第30話 七日後に、またお会いいたします
辺境局に着きましたのは、日の暮れる前でございました。
郵袋を九つ渡しまして、受取に判を頂きます。局の方が、判を押しながら仰いました。
「峠の便は、二か月ぶりだ」
「お待たせいたしました」
「三つの村へは、うちから明日出す。薬は先に出す」
わたくしは頭を下げました。
受取には、袋の番も書いて頂きました。
九袋のうち、十七番と三十一番がございます。この二つは、辺境局で当て布を外して返すよう、書き添えてまいりました。外せば、番ごとの重さが元に戻ります。戻れば、次に増えたときにすぐ分かります。
局の方が、書き添えを読んで仰いました。
「灰の駅は、袋の番を控えてるのかい」
「控えております」
「珍しいね。どこの駅もやらんよ」
「欄がございませんので」
「欄がないから、やらんのだ」
「欄は、作れます」
その方はしばらくわたくしを見て、それから受取に一行書き足されました。
――辺境局にても、本日より袋の番を控える。
帰りは、峠の手前の村で一泊いたしました。
宿の窓から、峠が見えます。明日、あれを越えて灰の駅へ戻ります。
監督官殿は、宿の土間で馬の脚を見ておられました。三日の道中で、この方が馬に触れるところをはじめて見ました。両手を擦り合わせておられます。
「……その仕草は」
「ギュンターに教わった。五つのときだ」
「五十年前でございますか」
「私は三十だ。二十五年前になる」
「では、ギュンターの言うとおりでございますね。教わったところが同じでございますと、順序が同じになります」
翌朝、峠を越えました。
下りで一度、輪が滑りました。手綱を握りすぎたのでございます。
「握るな」
「握っております」
「握ると、馬が硬くなる」
わたくしは指を一本ずつ開きました。ギュンターが冬の朝にしてくださったのと、同じようにいたしました。
馬車は、そのまま下りていきました。
峠を下りきったところに、平らな道がございます。両側に若い草が出ておりました。四月でございます。
わたくしは馬を止めました。
「アニエス」
「はい」
「止めたな」
「止めました。下りきりましたので」
風がございません。鈴も鳴っておりません。
わたくしは手綱を膝に置きました。
「呼び名でございます」
「聞く」
「レオンハルト様、と申し上げます」
その方は、しばらく前を向いておられました。
「……様は」
「様は付けます」
「なぜだ」
「三年、旦那様とお呼びしておりました。旦那様は、名ではございません。役でございます。役で呼んでおりますと、その方が何という名の方だったかを、だんだん忘れます」
「忘れたか」
「忘れませんでした。毎日、書類で見ておりましたので」
「では、なぜ様を付ける」
「いきなり呼び捨てにいたしますと、三年がなかったことになりますので」
「アニエス」
「はい」
「一つ言っていいか」
「規定にございますか」
「ない」
「では、伺うだけ伺います」
レオンハルト様は、御者台の上で少しだけこちらを向かれました。
「もう一度、貴女と婚姻を結びたい」
わたくしは草の生えた道を見ておりました。
「お断りいたします」
「……そうか」
「今、お受けいたしますと、あなた様がお申し出になったことになります」
「そうだ」
「三年前も、あなた様がお申し出になりました。正しくは、式部がお決めになって、あなた様がお受けになりました。わたくしは、決めておりません」
「そうだ」
「ですから、今度はわたくしが申し上げます」
わたくしは手綱を置き、御者台の上で向き直りました。
「レオンハルト様。わたくしと、もう一度婚姻を結んで頂けませんでしょうか」
沈黙がございました。
三年と、この六か月のあいだで、いちばん長い沈黙でございました。
「……条件がある」
「伺います」
「私は公爵だ。王都に屋敷がある。貴女は灰の駅の権利者だ。駅は移せない」
「移せません」
「週に一度しか会えない」
「週に一度でございます」
「それでいいのか」
わたくしは、はじめて笑いました。今度は口を押さえませんでした。
「レオンハルト様。わたくしは、三年のあいだ、同じ屋敷におりました。毎日お会いしておりました」
「そうだな」
「四つでございました」
「……四つだ」
「週に一度で、充分でございます」
灰の駅に戻りましたのは、その日の午でございます。
ギュンターが厩から出てまいりました。ティナが待合の戸を開けて待っておりました。
「駅長さん、おかえり」
「ただいま戻りました」
「ラウルさんから手紙が来てたよ。東の宿場は退屈だって」
「では、お元気でございますね」
馬を厩へ入れ、脚を見て、水をやりました。それから待合の卓に帳面を広げ、今日の刻限を書きつけました。
――四月二十六日、峠越え便、往復完了。郵袋九、受取済。臨時御者、駅長。
その下に、来月の欄を作りました。
――五月より軍便の継立を開始。局の許可、到着済み。停車は半刻。
書いてから、羽根を置きました。
棚には、束が四つ、差出人のない一通、木箱、書面の写し、文が二通、式部の書状が二通ございます。
わたくしは束の一つを取り、紐に手をかけました。
かけて、離しました。
まだでございます。読むのは、まだでございます。いつか読みます。読みたくなったら読みます。読みたくならなければ、置いておきます。駅は置く場所でございますので。
レオンハルト様が、馬車の支度をしておられました。王都へお戻りになります。
「レオンハルト様」
「なんだ」
「次の便は、七日後でございます」
「七日後だ」
「七日は、長うございます」
「長い」
「けれど、数えられます」
その方は御者台には上がらず、馬車の脇に立っておられました。
「アニエス。一つ渡すものがある」
「規定にございますか」
「ない。だが受け取ってほしい」
差し出されたのは、細い革の紐でございました。手綱を握るときに、指を保護するために巻くものだそうでございます。使い込まれて、色が変わっております。
「私が五つのときに、ギュンターがくれた」
わたくしはそれを受け取りました。
「頂きます」
「返さなくていい」
「返しません」
馬車が出ていきました。
鈴の音が東へ下り、曲がりのところで一度小さくなって、それから聞こえなくなりました。
わたくしは待合に戻り、戸を閉めました。
卓の上に、局からの封書が一通、届いておりました。ティナが受け取っておいてくれたようでございます。封蝋は青。王都駅逓局のものでございます。
――西街道の駅逓網再編について。北街道の中継所が、本年をもって廃止となる。北街道は西街道と峠の北で接続しており、廃止の場合、当該区間の書状は西街道を経由することとなる。ついては、灰の駅駅長に、北街道側の継立所の管掌を打診する。回答は追って。
北街道。
わたくしは地図を開きました。
街道は、峠の北で二つに分かれております。北の道は、この六か月のあいだ、一度も考えたことがございませんでした。
その先に、駅がいくつあるのか、わたくしは存じません。
第一部は、ここまででございます。
次の部では、灰の駅の駅長が、北街道の駅をいくつ数えることになるのかを書きます。




