第一話・第一節「三つの鼓動と、はじまりの朝」
森の奥で、両親の愛情に包まれながら暮らす三人の幼いエルフ。
生まれつき目の見えない三つ子にとって、世界は音と香り、そして触れ合う温もりに満ちていました。
けれど、いつもと変わらないはずの朝。
三人の小さな鼓動が重なったとき、世界を越える冒険の扉が開かれます。
遠い異世界で待ち受けるのは、虹の七色をまとう七柱の女神たち。
なぜ彼女たちは、歓喜の涙を流しながら、残酷な言葉を口にするのでしょうか。
そして、世界の奥深くから響く、もう一つの声の正体とは。
これは、三つの小さな命が、まだ知らない世界へ最初の一歩を踏み出す物語。
愛を知り、愛を届け、愛を救う冒険が、今、始まります。
朝の光が、森の木々の隙間から静かに降り注いでいた。
葉を揺らす風の音。
遠くでさえずる小鳥たち。
窓辺に咲く小さな花の香り。
森の奥に建つ一軒の家では、今日も穏やかな朝が訪れようとしていた。
けれど、この家に暮らす三人の幼いエルフたちは、まだ知らない。
今日という日が、自分たちの運命を大きく変えることを。
そして、遠い世界で待つ七柱の女神たちが、三人の到着をどのような言葉で迎えようとしているのかを。
────────
三人の小さな朝
「……ねえ、起きてる?」
小さな声が、寝室に響いた。
「んー……まだ寝てる……」
「お返事してるよ?」
「……寝ながらお返事したの」
「そんなことできるの?」
「できるもん……」
ふわふわの毛布の中から、くすくすと笑い声が漏れる。
声の主は、三つ子の長女、エルフィ。
その隣では、次男のアスルが毛布を頭までかぶり、もう一度眠ろうとしていた。
そして、二人のやり取りを聞いていた長男のエイリクが、ゆっくりと身体を起こす。
「ふたりとも、おはよう」
「エイリク、おはよう!」
「……おはよぉ」
三人は生まれたときから、同じ時間を過ごしてきた。
眠るときも、食べるときも、遊ぶときも。
もちろん、喧嘩をすることだってある。
けれど、どんなときでも、最後には三人で手をつないでいた。
三人の頭には柔らかな黒髪が生え、その間から、エルフ特有の長く尖った耳が覗いている。
そして、三人の瞳は、生まれたときから光を映すことがなかった。
その目元には、繊細な花の紋様が刻まれた金色の目隠しが巻かれている。
朝日がどれほど美しくても、夜空にどれほど多くの星が輝いていても、その姿を見ることはできなかった。
それでも、三人の世界は決して暗いものではない。
エルフィにとって、朝とは小鳥たちが歌い始める時間。
アスルにとって、朝とは台所から焼きたてのパンの香りが届く時間。
エイリクにとって、朝とは大好きな家族の声が聞こえてくる時間だった。
「ねえ、エイリク」
「なあに?」
「きょうも、おそとで遊べるかな?」
「うん。お母さんに聞いてみよう」
「ぼく、きのうの木の実、もっと拾いたい!」
いつの間にか起き上がっていたアスルが、元気よく言った。
「アスル、さっきまで寝てたのに」
「木の実はべつ!」
エルフィが笑う。
エイリクもつられて笑った。
そのときだった。
「三人とも、起きているの?」
扉の向こうから、優しい声が聞こえてきた。
「おかあさん!」
三人の声が重なる。
扉が開く音。
柔らかな足音。
そして、よく知っている温かな香り。
母親が寝台へ近づくと、エルフィが両手を伸ばした。
「おかあさん、だっこ!」
「ふふっ。おはよう、エルフィ」
母親は娘を抱き上げ、その小さな額に口づけをした。
「エイリクも、アスルも、おはよう」
「おはよう、お母さん」
「おなかすいた!」
「あらあら。アスルは今日も元気ね」
母親は微笑んだ。
けれど、その笑顔の奥には、昨夜から消えない不安があった。
――七つの声。
――遠い異世界。
――そして、三人の子どもたちを託してほしいという願い。
昨夜、夫とともに聞いた声は、夢ではなかった。
あまりにも優しく、あまりにも切実な声だった。
神々と呼ばれる存在が、自分たちに頭を下げるように願ったのだ。
三人の子どもたちの力を貸してほしい、と。
母親は腕の中のエルフィを、ほんの少し強く抱きしめた。
「おかあさん?」
「……なあに?」
「どうして、ぎゅってしたの?」
母親は一瞬、言葉に詰まった。
「……大好きだからよ」
「えへへ。エルフィも、おかあさん大好き!」
小さな腕が、母親の首に回される。
その温もりが、胸の奥に痛いほど染み込んだ。
────────
家族の食卓と、大切なお話
食卓には、焼きたてのパンと温かなスープが並んでいた。
「いただきます!」
三人の元気な声が、朝の食卓に響く。
父親は、いつものように子どもたちの隣に座っていた。
「アスル、スープが熱いから気をつけるんだぞ」
「わかってる!」
「昨日も同じことを言って、舌をやけどしただろう?」
「きょうは大丈夫!」
そう言って、アスルはスプーンを口元へ運ぶ。
「……あちっ!」
「ほら、言っただろう?」
父親が苦笑する。
「アスル、ふーふーするんだよ」
エルフィが教えると、アスルは頬を膨らませた。
「わかってるもん!」
「ふー、ふー」
「エルフィがやらなくてもいい!」
「えへへ!」
そんな二人を見て、エイリクが小さく笑った。
「アスル、ぼくのパン、半分あげようか?」
「えっ、いいの?」
「うん。まだおなかすいてるでしょ?」
「エイリク、大好き!」
「パンをくれるから?」
「うん!」
「そこは違うって言うところだよ」
父親が笑い、母親もつられて微笑んだ。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない食卓。
何気ない会話と、子どもたちの笑い声。
父親は、そんな光景を一つ残らず心に刻もうとしていた。
やがて、食事が終わる頃。
父親は静かに口を開いた。
「……エイリク、アスル、エルフィ」
「なあに、おとうさん?」
「今日は、三人に大切なお話があるんだ」
三人は不思議そうに顔を向けた。
「大切なおはなし?」
「ああ」
父親は母親と顔を見合わせた。
母親が小さく頷く。
「昨日の夜ね、とても遠いところにいる人たちから、お願いをされたの」
「お願い?」
エルフィが首を傾げた。
「うん。とても困っている人たちがいるんだって」
「だれか、泣いてるの?」
エルフィの問いに、母親は少し驚いた。
「……そうかもしれないわね」
「じゃあ、よしよししてあげなきゃ!」
エルフィは迷わず言った。
アスルも勢いよく頷く。
「ぼくも行く!」
「アスル、まだ何も聞いてないよ」
エイリクが苦笑する。
「でも、困ってるんでしょ?」
「……うん」
「だったら、助けてあげたい!」
父親は、言葉を失った。
まだ幼い子どもたち。
世界の広さも、危険も、悲しみも、何も知らない。
それなのに、誰かが困っていると聞いただけで、こんなにも真っ直ぐに手を差し伸べようとする。
父親は膝の上で拳を握った。
「……でもな、三人とも」
その声は、いつもより少し低かった。
「お願いされた場所は、とても遠いんだ」
「森のむこう?」
「もっと遠い」
「お山のむこう?」
「もっと、もっと遠い」
「じゃあ……お空のむこう?」
エルフィの言葉に、父親は静かに頷いた。
「ああ。そうだな。お空の向こうより、もっと遠い場所かもしれない」
三人は黙り込んだ。
やがて、アスルが小さな声で尋ねる。
「……おとうさんと、おかあさんも、一緒?」
その瞬間、母親の胸が締めつけられた。
父親も、すぐには答えられなかった。
沈黙の中、エイリクがゆっくりと口を開く。
「……ぼくたちだけなの?」
父親は息を吸った。
そして、子どもたちに嘘をつかないと決めた。
「……そうなんだ」
アスルの手が止まる。
エルフィも、母親の服の裾を握った。
「……おかあさん、いないの?」
母親は娘の小さな手を包み込んだ。
「ずっと会えなくなるわけじゃないわ」
「ほんとう?」
「ええ。必ず、また会えるようにする」
その言葉に、エルフィは少し安心したようだった。
けれど、アスルは俯いたままだった。
「……ぼく、おとうさんと、おかあさんも一緒がいい」
父親は息子の頭を撫でた。
「ああ。お父さんも同じだよ」
「じゃあ、行かない?」
その問いに、父親は答えられなかった。
すると、エイリクが静かに手を伸ばした。
まず、アスルの手を握る。
次に、エルフィの手を握る。
「……ぼく、ふたりと一緒なら、大丈夫だと思う」
「エイリク?」
「怖いことがあっても、ぼくたち三人でいれば、きっと大丈夫」
エルフィが、その手を握り返した。
「うん! エルフィも一緒!」
アスルは少し考えてから、二人の手をぎゅっと握った。
「……じゃあ、ぼくも」
「ほんとう?」
「だって、エイリクとエルフィだけ行っちゃったら、ぼく、さみしいもん」
三人は顔を寄せ合って笑った。
その光景を見て、母親の頬を一筋の涙が伝った。
「……おかあさん?」
エルフィが、その小さな音に気づく。
「泣いてるの?」
母親は慌てて涙を拭った。
「……ううん。嬉しいのよ」
「うれしいのに、泣くの?」
「ええ。大好きな人たちが、とても優しい子に育ってくれたから」
エルフィは少し考えたあと、母親の頬に手を伸ばした。
「じゃあ、エルフィがよしよししてあげる」
小さな手が、母親の頬を優しく撫でる。
「だいじょうぶ。エルフィ、ちゃんと帰ってくるよ」
母親は、その手を両手で包み込んだ。
「……ええ」
声が震えた。
「……待っているわ」
────────
草原に重なる、三つの鼓動
その日の昼下がり。
三人は家の前の草原で、いつものように遊んでいた。
柔らかな生成り色の衣服には、小さな花々と葉の刺繍が施されている。
腰には木の実や花を模した飾りが揺れ、足元には柔らかな革靴。
金色の目隠しから伸びる長いリボンが、風に合わせてひらひらと舞っていた。
三人はそれぞれ、花と枝、透き通る宝玉で飾られた小さな杖を持っていた。
エイリクの杖には、月を思わせる青白い輝き。
アスルの杖には、太陽を思わせる黄金の輝き。
エルフィの杖には、桜の花びらのような淡い桃色の輝き。
それは三人にとって、いつも傍らにある大切な道具だった。
風に揺れる草の音。
足元に触れる柔らかな土。
遠くから聞こえる小川のせせらぎ。
三人は杖で足元を確かめながら、ゆっくりと歩いていた。
「ねえ、エイリク」
「なあに?」
「お空のむこうって、どんなところかな?」
「うーん……」
エイリクは少し考えた。
「きっと、知らない音がいっぱいするところだよ」
「知らない音?」
「うん。聞いたことのない鳥の声とか、知らない人の声とか」
「おいしいものもあるかな?」
アスルが尋ねる。
「アスルは食べることばっかり!」
エルフィが笑った。
「だって、遠いところなんでしょ? だったら、知らないパンもあるかもしれない!」
「ふふっ。そうだね」
エイリクが頷く。
「……でもね」
エルフィが、ぽつりと言った。
「エルフィ、ちょっとだけ怖い」
二人の足が止まった。
「おとうさんと、おかあさんがいないの、やっぱりさみしい」
アスルも黙って頷いた。
エイリクは、二人の手を握り直した。
「……ぼくも、怖いよ」
「エイリクも?」
「うん」
少しだけ沈黙が流れた。
けれど、エイリクは続けた。
「でも、おとうさんと、おかあさんが、ぼくたちを信じてくれたんだ」
「……うん」
「だから、ぼくたちも、信じてみよう?」
「なにを?」
「……三人なら、大丈夫だってこと」
その言葉に、アスルが大きく頷いた。
「うん!」
エルフィも微笑んだ。
「三人なら、大丈夫!」
三人の小さな手が、強く結ばれる。
その瞬間だった。
――とくん。
エイリクの胸が、小さく鳴った。
――とくん。
アスルの胸が、同じ速さで鳴った。
――とくん。
エルフィの胸も、まったく同じ瞬間に鼓動を刻んだ。
三つの鼓動が、ひとつの音のように重なる。
すると、三人の足元に、淡い光が生まれた。
最初は、ほんの小さな光だった。
やがて、それは草原を優しく照らし、七色の輝きとなって広がっていく。
けれど、三人にはその光が見えない。
「……あれ?」
エルフィが首を傾げた。
「どうしたの?」
「なんだか……あったかい」
アスルも頷く。
「ぼくも!」
エイリクは、そっと胸に手を当てた。
「……誰かが、呼んでる?」
その言葉と同時に。
七色の光が、天へと伸びた。
────────
七柱の女神たち――七つの涙と、七つの拒絶
遥か遠く。
空も、大地も、星々の輝きさえ異なる世界。
白亜の神殿に、七つの神光が満ちていた。
赤。
橙。
黄。
緑。
青。
藍。
紫。
そこには、世界の秩序と慈愛を司る七柱の女神がいた。
プレアデス・ゴッデス。
人の背丈を遥かに超える七柱は、純白のフリルドレスに身を包み、それぞれの神光をまとっていた。
七柱は、三つの幼い命が世界を越える瞬間を待っていた。
そして今。
その時が訪れようとしていた。
――とくん。
――とくん。
――とくん。
三つの鼓動が、遠い世界から響いてくる。
その瞬間。
七柱の顔が、一斉にほころんだ。
ある者は口元を押さえ、ある者は両腕を広げ、ある者はその場に膝をついた。
涙が溢れた。
笑みが浮かんだ。
長い時間、胸に抱き続けてきたものが、ようやく手の届くところまで近づいている。
けれど、神殿に響いたのは、祝福の言葉ではなかった。
第一柱――マイア
赤の神光・慈愛を紡ぐ女神
赤い神光が、静かに揺らめいた。
長い深紅の髪を揺らし、純白のフリルドレスに身を包んだマイアが、胸元に両手を重ねる。
「ああ……ようやく、来るのですね……」
その頬を、大粒の涙が伝った。
マイアは柔らかく微笑んだ。
そして、静かに告げた。
「……本当に、忌々しい子たち」
その声は、母親が幼子を寝かしつけるときのように穏やかだった。
「あなたたちがどれほど泣こうと、私は抱きしめません。お腹が空いても食べ物は与えませんし、寒さに震えても毛布一枚かけるつもりはありません」
両腕が、無意識に前へ伸びる。
マイアは、その手を胸元に引き戻した。
「母親に甘えるような真似は、私の前では慎みなさい」
涙が止まらない。
「あなたたちの寂しさなど、私には何の価値もありません。泣き疲れて眠ろうと、誰にも気づかれずに苦しもうと……どうでもよいことです」
言葉とは裏腹に、その顔は幸福に満ちていた。
「……いい子になど、ならなくて結構。私の愛情を期待する資格など、あなたたちにはありません」
そう言い終えると、マイアは胸元を押さえ、幸せそうに泣き続けた。
第二柱――エレクトラ
橙の神光・秩序を導く女神
「生命反応、三件を確認」
橙色の神光の中、エレクトラが淡々と告げた。
「個体識別。エイリク、アスル、エルフィ。鼓動の同期率、百パーセント」
彼女の指先には、三つの生命反応を示す光の記録が浮かんでいた。
「評価を開始します」
一筋の涙が頬を伝う。
「対象三名は、保護対象として不適格。知識、経験、身体能力、いずれも基準値を大幅に下回っています」
もう一筋。
「自立能力は皆無。判断力は未熟。生存可能性は、外部支援への依存度が極めて高い状態です」
エレクトラは口元を緩ませた。
「結論。あなたたちは、この世界にとって不要な負担です」
記録を操作する指先が震える。
「特別待遇は認めません。失敗による損失も、あなたたち自身の責任です。救済を要求する権利はありません」
涙が、光の記録を通り抜けて落ちた。
「仮にあなたたちが泣き叫ぼうとも、私の判断が変わることはありません」
彼女は涙を拭った。
それでも、笑みは消えなかった。
「……評価、完了。存在価値……最低」
声がかすれた。
「……以上です」
第三柱――タイゲテ
黄の神光・高潔を司る女神
黄金色の髪をなびかせ、タイゲテは腕を組んでいた。
背筋は真っ直ぐ。
顎を上げ、誰よりも気高く立っている。
「……まあ。随分と厚かましい子どもたちですこと」
彼女は、嘲るように笑った。
その瞳から、涙がこぼれた。
「世界を救いたい? 困っている者を助けたい? 身の程を知らぬにも限度がありますわ」
一歩、前へ出る。
「何の力も持たぬ幼子が、英雄にでもなったおつもり?」
声が鋭く響く。
「その無知を勇気と呼び、その無謀を優しさと呼ぶなど、笑止千万ですわ!」
涙が、白いドレスを濡らす。
「誰かを救う資格も、世界に何かを望む資格も、あなたたちにはありません」
タイゲテは、胸を張った。
「せいぜい己の無力さを思い知ることですわ。あなたたちの善意など、何一つ誇るに値しません」
最後の言葉を吐き捨てた瞬間、彼女の唇が大きく震えた。
「……恥を知りなさい。この、愚かで……救いようのない子どもたち……!」
それでも、彼女は顔を上げ続けた。
その涙に濡れた表情は、誰よりも誇らしげだった。
第四柱――アルキュオネ
緑の神光・癒やしと包容の女神
柔らかな緑色の神光が、神殿を包み込んだ。
アルキュオネは穏やかに微笑んでいた。
「あらあら……本当に、面倒な子たちですねぇ」
その声は、どこまでも優しかった。
「困っている人を助けたいだなんて、余計なお世話ですよ。悲しんでいる人は、悲しませておけばよいのです」
大粒の涙が、頬を伝う。
「苦しんでいる人に手を差し伸べる必要もありません。誰かが泣いていても、見て見ぬふりをするのが一番です」
彼女は、にっこりと微笑んだ。
「あなたたちも同じですよ?」
両手を、そっと広げる。
「転んで怪我をしても、治してあげません。痛くて泣いても、慰めてあげません。助けを求められても、私は知らないふりをします」
涙が止まらない。
「だって、あなたたちが苦しんだところで、私には何の関係もありませんもの」
まるで子守歌のような声で、彼女は続けた。
「……ですから、どんなに辛くても、誰にも頼らずに耐えてくださいね」
微笑みは崩れなかった。
ただ、涙だけが、いつまでも流れ続けていた。
第五柱――ケライノ
青の神光・静寂を統べる女神
青い神光の中。
ケライノは、神殿の柱に背を預けていた。
長い青髪が、肩から静かに流れ落ちる。
彼女は何も言わず、三つの鼓動を聞いていた。
――とくん。
――とくん。
――とくん。
一粒の涙が落ちる。
「……うるさい」
もう一粒。
「……目障り」
彼女は顔を伏せた。
「……邪魔」
三つの鼓動が、再び重なる。
ケライノの口元が、わずかに持ち上がった。
「……嫌い」
涙が止まらなくなる。
「……足音も。笑い声も。寝息も」
短い沈黙。
「……全部、嫌い」
彼女は片手で口元を覆った。
「……消えて」
肩が震える。
「……私の前で、笑わないで」
その場にしゃがみ込み、膝を抱える。
「……泣いても、無駄」
一度だけ、顔を上げた。
「……あなたたちなんて、いらない」
そして再び目を閉じた。
それでも彼女は、耳を塞がなかった。
第六柱――ステロペ
藍の神光・叡智を導く女神
藍色の神光が、星々のように瞬いていた。
ステロペは、三つの鼓動が描く未来の軌跡を見つめていた。
「……実に愚かな選択ですね」
その声は、静かだった。
「未来を知らぬ者ほど、希望という言葉に縋るものです」
彼女は、光の軌跡へ指を伸ばした。
「あなたたちが信じる絆も、勇気も、善意も、何の保証にもなりません」
涙が頬を伝う。
「むしろ、それらは判断を曇らせ、破滅を招く原因となるでしょう」
ステロペは、微笑んだ。
「知識なき勇気は蛮勇。理解なき善意は傲慢。そして、無知な者が抱く希望ほど、滑稽なものはありません」
涙が次々と溢れた。
「あなたたちは、何度も間違えるでしょう。何度も傷つき、何度も後悔するでしょう」
彼女は未来の軌跡を見つめ続けた。
「ですが、私は答えを与えません。たとえ助けを求められても、手を差し伸べるつもりはありません」
その声は、最後まで冷静だった。
「……あなたたちの未来に、期待する価値などありません」
言い終えたあと、ステロペは涙に濡れたまま、静かに微笑んだ。
第七柱――メロペ
紫の神光・柔愛を紡ぐ女神
淡い紫色の神光の中。
メロペは、すでに泣いていた。
柔らかな紫色の髪。
七柱の中で最も小柄な身体。
純白のドレスの胸元を、両手で強く握りしめている。
「……やだ……」
その声は、小さかった。
「……来ないで……」
三つの鼓動が、再び重なる。
――とくん。
――とくん。
――とくん。
「……っ、やだぁ……!」
涙が、次から次へと溢れた。
「……大嫌い……!」
彼女は叫んだ。
「エイリクも……アスルも……エルフィも……!」
名前を呼ぶたびに、声が震える。
「……みんな、大っ嫌い!」
その顔には、眩しいほどの歓喜が浮かんでいた。
「……そんな声で笑わないでよ! 気持ち悪い!」
両手を前へ伸ばしかける。
「……こっちに来ないで! 近づかないで!」
とうとう、メロペは膝をついた。
「……もう知らない!」
涙で濡れた頬を両手で覆う。
「寂しくなったって知らない! 怖くなったって知らない! 泣きながら助けてって言われたって、絶対に助けない!」
嗚咽が漏れた。
「……わたし、あなたたちなんか……いなくなっちゃえばいいって……!」
そこで声が途切れた。
メロペは、何度も首を振った。
それでも、笑顔は消えなかった。
涙に濡れた顔をくしゃくしゃにしながら、彼女は小さく呟いた。
「……大っ嫌い……」
────────
七つの涙、ひとつの約束
七色の神光が、白亜の神殿を照らしていた。
七柱は、それぞれ異なる姿勢で涙を流していた。
マイアは、胸元に手を重ねていた。
エレクトラは、光の記録を見つめていた。
タイゲテは、背筋を伸ばして立っていた。
アルキュオネは、柔らかく微笑んでいた。
ケライノは、柱の傍らにしゃがみ込んでいた。
ステロペは、未来の軌跡から目を離さなかった。
メロペは、膝をついて泣きじゃくっていた。
やがて、マイアが口を開いた。
「……皆さん。あの方々との約束を、忘れてはいけません」
エレクトラが頷いた。
「誓約内容に変更はありません。三名の帰還を最終条件とします」
タイゲテは顎を上げた。
「当然ですわ。神の名において交わした約束を、違えるわけにはまいりませんもの」
アルキュオネは微笑んだ。
「ええ。お父様とお母様には、安心していただかなくてはなりませんね」
ケライノは短く答えた。
「……帰す。それだけ」
ステロペは、静かに告げた。
「約束は、果たされなければなりません。どのような未来が待っていようとも」
メロペは涙を拭った。
「……わ、わかってる……! ちゃんと……帰すもん……!」
マイアは、遠い世界から届く三つの鼓動に耳を澄ませた。
「……ええ。必ず……」
それ以上は、何も言わなかった。
七色の神光が重なり、世界と世界の狭間に、一筋の道を描き始める。
その先にいるのは、三人の幼いエルフ。
世界の命運など知らず、ただ誰かを助けたいと願う、小さな子どもたちだった。
────────
旅立ちの約束
草原では、エイリクたちが不思議そうに空気の変化を感じていた。
「……ねえ」
エルフィが、そっと尋ねる。
「誰か、そこにいるの?」
返事はなかった。
けれど。
ふわり、と。
まるで誰かが頭を撫でてくれたような、優しい温もりが三人を包んだ。
「……あったかいね」
「うん」
「なんだか、おかあさんみたい」
三人は笑った。
その足元で、七色の光がゆっくりと輪を描く。
遠くから、父親と母親が駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「エイリク! アスル! エルフィ!」
「おとうさん!」
「おかあさん!」
三人が振り返る。
母親は子どもたちを抱きしめた。
父親も、その小さな身体を包み込むように腕を回す。
「……大丈夫だ」
父親が、震える声で言った。
「お父さんたちは、ずっとお前たちを愛している」
「うん!」
「どれだけ遠くに行っても、それだけは忘れないでくれ」
エイリクが頷く。
アスルも、父親の服をぎゅっと握った。
エルフィは母親の頬に触れ、にっこりと笑った。
「……いってきます!」
その声に、母親の涙がこぼれた。
父親は、三人の頭を順番に撫でた。
「……ああ」
そして、精いっぱいの笑顔で答えた。
「いってらっしゃい」
七色の光が、静かに三人を包み込んだ。
三つの鼓動が、もう一度重なる。
――とくん。
――とくん。
――とくん。
やがて、その姿は光の中へ溶けるように消えていった。
残された草原には、風の音だけが響いていた。
母親は、子どもたちのいた場所に膝をついた。
父親は、その肩をそっと抱き寄せる。
「……必ず、帰ってくる」
それは、子どもたちへの約束であり、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
二人は、いつまでも空を見上げていた。
────────
世界の狭間で聞こえた声
そして、世界の狭間。
七色の光の中で、三人は互いの手を握っていた。
「エイリク!」
「ここにいるよ!」
「エルフィ!」
「いるよ!」
「アスル!」
「ぼくもいる!」
三人の声が重なる。
誰も、手を離さなかった。
そのとき。
遠くから、かすかな声が聞こえた。
それは、七柱の女神たちの声ではなかった。
もっと遠く。
もっと深い場所から響く、ひどく冷たい声。
『……来るな』
三人は足を止めた。
『……近づくな』
アスルが、エイリクの手を強く握る。
「……ねえ、いまの声、聞こえた?」
「うん……」
エルフィは、しばらく黙っていた。
そして、不思議そうに首を傾げた。
「……あの人、さみしいのかな?」
その瞬間。
遥か彼方の世界で、長い眠りについていた一人の戦女神の指先が、ほんのわずかに動いた。
彼女の名は、ルルエラ。
世界から恐れられ、愛を知らぬまま封じられた存在。
そして、三人の幼いエルフが、いつかその心に触れることになる女神だった。
三つの小さな鼓動が、今、世界を越える。
第一話・第一節「三つの鼓動と、はじまりの朝」終
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第一話・第一節「三つの鼓動と、はじまりの朝」は、三人の幼いエルフたちが、初めて家族のもとを離れ、未知の世界へ旅立つ物語でした。
エイリク、アスル、エルフィ。
生まれつき目の見えない三人ですが、その小さな心には、誰かを思いやる優しさと、互いを信じる強い絆が宿っています。
大好きな両親と離れる寂しさ。
それでも、困っている誰かを助けたいという純粋な願い。
そんな三人を待ち受けるのは、歓喜の涙を流しながら、冷酷な言葉を口にする七柱の女神たちです。
彼女たちは、なぜ三人の到着を待ち望んでいたのでしょうか。
そして、世界の狭間で聞こえた「来るな」という声。
その声の主との出会いは、三人の運命をどのように変えていくのでしょうか。
まだ幼い三つの鼓動が、これから出会う人々の心に、どんな変化をもたらすのか。
どうか、その旅路を温かく見守っていただければ幸いです。
**これは、愛を知り、愛を届け、愛を救う物語。**
次節から、いよいよ三人の異世界での冒険が始まります。
引き続き『ハートビート・オデッセイ』をよろしくお願いいたします。
――作者・餅田ベル




