第29話 春の初便
御者の欠員は、局が埋めることになっております。
埋まるまでの便は、どういたしますか、と伺いましたところ、監督官殿はこう仰いました。
「休便だ。規定にある」
「峠を越える最初の便でございます」
「そうだ」
「冬のあいだの遅れが、まだ取り戻せておりません」
「そうだ」
「休便にいたしますと、あと七日でございます」
「そうだ」
わたくしは規定の写しを出しました。継立所の項でございます。
第九条。継立所の駅長は、便の運行に必要な場合、臨時に御者を務めることができる。ただし、当該路線の走行経験を有する者に限る。
「走行経験」
「峠を越えたことがあるか、ということでございましょう」
「貴女はあるか」
「ございません」
その晩、ギュンターに伺いました。
「ギュンター。走行経験と申しますのは、御者として越えたことでございましょうか。それとも、その道を知っていることでございましょうか」
「知らん」
「規定には、走行経験としか書いてございません」
「なら、どっちでもいい」
「どちらでもよろしゅうございますか」
ギュンターは藁を置きました。
「駅長。おれは五十年、馬を扱っとる。御者はやったことがない」
「はい」
「だが、御者台に乗った回数なら、五十年ぶんある」
「隣に、でございますね」
「隣だ」
翌日から、三日かけて峠を越えました。
軍馬の栗毛に、荷を積まない馬車を引かせます。ギュンターが隣に座り、坂の手前で止める場所と、雪解けの水が路面の下を流れているところと、曲がりで外の輪が浮くところを教えてくれました。
「そこだ。止めろ」
「まだ坂ではございません」
「坂の三十歩手前で止める。息を入れ替えさせる」
「はい」
「入れ替えたら、あとは登るだけだ。登っとる最中に止めるな。止めたら二度と登らん」
一日目は、坂の手前で止めるところを覚えるだけで終わりました。
二日目に、雪解けの水の音を教わりました。路面の下を水が流れておりますと、蹄の音が変わるのだそうでございます。乾いた土は高く鳴り、水を含んだ土は鈍く応えます。
「聞こえるか」
「……聞こえます」
「聞こえたら、輪を山側へ寄せろ。谷側は抜ける」
わたくしは目を閉じて、音だけを聞きました。三年のあいだ、屋敷で雨の音を数えておりました。数えるために聞くのと、判断するために聞くのとでは、同じ耳でも違うものが聞こえます。
三日目に、峠を越えました。
峠の向こうには、三つの村が見えました。谷が三つに分かれ、それぞれの奥に屋根が集まっております。冬のあいだ、薬が届かなかった村でございます。
わたくしは御者台の上で、しばらくその谷を見ておりました。
三度目に越えました晩、ギュンターが厩で申しました。
「駅長。御者台で、いちばんやってはいかんことは何だ」
「手綱を握りすぎることでございましょうか」
「違う」
「では、坂の途中で止めることでございますか」
「違う」
ギュンターは轡を掛け、こちらを向きました。
「振り向くことだ」
「振り向く」
「後ろが気になって振り向くと、手が動く。手が動くと、馬が曲がる。曲がると、谷側へ寄る」
「では、後ろは」
「見んでいい。後ろは、荷を積んだ者の責任だ」
わたくしは帳面に書きつけました。
――御者台では振り向かない。後ろは、積んだ者の責任。
書きながら、これは馬車の話ではないのかもしれないと思いました。
便の日の朝でございます。
わたくしは局の申請書を書きました。
――規定第九条により、灰の駅駅長が臨時に御者を務めます。走行経験については、本便に先立ち三度、当該区間を走行いたしました。証人、灰の駅馬丁ギュンター・ロース。
監督官殿が、それを読まれました。
「三度」
「三日で三度でございます。往復を数えますと六度でございますが、越えた回数で書きました」
「規定は回数を定めていない」
「定めておりません。ですから、書いた回数が判断されます。多く書けば通りやすうございますが、水増しに見えます」
「三度が妥当か」
「三度でございます」
監督官殿は申請書を返され、それから、こう仰いました。
「駅長」
「はい」
「私が監督官として同乗する。規定にある」
申請は、その日のうちに通りました。
通したのはダルク様でございます。宿場に監査でおられまして、局の判を持っておられました。
「駅長。臨時の御者は、事故が起きた場合の責任が駅長にかかります」
「かかりますね」
「荷は郵袋九つ、冬のあいだの分でございます。失えば、村の四か月ぶんが消えます」
「消えます」
「それでも出されますか」
「出します」
ダルク様は判を押し、それから、こう仰いました。
「わたくしは、規定どおりに許可いたしました。規定どおりでございますから、褒めてはおりません」
「存じております」
「ただ、落ちましたら、所見に一行書きます」
「何とお書きになりますか」
「駅長は、規定の範囲で最善を尽くした、と」
馬車に馬を繋ぎました。
栗毛と青毛。ギュンターが轡を確かめ、腹帯を締め直します。郵袋は九つ。冬のあいだの分でございます。そのなかに、婆さまの息子への手紙が一通ございます。ティナの字でございます。
村の方が、十人ほど見送りに出てこられました。
「駅長さん、落ちるなよ」
「落ちません」
「落ちたら、水車の材で棺を作ってやる」
「ありがたく存じます」
わたくしは御者台に上がりました。
三年のあいだ、わたくしが座っていたのは、馬車の中でございました。窓に布が掛かっておりましたので、外を見たことがございません。
御者台は高うございます。馬の背が二つ、目の下にございます。その向こうに街道があり、街道の先に峠がございます。
監督官殿が隣に座られました。
「アニエス」
「はい」
「手綱は、握りすぎるな」
「ギュンターにも、同じことを言われました」
「馬丁と御者で言うことが同じなら、それが正しい」
鈴を鳴らしました。
馬車が動き出します。厩の前で、ギュンターが立って見ておりました。その隣に、フリーダが首を出しております。
坂の三十歩手前で、一度止めました。息を入れ替えさせて、それから登りました。登っている最中は止めません。
曲がりで外の輪が浮きましたので、内側へ寄せました。寄せすぎますと山側の土に乗りますので、半分だけでございます。
峠の上で、風が変わりました。
「アニエス」
「はい」
「呼び名は決まったか」
わたくしは手綱を持ったまま、前を見ておりました。
「決まりました」
「聞かせてくれ」
「けれど、まだ申し上げません」
「なぜだ」
「峠を下りてからにいたします。下りは難しゅうございますので、手綱に集中しなければなりません」
「そうか」
「はい」
「では、下りてからだ」
馬車は峠を越え、谷のほうへ下ってまいりました。三つの村の屋根が、だんだん近くなります。
次話「七日後に、またお会いいたします」で第一部は終わります。
峠を下りたところで、アニエスが呼び名を申し上げます。




