間。


一匹の幼い狼が、石像へ近づいた。


鼻先を、冷たい石へ押し当てる。


くぅん。


小さく鳴いた。


返事はなかった。


それでも、狼は離れなかった。


────────


霧の国。


深い霧に包まれた山々。


風車が並ぶ谷。


そして、雷鳴が響く天空。


その国へ、ふたつの光が降り立った。


ひとつは、柔らかな風をまとった光。


もうひとつは、激しい雷光を宿した光。


「……朝霧様!」


「……夕霧様!」


人々が、歓声を上げた。


光の中から現れたのは、風神・朝霧と雷神・夕霧。


二柱は、互いの顔を見合わせた。


「……帰ってきたわね」


朝霧が、静かに微笑んだ。


「……ああ。ようやくな」


夕霧は、腕を組んだ。


その声は、どこか乱暴だった。


けれど。


朝霧は、彼女の手が震えていることに気づいていた。


「……夕霧」


「……何だよ」


「……怖い?」


夕霧は、顔を背けた。


「……別に」


「……そう」


朝霧は、小さく微笑んだ。


「……私は、少し怖いわ」


夕霧が、驚いたように振り向いた。


「……お前が?」


「……ええ」


朝霧は、静かに頷いた。


「……もう一度、みんなの声を聞けると思っていなかったから」


そのとき。


ひとりの老人が、二柱へ近づいてきた。


風車職人だった。


「……朝霧様」


「……あら」


朝霧が、微笑んだ。


「……お元気でしたか?」


「はい。おかげさまで」


老人は、深く頭を下げた。


「……昨年の嵐も、あなた様のお力で乗り越えることができました」


朝霧は、首を横に振った。


「……いいえ」


「……え?」


「……風車を守ったのは、あなたたちでしょう?」


老人は、驚いた。


「……ですが……」


朝霧は、優しく微笑んだ。


「……私は、風の向きを変えただけです」


そして。


「……壊れた風車を直したのも、村を立て直したのも、あなたたち自身ですよ」


老人の目から、涙がこぼれた。


「……朝霧様……」


そのとき。


――ぴしり。


朝霧の足元が、白い石へと変わり始めた。


老人が、息を呑んだ。


「……これは……!?」


朝霧は、自分の足を見つめた。


そして。


静かに目を閉じた。


「……そう……」


小さく呟いた。


「……始まったのね」


一方。


夕霧のもとには、若い雷術師が駆け寄っていた。


「……夕霧様!」


「……おう」


夕霧は、にやりと笑った。


「……お前、まだ修行してんのか?」


「もちろんです!」


若い雷術師は、胸を張った。


「……今日は、雷を三本同時に操れるようになりました!」


「……三本?」


夕霧は、鼻を鳴らした。


「……少ねえな!」


「……ええ!?」


「……あたしは、千本だって操れるぞ!」


その声に、周囲の人々が笑った。


けれど。


夕霧の足元にも、石化が始まっていた。


「……夕霧様……?」


若い雷術師が、声を震わせた。


「……どうして……?」


夕霧は、答えなかった。


代わりに。


若者の額を、軽く小突いた。


「……お前さ」


「……はい……?」


「……雷って、何のためにあると思う?」


若者は、少し考えた。


「……敵を倒すため、ですか?」


夕霧は、ため息をついた。


「……ばか」


そして。


小さく微笑んだ。


「……夜道を照らすこともできるだろ」


若者が、目を見開いた。


「……雷で……?」


「……ああ」


夕霧は、頷いた。


「……力ってのは、使い方なんだよ」


その声が、少しだけ震えた。


「……あたしは、昔、それを知らなかった」


若者が、涙を浮かべた。


「……夕霧様……!」


「……だから」


夕霧は、にやりと笑った。


「……お前は、ちゃんと使えよ」


若者は、泣きながら頷いた。


「……はい……!」


そのとき。


朝霧が、静かに夕霧へ手を伸ばした。


「……夕霧」


「……ん?」


「……こっちへ」


夕霧は、朝霧のもとへ歩いた。


二柱の足元は、すでに石へと変わっていた。


それでも。


互いへ向かって、手を伸ばした。


「……最後くらい、素直になりなさいよ」


朝霧が、微笑んだ。


夕霧は、顔を背けた。


「……うるせえ」


けれど。


その手は、朝霧の手をしっかりと握っていた。


「……ねえ、夕霧」


「……何だよ」


「……また、一緒に空を見たいわね」


夕霧は、黙り込んだ。


そして。


「……ああ」


小さく答えた。


「……次は、もっとでっかい嵐を起こしてやる」


「……もう」


朝霧が、くすくすと笑った。


「……それじゃ、みんな困ってしまうわ」


「……じゃあ、虹にする」


その言葉に、朝霧が目を見開いた。


夕霧は、少し照れくさそうに笑った。


「……雷と風で、でっかい虹を作るんだよ」


朝霧は、涙を流しながら微笑んだ。


「……素敵ね」


石化が、二柱の身体をゆっくりと包み込んでいく。


民たちが、泣きながら叫んだ。


「……朝霧様!」


「……夕霧様!」


「……どうか、行かないでください!」


朝霧は、優しく微笑んだ。


「……大丈夫」


夕霧も、にやりと笑った。


「……泣くなって!」


そして。


二柱は、互いの手を握り締めたまま、最後の言葉を残した。


朝霧は、穏やかに。


「……風は、いつでも皆さんのそばにあります」


夕霧は、力強く。


「……雷が鳴ったら、あたしを思い出せ!」


やがて。


ふたつの身体が、完全に石へと変わった。


最後まで。


その手は、離れることがなかった。


────────


魔族の国。


黒い城壁。


紫色の空。


魔力の光が、夜空を彩る都。


その王宮へ、黒紫色の光が降り立った。


「――女王陛下!!」


老いた宰相が、駆け寄った。


光の中から現れたのは、魔神女王ペルセネラ。


誰もが恐れ、敬い、そして心から愛した女王だった。


「……騒がしいな」


ペルセネラが、静かに告げた。


「私が戻っただけだろう」


「……陛下……!」


老宰相の目から、涙がこぼれた。


「……ご無事で……!」


「……ふん」


ペルセネラは、小さく笑った。


「……私を誰だと思っている」


その声は、いつもと同じだった。


威厳に満ち。


少しだけ皮肉っぽく。


けれど、どこまでも温かかった。


「……ところで」


ペルセネラが、玉座を見渡した。


「……私の留守中、国庫を減らした者はいないだろうな?」


老宰相が、慌てて答える。


「……も、もちろんでございます!」


「……そうか」


ペルセネラは、満足そうに頷いた。


「……ならば、よい」


そのとき。


――ぴしり。


彼女の足元が、白い石へと変わり始めた。


「……陛下……?」


老宰相が、息を呑んだ。


「……お身体が……!」


ペルセネラは、自分の足を見つめた。


そして。


「……そうか」


小さく呟いた。


「……ここまでか」


老宰相が、膝をついた。


「……陛下……!」


「……どうか、私に治癒の術を……!」


「……無駄だ」


ペルセネラは、静かに首を横に振った。


「……これは、私自身が選んだものだ」


老宰相の表情が、崩れた。


「……なぜ……!」


「……なぜ、そんなことを……!」


ペルセネラは、静かに微笑んだ。


「……守りたいものが、あったからだ」


その声に、老宰相が息を呑んだ。


「……それは……」


「……お前たちだよ」


ペルセネラは、静かに答えた。


「……私の、愚かで、愛しい民たちだ」


老宰相は、泣き崩れた。


「……陛下……!」


そのとき。


小さな魔族の少女が、玉座の前へ歩いてきた。


手には、小さな魔導灯を抱えている。


「……女王様」


「……ん?」


ペルセネラが、少女へ顔を向けた。


「……どうした?」


少女は、震える声で尋ねた。


「……女王様、暗いところ、怖くない?」


ペルセネラは、少しだけ驚いた。


「……なぜ、そう思う?」


「……だって……」


少女は、涙を浮かべた。


「……ずっと、ひとりになっちゃうんでしょ……?」


ペルセネラは、しばらく黙っていた。


そして。


静かに微笑んだ。


「……そうだな」


「……では」


少女が、魔導灯を差し出した。


「……これ、あげる……!」


ペルセネラは、息を呑んだ。


「……私に?」


「……うん……!」


少女は、泣きながら頷いた。


「……これがあれば、暗くないよ……!」


ペルセネラは、そっと魔導灯を受け取った。


その瞳に、涙が浮かんだ。


「……まったく」


小さく笑った。


「……お前たちは、本当に……」


言葉が、震えた。


「……私を甘やかしすぎる」


石化が、腰へ達していた。


それでも。


彼女は、魔導灯を胸元へ抱き締めた。


「……ありがとう」


少女が、泣きながら微笑んだ。


「……女王様……!」


ペルセネラは、老宰相へ視線を向けた。


「……お前に、最後の命令だ」


「……はっ……!」


「……この国を、暗闇に沈めるな」


その声は、力強かった。


「……誰かが帰ってきたとき、灯りが見える国にしろ」


老宰相は、何度も頷いた。


「……必ず……!」


「……必ず、お守りいたします……!」


ペルセネラは、満足そうに微笑んだ。


やがて。


その身体が、ゆっくりと石へと変わっていく。


指先が。


腕が。


肩が。


そして。


最後まで魔導灯を抱き締めたまま、女王は永い眠りについた。


────────


天使の国。


雲海の上に浮かぶ、白銀の宮殿。


二翼の天使たちが舞う、光の王国。


その王宮へ、黄金の光が降り立った。


「――女王陛下!!」


天使たちが、一斉に膝をついた。


光の中から現れたのは、天界神・天使女王シャルティア。


誰よりも慈悲深く、誰よりも公正な女王だった。


「……皆さん」


シャルティアが、優しく微笑んだ。


「……ただいま、戻りました」


その声に、天使たちが歓声を上げた。


けれど。


ひとりの若い天使だけは、少し離れた場所に立っていた。


背中の翼は、片方が傷ついていた。


かつて罪を犯し、天界から追放されかけた青年だった。


「……陛下……」


彼は、震える声で呟いた。


シャルティアは、ゆっくりと歩み寄った。


「……お元気でしたか?」


青年は、顔を伏せた。


「……はい……」


そして。


「……あのときは、本当に……」


声が、震えた。


「……私のような者を、赦してくださって……」


シャルティアは、静かに首を横に振った。


「……赦したのは、私ではありません」


「……え?」


「……あなた自身ですよ」


青年が、顔を上げた。


シャルティアは、微笑んだ。


「……過ちを認め、償おうとしたのは、あなた自身です」


そして。


「……私は、その道を見守っただけです」


青年の目から、涙がこぼれた。


「……陛下……!」


そのとき。


――ぴしり。


シャルティアの足元が、石へと変わり始めた。


「……女王陛下……!?」


天使たちが、息を呑んだ。


「……これは……!」


シャルティアは、自分の身体を見つめた。


そして。


静かに目を閉じた。


「……そうですか」


小さく呟いた。


「……もう、時間なのですね」


青年が、泣きながら叫んだ。


「……陛下……!」


「……どうか、私の命を使ってください!」


「……私が、代わりに……!」


シャルティアは、静かに首を横に振った。


「……いけません」


その声は、優しかった。


けれど。


決して揺るがない強さがあった。


「……あなたの命は、あなた自身のものです」


青年が、涙を流した。


「……ですが……!」


「……いいのです」


シャルティアは、そっと手を伸ばした。


傷ついた翼へ、指先が触れる。


「……あなたには、まだ飛ぶべき空があります」


その言葉に、青年が息を呑んだ。


「……私には……?」


「……ええ」


シャルティアは、微笑んだ。


「……誰かを救うための空が、あります」


石化が、腰へ達していた。


それでも。


彼女は、翼を大きく広げた。


十二枚の翼が、黄金の神光に包まれる。


「……皆さん」


その声が、王宮へ響いた。


「……どうか、忘れないでください」


天使たちが、一斉に顔を上げた。


「……正しさだけでは、救えないものがあります」


その瞳に、涙が浮かんだ。


「……誰かを裁く前に、その人の痛みを知ろうとしてください」


青年は、泣きながら頷いた。


「……はい……!」


「……必ず……!」


シャルティアは、満足そうに微笑んだ。


そして。


翼を、ゆっくりと畳んだ。


「……では、皆さん……」


その声が、かすれた。


「……どうか、お元気で……」


黄金の翼が、石へと変わっていく。


腕が。


肩が。


そして。


最後まで慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、シャルティアは永い眠りについた。


────────


武闘の国。


高い山々に囲まれた、鍛錬の大地。


そこでは、老若男女を問わず、人々が日々己の技を磨いていた。


その中央道場へ、眩い光が降り立った。


「――師匠!!」


弟子たちが、一斉に立ち上がった。


光の中から現れたのは、武闘神イーピン。


誰よりも厳しく、誰よりも強い師だった。


「……何だ、その騒ぎは」


イーピンは、眉を寄せた。


「稽古を中断してまで出迎えるとは、随分と余裕があるようだな」


弟子たちが、慌てて姿勢を正した。


「……も、申し訳ありません!」


「……ふん」


イーピンは、腕を組んだ。


「ならば、稽古を再開しろ」


その声に、弟子たちが安堵の笑みを浮かべた。


いつもの師匠だった。


厳しくて。


怖くて。


けれど、誰よりも弟子たちの成長を喜ぶ師匠。


そのとき。


ひとりの少年が、前へ出た。


「……師匠!」


「……何だ」


「……俺、師匠がいない間に、新しい技を覚えました!」


イーピンが、目を細めた。


「……ほう?」


「……見てください!」


少年は、拳を構えた。


「――はああっ!!」


鋭い一撃。


空気が震え、道場の床に小さな亀裂が走った。


弟子たちが、歓声を上げた。


「……すごい!」


「……あいつ、あんな技まで……!」


イーピンは、静かに頷いた。


「……悪くない」


少年の顔が、ぱっと明るくなった。


「……本当ですか!?」


「……ああ」


そして。


「……だが、まだ甘い」


少年が、肩を落とした。


「……やっぱり……」


イーピンは、小さく笑った。


「……当然だ。私の弟子なのだから、まだまだ強くなってもらわねば困る」


その言葉に、少年が笑った。


しかし。


――ぴしり。


イーピンの足元が、石へ変わり始めた。


「……師匠……?」


少年が、不思議そうに尋ねた。


「……足が……」


イーピンは、自分の足を見つめた。


そして。


静かに息を吐いた。


「……来たか」


「……何が、ですか……?」


イーピンは、答えなかった。


代わりに。


少年へ向かって、拳を構えた。


「……最後に、一手だけ教えてやる」


少年が、息を呑んだ。


「……師匠……?」


「……来い」


その声には、普段と変わらぬ強さがあった。


少年は、涙を浮かべながら拳を握った。


「……はい……!」


全力で、踏み込む。


「――はあああっ!!」


けれど。


イーピンは、拳を振るわなかった。


ただ、少年の拳を受け止めた。


「……え……?」


少年が、目を見開いた。


「……師匠……?」


「……覚えておけ」


イーピンは、静かに告げた。


「……強さとは、誰かを倒すことだけではない」


少年の拳を、そっと包み込む。


「……誰かの一撃を受け止めることも、強さだ」


少年の目から、涙がこぼれた。


「……師匠……!」


イーピンは、微笑んだ。


「……私も、昔は知らなかった」


その瞳に、遠い記憶が浮かんだ。


かつて。


ルルエラが、教えてくれた言葉。


守るための強さ。


誰かを傷つけるためではなく、誰かを生かすための拳。


「……だから、お前たちにも教えておく」


石化が、腰へ達していた。


弟子たちが、泣きながら駆け寄った。


「……師匠!」


「……どうか、行かないでください!」


イーピンは、首を横に振った。


「……泣くな」


けれど。


その瞳にも、涙が浮かんでいた。


「……私の弟子だろう」


少年が、嗚咽を漏らした。


「……師匠……!」


イーピンは、最後に拳を突き出した。


「……約束しろ」


「……何を、ですか……?」


「……お前たちの拳を、弱い者へ向けるな」


弟子たちは、何度も頷いた。


「……はい……!」


「……必ず……!」


イーピンは、満足そうに微笑んだ。


そして。


「……それでいい」


その拳が、ゆっくりと石へ変わった。


腕が。


肩が。


そして。


最後まで前を見据えたまま、イーピンは永い眠りについた。


────────


堕天使の国。


暗い空に、紫色の星々が輝く王国。


黒い翼を持つ者たちが暮らす、静かな大地。


その王宮へ、漆黒の光が降り立った。


「――女王陛下!!」


堕天使たちが、一斉に膝をついた。


光の中から現れたのは、天界神・堕天使女王ルキフェル。


誰にも媚びず。


誰にも屈せず。


それでも、行き場を失った者たちを受け入れてきた女王だった。


「……顔を上げろ」


ルキフェルが、静かに告げた。


「私は、跪かれるために帰ってきたわけではない」


堕天使たちが、驚いたように顔を上げた。


「……陛下……?」


「……それに」


ルキフェルは、小さく笑った。


「……いつまで、そんな情けない顔をしている」


その声に、人々が笑った。


いつもの女王だった。


誇り高く。


少し冷たく。


けれど、誰よりも民を大切にする女王。


そのとき。


ひとりの少年が、人々の間から歩いてきた。


背中には、小さな黒い翼。


片方の翼は、まだうまく動かなかった。


「……女王様……」


「……ん?」


ルキフェルが、顔を向けた。


「……どうした」


少年は、俯いた。


「……ぼく、まだ……」


声が、震えた。


「……ちゃんと、飛べないんだ……」


ルキフェルは、静かに頷いた。


「……そうか」


少年が、涙を浮かべた。


「……みんな、空を飛べるのに……」


「……ぼくだけ……」


ルキフェルは、少年の前へ膝をついた。


「……それが、どうした」


少年が、顔を上げた。


「……え……?」


「……飛べないことが、そんなに悪いことか?」


少年は、驚いた。


「……でも……」


「……翼があるからといって、必ず飛ばなければならないわけではない」


ルキフェルは、静かに続けた。


「……歩いてもいい。走ってもいい。誰かの手を借りてもいい」


その声は、優しかった。


「……お前が進みたい道を、進めばいい」


少年の目から、涙がこぼれた。


「……女王様……!」


そのとき。


――ぴしり。


ルキフェルの足元が、石へと変わり始めた。


「……陛下……!?」


周囲の堕天使たちが、息を呑んだ。


「……お身体が……!」


ルキフェルは、自分の足を見つめた。


そして。


静かに目を閉じた。


「……そうか」


小さく呟いた。


「……もう、時間なのだな」


少年が、泣きながら尋ねた。


「……女王様……?」


「……どこかへ行っちゃうの……?」


ルキフェルは、首を横に振った。


「……いいや」


そして。


少年の頭へ、そっと手を置いた。


「……私は、ここにいる」


「……ほんと……?」


「……ああ」


ルキフェルは、微笑んだ。


「……お前たちの帰る場所として、ここにいる」


少年は、泣き崩れた。


「……やだ……!」


「……ぼく、まだ女王様に……!」


その声に、ルキフェルの瞳が揺れた。


「……何だ?」


少年は、涙を拭った。


「……飛べるようになったところ、見せたかったのに……!」


ルキフェルは、しばらく黙っていた。


そして。


静かに微笑んだ。


「……ならば」


その声が、少しだけ震えた。


「……いつか、見せに来い」


少年が、顔を上げた。


「……え……?」


「……飛べるようになったら、ここへ来い」


ルキフェルは、胸を張った。


「……私は、待っている」


石化が、腰へ達した。


民たちが、泣きながら叫んだ。


「……女王陛下!」


「……どうか、私たちを置いていかないでください!」


ルキフェルは、静かに首を横に振った。


「……私は、お前たちを捨てない」


その声は、力強かった。


「……そして、お前たちも、誰かを捨てるな」


民たちが、息を呑んだ。


「……行き場を失った者がいれば、迎えてやれ」


「……傷ついた者がいれば、居場所を与えてやれ」


そして。


「……誰もが、帰ってこられる国にしろ」


その瞳に、涙が浮かんだ。


「……それが、私の願いだ」


やがて。


その身体が、石へと変わっていった。


黒い翼が。


腕が。


肩が。


そして。


最後まで少年へ微笑みかけたまま、ルキフェルは永い眠りについた。


少年は、石像の前へ膝をついた。


「……女王様……」


震える声で、呟く。


「……ぼく、絶対に飛べるようになる……」


そして。


「……そのときは、見ててね……」


────────


邪馬台国――三十万の祈りと、血の湖


そして。


最後の光が、ひとつの国へ向かっていた。


人間族の国。


邪馬台国。


かつて、豊かな田畑が広がり、人々の笑い声が絶えることのなかった国。


その中心には、大きな都があった。


朝になれば市場が開き、子どもたちが駆け回り、夕暮れには家々から炊事の煙が立ち上る。


人々は、天啓神ヒミコを敬愛していた。


邪馬台国初代女王。


神々の声を聞き、未来を見通し、民を導いてきた女神。


困った者がいれば、その声に耳を傾けた。


飢えた者がいれば、食べ物を分け与えた。


泣いている子どもがいれば、大きな身体を屈め、小さな手を包み込んだ。


『……泣くでないぞ。そなたの涙は、わらわが拭ってやるのじゃ』


そんな女王を、民たちは心から愛していた。


だからこそ。


彼女が世界を救うため、自らを封印すると知ったとき。


人々は、ひとつの選択をした。


女王を失いたくない。


たとえ、自分たちのすべてを差し出してでも。


彼女に生きていてほしい。


その願いは、やがて国中へ広がっていった。


そして。


三十万人もの民が、禁じられた儀式へ身を捧げた。


自らの身体を巡る、すべての血を。


愛する女王を救うための、贄として。


その儀式を終えた者は、誰ひとりとして生き残らなかった。


残されたのは、国の外れにある、わずか一つの集落の人々だけだった。


彼らは、未来へ命を繋ぐために、儀式から外されていた。


けれど。


その選択を、ヒミコは知らなかった。


一度たりとも、望んではいなかった。


────────


――ぱぁっ。


邪馬台国の上空に、黄金の光が現れた。


十二柱の封印。


ルルエラとの最後の別れ。


そして、遠い未来への天啓。


すべてを終えたヒミコが、ようやく故郷へ戻ってきたのだった。


「……ふう」


彼女は、小さく息を吐いた。


「……ようやく帰ってこられたのう……」


その声には、疲労が滲んでいた。


けれど。


ほんの少しだけ、嬉しそうでもあった。


「……皆の者、息災であったかのう……」


いつものように。


民たちへ声をかけようとした。


しかし。


返事はなかった。


「……む?」


ヒミコは、首を傾げた。


市場の賑わいがない。


子どもたちの声がしない。


風に揺れる稲穂の音さえ、どこか遠い。


不思議に思い、眼下へ視線を向ける。


そして。


――息を止めた。


「…………え?」


そこには。


都が、なかった。


かつて多くの人々が暮らしていた、邪馬台国の中心地。


その大地が、深い紅に染まっていた。


巨大な窪地。


その内側を満たす、暗紅色の液体。


禁じられた儀式によって大地の形まで変わり、広大な湖が生まれていた。


三十万人の民が、自らの命と引き換えに捧げた血液。


そのすべてを受け止めた、巨大な血の湖だった。


湖畔には、崩れた家屋が並んでいた。


誰かが食事を用意していた土器。


干されたままの衣服。


子どもが遊んでいた木のおもちゃ。


昨日まで、確かに暮らしがあったことを物語るものだけが、残されていた。


そして。


人々の姿は、どこにもなかった。


「……なん……じゃ……?」


ヒミコの唇が震えた。


「……これは……」


彼女は、ゆっくりと湖の中央へ降り立った。


そこには、水面から突き出した巨大な岩山があった。


国の中心を見渡せる、古くからの聖地。


かつて、彼女自身が民へ神託を伝えていた場所だった。


その頂に、黄金の光が静かに集まる。


ヒミコは、岩肌に足をついた。


そして。


もう一度、周囲を見渡した。


「……誰か……」


声が、震える。


「……誰か、おらぬのか……?」


返事はなかった。


「……のう……」


彼女は、湖の向こうへ手を伸ばした。


「……わらわは、帰ってきたのじゃぞ……?」


静寂。


ただ、紅い湖面が微かに揺れていた。


「……いつものように……」


ヒミコは、必死に微笑もうとした。


「……お帰りなさいと……言うてはくれぬのか……?」


その瞬間。


一筋の涙が、頬を伝った。


「……どうして……」


ヒミコは、膝を震わせた。


「……どうして、誰も……おらぬのじゃ……?」


────────


やがて。


遠い岸辺から、ひとつの声が響いた。


「……女王様……!」


ヒミコが、顔を上げた。


湖の向こう側。


一艘の小舟が、岩山へ近づいていた。


舟には、老人と、幼い少女が乗っていた。


国の外れの集落から来た、生き残りの民だった。


「……おお……!」


ヒミコの顔が、ぱっと明るくなった。


「……おったか……!」


彼女は、涙を拭った。


「……よかった……! 生きておったのじゃな……!」


小舟が、岩山の麓へ辿り着く。


老人は、震える足で舟を降りた。


そして。


ヒミコの前へ、深く膝をついた。


「……女王様……」


「……うむ……!」


ヒミコは、老人へ手を伸ばした。


「……どうしたのじゃ。顔を上げるがよい」


しかし。


老人は、顔を上げなかった。


「……申し訳……ございません……」


ヒミコの笑顔が、止まった。


「……何を、謝っておるのじゃ……?」


老人の肩が震えた。


「……私たちは……」


言葉が、途切れた。


「……女王様を、お救いしたかったのです……」


ヒミコは、眉を寄せた。


「……救う……?」


老人は、泣きながら頷いた。


「……あなた様が、封印されると聞き……」


「……皆、自らの命を……!」


その言葉に。


ヒミコの瞳が、大きく見開かれた。


「……まさか……」


老人は、額を岩肌へ押し当てた。


「……三十万人の民が、禁じられた儀式に……」


「……自らの、すべての血を捧げました……」


沈黙。


ヒミコは、何も言えなかった。


「……血……?」


小さく、呟く。


そして。


目の前に広がる湖へ、ゆっくりと顔を向けた。


「……この、湖は……」


老人は、嗚咽を漏らした。


「……はい……」


「……すべて……」


声が、震えた。


「……あなた様をお救いするために……」


その瞬間。


ヒミコの表情が、崩れた。


「…………なぜじゃ」


老人は、顔を上げた。


「……女王様……?」


「……なぜ……!」


ヒミコの声が、岩山に響いた。


「……なぜ、そのようなことをしたのじゃ!!」


老人が、びくりと身体を震わせた。


ヒミコの頬を、涙が伝った。


「……わらわは……!」


声が、震える。


「……わらわは、そなたたちに生きていてほしかったのじゃ……!」


彼女は、胸元へ手を当てた。


「……ただ、笑っていてほしかった……!」


「……腹いっぱい飯を食べ……!」


「……愛する者と、朝を迎え……!」


「……子を育て、歳を重ね……!」


涙が、次々とこぼれ落ちた。


「……それだけで、よかったのじゃ……!」


老人は、泣き崩れた。


「……女王様……!」


ヒミコは、首を横に振った。


「……わらわのために……」


その声は、かすれていた。


「……三十万もの命を……」


彼女は、紅い湖を見つめた。


「……こんなもの……!」


唇を噛み締める。


「……こんなものを、わらわが喜ぶと……思うたのか……?」


老人は、何も答えられなかった。


────────


そのとき。


小さな足音が響いた。


――とん。


少女だった。


老人の背後から、ゆっくりと歩み出る。


「……女王様……」


ヒミコが、顔を向けた。


少女は、小さな両手を握り締めていた。


「……お父さんも……」


その声が、震えた。


「……お母さんも……ここにいるの……?」


ヒミコは、息を呑んだ。


少女が指さしたのは。


紅い湖だった。


「……お父さんがね……」


少女は、泣きながら続けた。


「……女王様は、みんなを助けてくれたからって……」


「……だから、今度は自分たちが助けるんだって……」


ヒミコの瞳が、震えた。


「……でもね……」


少女の頬を、涙が伝った。


「……わたし、お父さんとお母さんに……帰ってきてほしかった……」


ヒミコは、何も言えなかった。


少女は、泣きながら尋ねた。


「……女王様……」


「……なあに……?」


ヒミコの声も、震えていた。


「……女王様が帰ってきたら……」


少女は、唇を噛んだ。


「……お父さんたちも、帰ってくるの……?」


その問いに。


ヒミコの心が、砕けた。


「…………っ」


答えられなかった。


天啓を司る女神。


未来を見通す力を持つ存在。


幾度となく民の危機を予見し、救ってきた女王。


けれど。


今、目の前で泣いている少女に。


希望を約束することすら、できなかった。


ヒミコは、ゆっくりと首を横に振った。


「……すまぬ……」


少女が、息を呑んだ。


「……わらわには……」


その声が、涙で途切れた。


「……そなたの父と母を……連れ戻してやれぬのじゃ……」


少女は、その場に崩れ落ちた。


「……いや……!」


小さな声だった。


「……いやだよ……!」


ヒミコは、手を伸ばした。


けれど。


少女を抱き締める直前。


――ぴしり。


彼女の足元が、白い石へ変わり始めた。


「…………あ」


ヒミコは、自分の身体を見つめた。


十二柱の封印。


自ら選んだ、永い眠り。


その時が、訪れたのだった。


────────


「……女王様……?」


老人が、声を震わせた。


「……お身体が……!」


ヒミコは、静かに頷いた。


「……うむ……」


そして。


泣いている少女を見つめた。


「……のう」


小さく呼びかける。


「……わらわの話を、聞いてくれるかのう……?」


少女は、涙で濡れた顔を上げた。


ヒミコは、優しく微笑んだ。


「……わらわは、そなたたちを守るために、女王になったのじゃ」


石化が、膝へ達する。


「……なのに……」


その瞳に、涙があふれた。


「……そなたたちに、わらわの命を守らせてしまった……」


少女が、小さく首を振った。


「……女王様……」


「……すまぬのう……」


ヒミコは、嗚咽を堪えた。


「……わらわが、もっと強ければ……」


「……もっと、賢ければ……」


「……そなたたちに、そのような選択をさせずに済んだのじゃ……」


老人が、泣きながら叫んだ。


「……違います!」


「……女王様が、悪いのではございません……!」


ヒミコは、静かに首を横に振った。


「……それでも……」


紅い湖を見つめる。


「……わらわは、この命の重さを……忘れてはならぬのじゃ……」


石化が、腰へ達した。


少女が、ヒミコの手へしがみついた。


「……女王様まで、いなくなっちゃうの……?」


ヒミコは、少女の小さな手を包み込んだ。


「……うむ……」


「……いや……」


「……すまぬ……」


少女の涙が、ヒミコの手に落ちた。


「……みんな、いなくなっちゃう……」


その言葉に。


ヒミコは、静かに目を閉じた。


そして。


「……そうじゃな……」


声を震わせながら、頷いた。


「……寂しいのう……」


少女の手を、そっと撫でる。


「……わらわも、寂しいのじゃ……」


────────


やがて。


石化が、胸元へ達した。


もう、歩くことはできなかった。


ヒミコは、残された力で身体を起こした。


そして。


血の湖を見渡した。


三十万人。


三十万の名前。


三十万の人生。


その誰もが、かつて自分へ笑顔を向けてくれた、大切な民だった。


「……皆の者……」


ヒミコは、静かに呼びかけた。


返事はなかった。


それでも。


彼女は、語り続けた。


「……わらわは、そなたたちの女王であった……」


その声は、湖の上へ広がった。


「……じゃが……」


涙が、頬を伝った。


「……そなたたちを、生かすことができなかった……!」


彼女は、震える両手を持ち上げた。


天へ。


どこまでも高い空へ。


まるで、失われた三十万の魂へ手を伸ばすように。


「……すまぬ……!」


その声が、天地へ響いた。


「……すまぬ……皆の者……!」


涙が、止まらなかった。


「……どうか……!」


ヒミコは、天を仰いだ。


「……わらわではなく……!」


「……そなたたち自身の幸せを……!」


その声が、次第にかすれていく。


「……選んで……ほしかったのじゃ……!」


少女は、泣いていた。


老人も、泣いていた。


遠い岸辺では、最後の集落の人々が、女王へ祈りを捧げていた。


ヒミコは、両手を天へ伸ばしたまま、静かに微笑んだ。


「……残された者たちよ……」


最後の力を振り絞る。


「……二度と……」


その声は、どこまでも優しかった。


「……誰かのために、自らの命を贄にするでないぞ……」


石化が、肩へ達した。


腕が。


指先が。


それでも。


彼女の両手は、天へ伸ばされたままだった。


「……生きるのじゃ……」


涙を流しながら。


最後に、微笑んだ。


「……生きて……幸せに……なるのじゃぞ……」


――ぴしり。


白い石が、首元へ広がった。


そして。


最後まで涙を流した瞳も。


天を仰いだ顔も。


静かに、石へ変わっていった。


天啓神ヒミコ。


邪馬台国初代女王。


彼女は、巨大な血の湖の中央にそびえる岩山の頂で。


両手を天へ伸ばし、涙を流しながら。


永い眠りについた。


────────


しばらくの間。


誰も、言葉を発することができなかった。


ただ。


湖面を渡る風だけが、静かに響いていた。


やがて。


少女が、石像を見上げた。


「……女王様……」


その声は、小さかった。


「……わたし、生きるね……」


老人が、少女の肩へ手を添えた。


「……ああ……」


彼は、涙を拭った。


「……生きよう……」


そして。


残された集落の人々へ、静かに告げた。


「……私たちは、この国を終わらせてはならない」


「……亡くなった者たちのためにも……」


老人は、ヒミコの石像を見上げた。


「……女王様が守ろうとした、命を繋いでいくのだ……」


人々は、静かに頷いた。


その日から。


邪馬台国の中心に広がる血の湖は、失われた三十万の命を悼む場所となった。


湖の中央には、巨大な岩山。


その頂には、天を仰ぐ女王の石像。


両手を高く伸ばし。


まるで、今も民たちの魂へ手を差し伸べているかのような姿だった。


そして。


儀式によって捧げられた三十万人の血の神性は、ひとつの壺へと凝縮され、遠い時の狭間へ託された。


――邪馬台国の血壺。


ヒミコを再び目覚めさせるための、封印媒体。


けれど。


その壺に込められていたのは、単なる神力ではなかった。


三十万人が女王へ託した願い。


女王が三十万人へ抱いた、深い愛情。


そして。


もう二度と、同じ悲劇を繰り返してはならないという、最後の約束だった。


時が流れた。


残された集落は、少しずつ大きくなった。


新しい子どもが生まれた。


人々は畑を耕し、家を建て、再び暮らしを紡ぎ始めた。


けれど、決して忘れなかった。


三十万の命が失われた日を。


その犠牲を前に、女王が泣き崩れたことを。


そして、女王が最後に遺した言葉を。


――生きて、幸せになるのじゃぞ。


何千年もの後。


血の湖を見下ろす岩山の頂で。


ヒミコは、今も両手を天へ伸ばしている。


涙を流したまま。


祈るように。


懺悔するように。


いつの日か。


この悲しみを終わらせる、優しい命が現れることを願いながら。


────────


過去の涙――ウルズが見た真実


――こつん。


時計盤の杖が、床を叩いた。


ウルズの意識が、現在へ戻る。


目の前には、温かな暖炉。


柔らかな絨毯。


そして。


ヴェルザンディのそばで笑っている、三人の幼いエルフ。


「……ウルズ?」


スクルドが、顔を覗き込んだ。


「……どうしたの?」


ウルズは、しばらく答えられなかった。


十二柱の女神たち。


その最後の姿。


ルルエラへ浴びせた、心とは正反対の言葉。


そして。


自分たちを封じることと引き換えに、世界を守った決断。


そのすべてが、胸の奥に焼きついていた。


「……私たちは……」


ウルズが、静かに口を開いた。


「……忘れていたのですね」


スクルドが、首を傾げた。


「……何を?」


ウルズは、二柱を見つめた。


「……十二柱の女神たちとの、約束を」


ヴェルザンディが、息を呑んだ。


「……約束……?」


「ええ」


ウルズは、静かに頷いた。


「……私たちは、自らの意思で、大戦の記憶を消したのです」


スクルドの表情が、凍りついた。


「……そんな……!」


ウルズは、ゆっくりと説明した。


十二柱との協議。


ルルエラの神力が、時空そのものへ及ぼす脅威。


封印を解くための媒体。


そして。


自分たちが、その管理を引き受けていたこと。


「……でも」


スクルドが、眉を寄せた。


「……そんな大事なものが、このタイム・オータムにあるっていうの?」


ウルズは、静かに頷いた。


「……あるはずです」


「……どこに?」


「……それが、わからないのです」


ヴェルザンディが、息を呑んだ。


「……封印の場所も、消してしまったのですね……」


「……ええ」


ウルズは、静かに答えた。


「私が覗いたのは、過去に残された出来事です。失われた記憶そのものが戻ったわけではありません」


スクルドは、唇を噛んだ。


「……じゃあ、私たちは……」


ウルズは、三人の子どもたちへ視線を向けた。


「……まず、この子たちを休ませてあげましょう」


その言葉に、スクルドが目を瞬かせた。


「……え?」


「……今は、それが何よりも大切です」


ヴェルザンディが、静かに頷いた。


「……そうですね」


そのとき。


エルフィが、小さく声を上げた。


「……お姉さん」


「……何でしょう?」


「……どうして、泣いてるの?」


ウルズは、息を呑んだ。


自分でも気づかないうちに、涙が頬を伝っていた。


「……少し、昔のことを思い出したのです」


エルフィは、少し考えた。


そして。


「……悲しかった?」


ウルズは、静かに頷いた。


「……ええ」


すると。


エルフィが、小さな手を伸ばした。


「……じゃあ、ぎゅってしてあげる」


ウルズは、微笑んだ。


「……ありがとうございます」


そして。


その小さな手を、そっと包み込んだ。


────────


三つの小さな約束


暖炉の前。


アスルが、ぽつりと呟いた。


「……ねえ」


エイリクが、顔を向ける。


「……なに?」


「……ぼく、強くなりたい」


「……強く?」


「……うん」


アスルは、ぎゅっと拳を握った。


「……だって、さっきのお姉さんたち、ぼくたちを守って怪我しちゃったから」


エイリクは、静かに頷いた。


「……うん」


「……ぼくたちが、もっと強かったら……」


その声が、小さくなった。


エルフィが、そっと兄の手を握る。


「……アスル」


「……なに?」


「……強いって、どういうこと?」


アスルは、少し考えた。


「……いっぱい戦えること?」


「……そうなのかな」


エルフィは、首を傾げた。


そして。


「……でもね」


少女は、小さく微笑んだ。


「……お母さんが言ってたよ」


「……なに?」


「……誰かを守りたいって思える人は、もう強いんだって」


アスルは、黙り込んだ。


「……じゃあ、ぼくも?」


「……うん!」


エルフィは、嬉しそうに頷いた。


「……アスルも、エイリクも、強いよ!」


エイリクが、少し照れくさそうに笑った。


「……でも、もっと強くなりたいね」


「……うん!」


アスルが、元気よく答える。


エルフィも、小さな手を重ねた。


「……わたしも!」


三人は、互いの手を握り合った。


「……いつか、誰かを守れるようになろう」


エイリクが言った。


「……うん!」


アスルが頷く。


「……三人で!」


エルフィが、にっこり微笑んだ。


その声を、三女神は静かに聞いていた。


ウルズは、時計盤の杖を握り直す。


ヴェルザンディは、三人を優しく見つめた。


スクルドは、少しだけ顔を背ける。


「……まったく」


彼女は、小さく呟いた。


「……本当に、手のかかる子たちね」


けれど。


その声は、どこまでも優しかった。


────────


第四節・終幕――黄金の神殿と、空中戦艦オデゥッセウス


やがて。


三人の幼いエルフは、暖炉のそばで静かに眠り始めた。


エイリクは、弟と妹の手を握ったまま。


アスルは、兄の肩へ頭を預けて。


エルフィは、小さな花飾りの杖を胸元に抱いて。


三つの小さな寝息が、重なっている。


「……眠りましたね」


ヴェルザンディが、優しく微笑んだ。


「……ええ」


ウルズも、静かに頷いた。


スクルドは、三人へ毛布を掛けた。


「……ほんと、手のかかる子たちなんだから」


そう言いながら。


その手つきは、どこまでも優しかった。


「……おやすみ」


スクルドが、小さく呟いた。


「……ゆっくり、眠りなさい」


そのとき。


――カチリ。


壁に掛けられた時計が、ひとつ止まった。


「……あら?」


ヴェルザンディが、顔を上げた。


――カチリ。


二つ目。


――カチリ。


三つ目。


部屋中の時計が、次々と動きを止めていく。


「……何よ、これ……」


スクルドが、眉を寄せた。


その瞬間。


――カァァァァン!!


時計塔の鐘が、激しく鳴り響いた。


ウルズが、時計盤の杖を握り締める。


「……時空が、震えている……!」


金色の森が揺れた。


琥珀色の川が、ゆっくりと逆流を始めた。


そして。


遥か遠く。


タイム・オータムの空に、巨大な黄金の光が現れた。


「……あれは……!?」


ヴェルザンディが、息を呑んだ。


黄金の森の向こう。


何も存在しなかったはずの空間に。


巨大なピラミッドが、姿を現していた。


それは、石で造られた建造物ではなかった。


純粋な黄金の神光。


幾重にも重なる光の層が、巨大な四角錐を形作っている。


その内部には。


白亜の神殿が浮かんでいた。


「……まさか……!」


ウルズの表情が、凍りついた。


過去の協議。


十二柱の女神たち。


自ら封じた記憶。


そして。


託された媒体。


それらが、胸の奥で重なっていく。


「……あれが……」


スクルドが、震える声で尋ねた。


「……私たちの、忘れていたもの……?」


ウルズは、静かに頷いた。


「……確かめましょう」


三女神は、眠る子どもたちを安全な寝室へ移し、それぞれの杖を手の届くところへ置いた。


そして、住まいを幾重もの時空結界で守った。


「……行きましょう」


ウルズが、静かに告げた。


三柱は、黄金の光へと向かった。


────────


黄金のピラミッドの内部。


巨大な白亜の神殿が、静かに佇んでいた。


高くそびえる柱。


黄金の装飾。


十二柱の女神を象った彫刻。


そして。


神殿の中央に刻まれた、十二の神紋。


「……こんな場所が……」


ヴェルザンディが、呟いた。


「……タイム・オータムに、存在していたなんて……」


「……私たちが、隠したのね」


スクルドが、静かに答えた。


「……自分たちで忘れてしまうくらい、深い時間の中に……」


ウルズは、杖を握り直した。


「……ええ」


そして。


「……それほどまでに、守らなければならないものがあったのでしょう」


三女神は、巨大な扉へ近づいた。


――ギギギギギッ。


重厚な音が響いた。


扉が、ゆっくりと開いていく。


その向こうには。


広大な白亜の大広間が広がっていた。


床には、十二の神紋。


そして。


円を描くように、十二の祭壇が並んでいた。


「……これは……」


ヴェルザンディが、息を呑んだ。


ウルズは、最初の祭壇へ近づいた。


そこには、透明な結晶に包まれた媒体が浮かんでいた。


「……トゥリフェーラの脳……」


隣には、消えることのない炎。


「……アイーシャの残火……」


青く脈動する心臓。


「……ロデーの心臓……」


決して枯れることのない花束。


「……ライアスターのインフィニティブーケ……」


氷の狼を宿した宝玉。


「……ララフェンリアの氷狼宝玉……」


風と雷の神力が渦巻く宝玉。


「……朝霧と夕霧の、嵐鬼の宝玉……」


黒紫色の光を放つ頭蓋骨。


「……ペルセネラの頭蓋骨……」


黄金に輝く翼。


「……シャルティアの黄金の翼……」


三十万人の民が捧げた血の神性を封じた古い壺。


「……邪馬台国の血壺……」


あらゆる弱点を見抜く、第三の眼。


「……イーピンの第三の眼……」


そして。


漆黒の神性を宿す骨髄。


「……ルキフェルの暗黒の背骨……」


十二柱の女神。


十一の媒体。


朝霧と夕霧の二柱のみが、ひとつの嵐鬼の宝玉へ神力を託していた。


「……本当に……」


スクルドが、震える声で呟いた。


「……全部、ここに……」


ヴェルザンディは、言葉を失っていた。


それぞれの媒体には、確かな神力が宿っていた。


どれも、ただの遺物ではない。


十二柱が、自らの存在を贄として捧げた証だった。


「……この方々は……」


ヴェルザンディが、静かに口を開いた。


「……ご自分の命だけでなく、未来までも……」


その先の言葉を、口にすることができなかった。


ウルズも、黙っていた。


かつて、ここで交わした約束。


その重みが、ようやく現実として胸へ迫っていた。


「……でも」


スクルドが、顔を上げた。


「……どうして、今になって……?」


誰も、答えられなかった。


そのとき。


――ゴォォォォン。


神殿の奥から、低い振動が響いた。


「……っ!?」


三女神が、一斉に振り返った。


大広間の奥。


巨大な白亜の壁が、ゆっくりと左右へ開いていった。


その向こうには。


さらに広大な空間が存在していた。


「……何、あれ……」


スクルドが、呆然と呟いた。


神殿の最奥。


巨大な船渠のような空間に。


一隻の艦が静かに眠っていた。


白銀の装甲。


黄金の装飾。


天へと伸びる三本の帆柱には、純白の帆が幾重にも張られている。


その船体は、まるで大海原を渡る帆船が、そのまま大空を航行できるようになったかのようだった。


船首には、翼を広げた女神を思わせる優美な装飾。


船底には無数の神紋が刻まれ、淡い黄金の光を静かに宿している。


そして、船首、船体中央、船尾。


その三か所には、天使の羽を模した白銀の翼が左右対称に備えられていた。


一枚一枚が盾としての機能を持つ、幾重にも重なった装甲翼。


普段は船体に沿うように折り畳まれ、必要に応じて大きく展開することで、艦を包み込む防御障壁を形成する。


船体中央から後方にかけては、白銀と黄金で彩られた艦橋が構えられ、その左右には幾つもの砲塔と防御障壁の発生装置が整然と並んでいた。


船尾には、青白い光を宿した神秘的な推進装置。


優雅な帆船の姿を残しながら、その内部には神々の技術が息づいている。


それは、戦うためだけに造られた艦ではなかった。


大切な命を乗せ、世界を巡り、帰る場所となるための船。


その名は――


神聖空中戦艦《オデゥッセウス》。


「……これは……」


ウルズが、息を呑んだ。


「……空中戦艦……?」


スクルドが、艦を見上げた。


「……こんなものまで、隠してたっていうの……!?」


三女神は、ゆっくりと近づいた。


その艦首に、ひとつの名前が刻まれていた


「……オデゥッセウス……」


ヴェルザンディが、静かに読み上げた。


その名を口にした瞬間。


ウルズの胸に、説明できない懐かしさが走った。


「……私たちは……」


小さく呟く。


「……この艦を、知っている……?」


けれど。


どれほど記憶を探っても、何も思い出せなかった。


────────


三女神は、オデゥッセウスへ足を踏み入れた。


内部は、驚くほど静かだった。


巨大な通路。


白銀の壁。


黄金の神紋。


そして、女神たちの身長に合わせて造られた、広々とした居住区画。


通路には埃ひとつ落ちていない。


しかし。


誰もいなかった。


艦内を警戒しながら進むスクルドが、静かに呟く。


「……気配が、まったくないわね」


「……ええ」


ウルズが、頷いた。


「……神力の残響はありますが、生きている者の反応はありません」


ヴェルザンディは、周囲を見渡した。


「……長い年月、誰にも使われていなかったのでしょうか……」


三女神は、さらに奥へ進んだ。


やがて。


巨大な艦橋へと辿り着いた。


そこには、無数の操作盤が並んでいた。


中央には、円形の台座。


その上に、古い神紋が刻まれている。


「……これ、何かしら……」


スクルドが、台座へ手を伸ばした。


その瞬間。


――カチリ。


小さな音が響いた。


台座の神紋が、淡く輝き始める。


「……っ!?」


スクルドが、咄嗟に手を引いた。


けれど。


攻撃は、起こらなかった。


代わりに。


――ヴゥゥゥン。


艦橋の中央へ、無数の光が集まり始めた。


青。


緑。


白。


黄金。


幾重にも重なる光が、空中へと広がっていく。


そして。


巨大な立体映像が、姿を現した。


「……これは……!」


ヴェルザンディが、息を呑んだ。


そこに浮かんでいたのは。


世界だった。


幾つもの大陸。


果てしない海。


雪に覆われた山脈。


砂漠。


森林。


火山。


島々。


そして、無数の国々。


それらすべてが、立体映像となって艦橋の中央へ映し出されていた。


世界地図。


しかも。


ただの地図ではなかった。


海流が動いている。


雲が流れている。


大陸の上には、無数の光の線が走っていた。


交易路。


空路。


航行可能な海域。


そして、国境。


それぞれが、異なる神光で表示されていた。


「……信じられない……」


ウルズが、呟いた。


「……これほど精密な世界地図が……」


スクルドが、地図へ顔を近づける。


「……ねえ、見て」


その指先が、小さな島を示した。


「……こんな国、私たち知らないわよね?」


ウルズは、頷いた。


「……ええ」


さらに。


別の大陸。


そこには、いくつもの小国が並んでいた。


山岳地帯に築かれた国。


氷に閉ざされた国。


海に浮かぶ集落。


巨大な樹木の上に築かれた街。


世界は、十二柱の女神たちが守ってきた大国だけではなかった。


その周囲に。


数え切れないほどの、小さな暮らしが広がっていた。


そのとき。


立体映像の上に、古い文字が浮かび上がった。


――世界航行記録。


――地形情報、展開完了。


――国家領域情報、照合完了。


――世界地図、最新ログ読込完了。


三女神が、息を呑んだ。


「……最新ログ……?」


ヴェルザンディが、静かに尋ねた。


ウルズは、表示された記録を見つめた。


「……ええ」


そして。


「……この地図には、現在の世界が記録されています」


スクルドが、驚いたように振り返った。


「……じゃあ……!」


「……ええ」


ウルズの声が、震えた。


「……私たちが知らなかった国々も、その場所も……」


彼女は、立体映像へ手を伸ばした。


「……すべて、ここに……」


巨大な世界地図が、静かに回転した。


十二柱の女神たちが守った大国。


その周囲に広がる小国。


未踏の大地。


まだ誰も知らない海域。


それらすべてが、オデゥッセウスの航行記録に残されていた。


ヴェルザンディは、両手を胸元で重ねた。


「……世界を、見せてあげてください……」


小さく呟く。


かつて、トゥリフェーラが三女神へ託した言葉。


「……幸せの形は、ひとつではありません……」


その意味が、ようやく胸へ届こうとしていた。


スクルドは、黙って世界地図を見つめていた。


「……ねえ、ウルズ」


「……何でしょう?」


「……私たち、これからどうするの……?」


その声は、いつになく小さかった。


過去を司るウルズ。


現在を司るヴェルザンディ。


未来を司るスクルド。


三柱は、時を操る力を持っていた。


けれど。


自ら消した過去の記憶。


まだわからない神々の復活方法。


そして、三人の幼いエルフが背負うことになるかもしれない未来。


そのすべてを前にして、誰も簡単には答えられなかった。


「……私たちは」


ウルズが、静かに口を開いた。


「……この時を、待っていたのでしょう」


ヴェルザンディが、顔を上げた。


「……待っていた……?」


「……ええ」


ウルズは、世界地図を見つめた。


「……何も知らないまま、何千年も」


その声が、震えた。


「……十二柱の女神たちと交わした約束を、自ら忘れてまで……」


スクルドが、拳を握りしめた。


「……でも!」


その声が、艦橋へ響いた。


「……それじゃ、私たちの運命は最初から決まってたってこと!?」


ウルズは、すぐには答えなかった。


巨大な立体映像が、静かに回転する。


無数の国々。


無数の人々。


そして。


まだ見ぬ、数え切れない未来。


「……いいえ」


ウルズは、静かに答えた。


「……私たちは、過去に約束しました」


そして。


「……ですが、その約束をどう果たすかは、今の私たちが決めることです」


ヴェルザンディの瞳が、揺れた。


「……今を生きる、私たちが……」


「……ええ」


ウルズは、頷いた。


スクルドは、しばらく黙っていた。


そして。


小さく笑った。


「……まったく」


その目から、一筋の涙がこぼれた。


「……十二柱も、私たちも……」


彼女は、立体映像の世界を見上げた。


「……とんでもない約束をしたものね」


誰も、否定しなかった。


神殿の奥には、誰もいない。


オデゥッセウスの艦橋にも、乗組員の姿はなかった。


ただ、長い年月を越えて残された、世界の最新ログ。


十一の封印媒体。


そして、十二柱の女神たちが託した約束だけがあった。


ウルズは、時計盤の杖を握り直した。


ヴェルザンディは、静かに目を閉じた。


スクルドは、世界地図の向こうへ視線を向けた。


まだ、旅は始まっていない。


十二柱の女神たちを、どのように蘇らせるのかもわからない。


ルルエラを救う方法も、見つかっていない。


それでも。


三柱は、ひとつだけ理解し始めていた。


自分たちが、何のためにこの場所にいるのかを。


そして。


その答えの中心には。


今も時計塔の家で眠っている、三つの小さな命があった。


――カチリ。


オデゥッセウスの中央時計が、静かに時を刻んだ。


巨大な世界地図の光が、三柱の女神を照らしている。


その光の中で。


過去、現在、未来を司る三女神は。


自らが忘れた約束と、これから自ら選ぶ運命に、初めて向き合っていた。


―第一話・第四節『傷ついた女神と、三つの小さな手』終―

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


今回の第四節では、「誰かを愛すること」と「誰かを守ること」の意味を、さまざまな形で描きました。


ルルエラを愛するがゆえに、心とは正反対の言葉で別れを告げた十二柱の女神たち。


女神を愛するがゆえに、自らの命を捧げた邪馬台国の民たち。


そして、ただ目の前の人に笑ってほしいと願い、小さな手を差し伸べた三人の子どもたち。


どの想いも、誰かを大切にしたいという気持ちから生まれています。


けれど、愛しているからこそ傷つけてしまうこともある。


その悲しみを、卑弥呼の物語にも込めました。


本作で描きたいのは、単に世界を救う英雄の物語ではありません。


誰かの悲しみを知り、その心に寄り添い、共に幸せを見つけていく物語です。


そして、時の三女神が発見した空中戦艦オデゥッセウス。


ここから、三つの小さな命が出会う世界は、さらに大きく広がっていきます。


これは、愛を知り、愛を届け、愛を救う物語。


次回、第一話第五節もよろしくお願いいたします。


―餅田ベルー

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