第5話 わたくしの駅から、便を出します
便は午に着きました。
ラウルが御者台から降り、帽子を取ります。
「二分早着でーす。褒めてください」
「二分。ようございました」
馬車の扉が開き、監督官殿が降りてこられました。板が六枚、荷台に積んでございます。払い下げの札がついておりました。
「駅長。板だ。代金は預かり賃から」
「……その預かり賃が、差し止めになりました」
監督官殿の足が止まりました。
「誰が」
「王都駅逓局監査の、ダルク様でございます。昨日いらっしゃいました」
「理由は」
「重さの三斤の差でございます。規定第五条、原因が判明するまで差し止める、と」
監督官殿は待合へ入り、長椅子には座らず、卓の前に立たれました。
「原因は、当て布だ」
「まだ判明しておりません。判明していないから差し止める、というのが第五条でございます」
「異議を出すか」
「異議は出しません」
「なぜだ」
わたくしは帳面の下から、条文の写しを取り出しました。
「異議は、規定が間違っていると申し立てるものでございます。ダルク様は間違っておられません。第五条のとおりでございます」
「では、どうする」
「第七条を出します」
条文の写しは、帳面の後ろに綴じてございました。
駅逓の規定は全部で五十二条。お祖母様の代のもので、紙が茶色くなっております。前の晩に第一条から読みまして、第七条で止まったのは、そこに探していたものがあったからでございます。
けれど、そこで読むのをやめたわけではございません。やめずに、五十二条まで読みました。読み終えましたのは、明け方でございます。
三年のあいだ、屋敷でも同じことをしておりました。必要な条だけを読むと、次に別のことが起きたときに、また一から探すことになります。全部読んでおきますと、どこに何があったかだけは頭に残ります。中身は忘れますが、在り処は忘れません。
第十四条に、冬季の三頭立ての項がございました。第二十二条に、村の馬の項がございました。第三十一条に、宛先不備の書状の項がございました。
どれも、その晩には使い道がございません。ございませんが、読んだという事実だけは残ります。
その日の午後、わたくしは村の荷馬を借りて、東へ四里の宿場まで参りました。
ダルク様は宿場の帳場で、書き物をしておられました。手袋はしたままでございます。
「駅長。二日で参りましたか」
「第七条でございます」
わたくしは写しを卓に置きました。
「街道の掟に定める必ず立ち寄るべき継立所については、前条の差し止めを適用しない。灰の駅は峠の手前で唯一の継立所でございます。必ず立ち寄るべき駅でございますので、第五条の差し止めは適用されません」
ダルク様は条文を読まれました。二度、読まれました。
「……第七条は、冬季の特例でございます」
「条文には、冬季とは書いてございません」
「慣例でございます」
「慣例と条文が食い違いますときは、どちらが優先いたしますか」
沈黙がございました。帳場の火が一度、爆ぜました。
「条文でございます」
ダルク様は羽根を取り、差し止めの通達に線を引かれました。線は定規で引かれたように真っ直ぐでございました。
「解除いたします。ただし、三斤の原因の究明は続けて頂きます」
「続けます」
「三か月」
「三か月でございます」
わたくしは頭を下げ、帳場を出ようといたしました。
「駅長」
「はい」
「わたくしが第七条を見落としたのではございません。存じておりました。存じたうえで、冬季の特例だと解しておりました」
「存じております」
「そう仰る方は、たいてい——」
「存じておられません。昨日、伺いました」
ダルク様は羽根を置かれました。手袋の指が、ほんの少しだけ動きました。
「……お気をつけて」
灰の駅へ戻りましたのは、日が落ちてからでございます。
待合に灯りがついておりました。監督官殿が、長椅子の端に座っておられます。荷馬車はとうに出たはずでございました。
「便は」
「先へ行かせた。私は次の宿場で拾う」
「……規定に、ございますか」
「監督官は路線のどこで降りてもいい。規定にある」
わたくしは卓に帳面を広げ、今日の刻限を書きつけました。
「解除されました」
「そうか」
「第七条でございました」
「読んだのか」
「第一条から読みました。二時間かかりました」
監督官殿は、少し目を伏せられました。
「屋敷の家政帳を、三年つけていたな」
わたくしは羽根を止めました。
「……ご存じでしたか」
「毎晩、遅くまで灯りがついていた」
「あれは、誰も読まないものでございました」
「読んでいた」
風の音が、しばらく待合を通りました。
「……どちらを」
「全部だ」
わたくしは帳面を閉じました。閉じて、開いて、また閉じました。することがございません。
「なぜ、仰らなかったのでございますか」
監督官殿は答えられませんでした。答えの代わりに、こう仰いました。
「板を六枚置いた。代金は、預かり賃が入ってからでいい」
「……頂きます」
「七日後に、また」
馬の鈴が遠ざかりました。
戸口に立ったまま、わたくしはしばらく街道を見ておりました。峠の上に月が出ております。ひと月ほど前、あの屋敷で同じ月を見ていたときには、この先の七日という単位を知りませんでした。
厩からギュンターが出てまいりました。
「駅長。番を控えるんだろう」
「はい」
「今日の袋は、もう積んだ」
「……積んでしまわれましたか」
「積んだ」
わたくしが厩へ走りますと、ギュンターが荷の上から袋を一つ下ろして、口の内側を返して見せました。焼き印がございます。数字が二つ。
「十七」
「十七でございますね」
「明日から、おれが下ろす前に控えろ」
「ありがとう存じます」
ギュンターは袋を積み直し、それだけで戻っていきました。長い言葉は、やはり馬にしか使われません。
その晩、明日の便へ載せる郵袋を作りました。
村から預かった手紙が十一通。ジャンの婆さまの分もございます。それに、駅から出す駅逓局宛の報告が一通。袋の口を縛り、封蝋を落とします。
灰の駅の蝋は灰色でございます。王都局のものは青。街道の駅では、蝋の色で袋の出どころがわかるようになっているのだそうです。
十二通目がございました。
村の誰からも預かっていない手紙が、一通だけ卓の隅にございます。宛先は書いてございました。王都、アーレンス公爵家気付。差出人の欄は空でございます。
字を見ました。太い横棒の、最後のところが少しだけ跳ねております。三年のあいだ、書類でこの跳ねを見なかった日はございません。
わたくしはその一通を、袋には入れませんでした。卓の上に置いたまま、燭を消しました。
消してから、暗いなかでもう一度、頂いた言葉を数えようといたしました。
数えられませんでした。
次話「差出人のないお手紙」では、アニエスがその一通をどうするか決めかねております。
決めかねているあいだに、厩の郵袋がもう一つ、底の二重になっているのが見つかります。




