第6話 差出人のないお手紙
朝になっても、その一通は卓の隅にございました。
王都、アーレンス公爵家気付。宛名だけが書いてございます。差出人の欄は空白で、封蝋も落ちておりません。糊で留めてあるだけでございます。
便の刻限まで、あと二時間ほど。
わたくしは湯を沸かし、茶を淹れ、飲まずに冷ましました。それから紙の前に座り、また立ち上がりました。
規定では、差出人のない書状は受け付けません。宛先だけの封は、途中で失われたときに戻す先がございませんので、局が引き受けないことになっております。
ですから、これは送れません。
送れないものが、なぜ灰の駅の卓の上にあるのでございましょう。
「駅長」
ギュンターが土間の入口に立っておりました。
「積むか」
「……積めません。差出人がございませんので」
「なら置いとけ」
「置いておいて、よろしいのでしょうか」
「駅は置く場所だ」
わたくしは棚の、お祖母様の木箱の隣にその一通を置きました。置いてから、宛名の字をもう一度見ました。
太い横棒の、最後のところが跳ねております。三年のあいだ、その跳ねを毎日見ておりました。家政の許可を頂く書類に、いつも同じ署名が入っておりましたので。わたくしはそれを、上から下へなぞるように読む癖がついておりました。読み終えたら、その日の分を帳面に写して、灯りを消すのでございます。
わたくしは棚から一歩下がりました。
この方は、いつこれをお書きになったのでしょうか。昨日、待合の長椅子に座っておられました。あのとき卓の上には帳面と秤しかございませんでしたから、書かれたのはそのあとでございます。わたくしが宿場へ行っているあいだ、この駅には、あの方おひとりがおられました。
差出人を書かなかったのではございません。
書けなかったのでございます。差出人を書けば、それは公爵家から公爵家への文になってしまいますから。
便は午に着きました。
ラウルが降りてまいります。今日は御者だけでございました。
「監督官殿は、王都で会議だそうです。来週は乗るって言ってました」
「……さようでございますか」
「なんか、すみません。俺が謝ることでもないんですけど」
「いえ」
「あの人、志願なんですよ。公爵様が駅逓の監督官なんて、俺は聞いたことがない」
志願。
週に一度この街道を見て回る役を、あの方は自分からお受けになったのでございます。
郵袋を三つ、受け取りました。札は二十二斤、十七斤、十五斤。秤に載せますと、二十二斤、十七斤、十五斤。合っております。
ギュンターに教わったとおり、下ろす前に口の内側を返して、焼き印を控えました。二十二斤の袋が二十四番。十七斤が九番。十五斤が十七番。
控えようとして、控える場所がないことに気づきました。継立の帳面には、郵袋の欄が「数」と「重さ」の二つしかございません。番を書く欄がないのでございます。
わたくしは新しい紙を一枚出し、定規で線を引きました。日付、便、袋の番、札の重さ、秤の重さ。五つの欄でございます。
欄を作りますと、書くことが決まります。書くことが決まりますと、書き忘れが分かります。三年のあいだ、わたくしが屋敷でしていたのはそれだけでございました。誰も読まないと分かっていても、欄だけは自分で引いておりました。引いておかないと、次の月に自分が何を見ていたか分からなくなりますので。
三つの番を書き入れて、紙を帳面に挟みました。
十七番。
昨日ギュンターが見せてくれた袋と同じ番でございます。わたくしは十七番の袋を卓に置き、口の内側をもう一度見ました。焼き印の下の布が、ほんの少しだけ厚うございます。指で挟みますと、布が二枚。
当て布でございます。
当て布のことを、わたくしは知りませんでした。
郵袋は麻の厚地でございます。底が擦れますので、局は年に一度、痛んだ袋を集めて繕うのだそうでございます。繕うのは王都の作業場で、繕った袋には番の下に小さな印が入ります。
十七番の袋には、その印がございませんでした。
王都で繕われていない袋に、当て布が当たっております。ということは、王都以外のどこかで当てられたのでございます。
わたくしは袋を裏返し、縫い目を灯りに近づけました。糸の色が違います。局の糸は生成りでございますが、この当て布の糸は少し茶がかっております。染めていないのではなく、古い糸でございましょう。
目の数を数えました。一寸に六目。局の繕いは一寸に八目だと、袋の別のところの繕い跡から分かります。
六目のほうが早く縫えます。早く縫った者は、急いでいたか、あるいは、丁寧に縫う必要を感じていなかったかでございます。
ラウルを見送ったあと、わたくしは厩の隅へ参りました。
破れて使えなくなった郵袋が、丸めて置いてあった場所でございます。数えますと、六つございました。
六つのうち、底が二重になっているものが、四つ。
わたくしはそれを一つずつ秤に載せました。三斤、三斤、三斤、三斤。
同じでございます。
当て布というのは、破れたところに布を当てるものでございますから、大きさは破れ方によって変わるはずでございます。それが四つとも、きっちり三斤。
揃えてあるのでございます。
わたくしは四つ目の袋を膝に載せ、縫い目に指を入れました。糸は太く、目が粗うございます。修繕にしては雑で、けれど解けにくいように二重に返してございました。急いで、それでいてほどけないように縫った手でございます。
解こうかと思いまして、鋏を取りに立ちました。立って、戻って、袋を膝に載せたまま、しばらく座っておりました。
もし何も入っていなければ、わたくしは駅の備品を一つ壊しただけでございます。もし何かが入っていれば、それはわたくしが開けてよいものではございません。
鋏を膝の横に置いて、わたくしは糸の目を数えました。六目、六目、六目。ときどき五目でございます。返し縫いが二重に入っておりますのは、口から三寸のところと、底の角のところ。角は力のかかるところでございますから、そこを二重にするのは理に適っております。
急いで縫った者が、力のかかるところだけは二重にしております。急いでいたけれども、ほどけては困ると思っていた者でございます。
「駅長」
ギュンターが厩の戸口から見ておりました。
「開けるのか」
「……開けてよいものでしょうか」
「駅の物だ」
「駅の物でございます」
「なら駅長が決める」
わたくしは鋏を入れました。
糸が三目ほど切れたところで、内側から白いものが指に触れました。
紙でございます。
畳んだ紙が、袋の底に何枚も差し込んでございました。一枚を引き出しますと、その下からまた一枚出てまいります。三枚、五枚、七枚。
どれにも宛名がございました。
どれも、同じ宛名でございました。
――灰の駅 アニエス様
次話「三年ぶんの、出されなかったもの」では、四つの袋の底から出たものを、アニエスが数えます。
数え終えないうちに、次の便が七日を待たずに街道を上がってまいります。




