第28話 雪解けの水量
四月の半ばに、峠下が崩れました。
夜のうちに降った雨が、雪解けの水に重なったのでございます。三町ほどの区間で、街道の山側が肩まで落ちました。土と石が路面を埋めております。
便は止まりました。
朝のうちに、ラウルが宿場から歩いて上がってまいりました。
「駅長さん。局は二週間だって言ってます」
「二週間」
「王都から人を出すのに一週間、直すのに一週間」
「そのあいだ、便は」
「止まりです。東回りは三日多くかかるんで、採算が合わないって」
わたくしは帳面を開きました。
二週間止まりますと、峠の向こうの三つの村へ、四か月ぶんの遅れが取り戻せなくなります。冬のあいだ止まっていた分が、いま上がってきているところでございました。
「ラウル。崩れたのは、どのくらいでございましょう」
「幅は三町。深さは、膝から腰くらいです」
「石は」
「大きいのが五つ六つ。あとは土です」
「五つ六つでしたら、動かせます」
「駅長さん一人でですか」
「一人ではございません」
村へ参りました。十九軒を、一軒ずつ回りました。
「峠下が崩れました。二週間、便が止まります。局が直すのを待ちますと、二週間でございます。村の衆で直しますと、三日でございます」
「駅の仕事だろう」
「駅の仕事でございます。ですから、駅も出ます。わたくしとギュンターが出ます」
「じいさんは腰が悪い」
「では、わたくしが出ます」
六軒目で、水車のヴェルナー家に参りました。
「うちは出るよ」
「ありがとう存じます」
「去年、川が出たときに、村の衆が来た。順番だ」
前の晩に、段取りを紙に書きました。
人がどれだけ出るか分かりませんので、三十人、五十人、八十人の三通りを作りました。三十人でしたら石を動かすところまで。五十人でしたら土を寄せるところまで。八十人でしたら杭まで打てます。
道具の数も数えました。鍬が村に十四、鋤が九、綱が六本。足りない綱は、駅の予備の手綱で代えます。
炊き出しの量は、婆さまに伺いました。
「何人分でございましょう」
「四十人分作れば、六十人食える。皆、半分にして分けるから」
「では、五十人分お願いいたします」
「多いよ」
「余りましたら、明日に回します。足りませんと、その日が止まります」
翌朝、峠下に十九軒すべてが出てまいりました。
ティナが石板に人数を書きつけております。婆さまは炊き出しの鍋を運ばれました。ギュンターは腰を庇いながら、馬に引き綱をつけて石を引かせております。
わたくしは土を運びました。三年のあいだ、わたくしの手は羽根より重いものを持ったことがございません。半日で、手のひらの皮が二枚剥けました。
昼に、婆さまが手を見て、笑われました。
「駅長さん、いい手になったね」
「痛うございます」
「痛いのが仕事の手だよ」
石を動かす順番も、決めておきました。
いちばん大きい石から動かしますと、動かしたところへ土が落ちてまいります。ですから、上のほうの土を先に落として、それから石を出します。これはギュンターに教わりました。厩の掃除と同じだそうでございます。
「駅長。上から下だ」
「上から下でございますね」
「馬の毛も、傷の手当も、屋根も、全部そうだ。下からやると、二度になる」
二日目の昼過ぎに、東からラウルの馬車が上がってまいりました。馬車には人が乗っておりました。宿場の衆でございます。八人ほど。
「駅長さん。宿場も出るって言うんで、連れてきました」
「……なぜ、宿場の方が」
宿場の年寄りが降りてこられました。
「石橋の旦那に言われた」
わたくしは手を止めました。
「ユーゴー様が」
「灰の駅が潰れたら、次に潰れるのは宿場だとよ。あの人が言うと、腹が立つが、その通りだ」
二日目の終わりに、山側の土が一度崩れました。
寄せた土の上に、上から新しい土が落ちてまいります。半日ぶんが埋まりました。
誰も声を出しませんでした。出さずに、上のほうの土をもう一度落としはじめました。
わたくしは鍬を握ったまま、しばらく動けませんでした。半日ぶんが消えるということが、実際に目の前で起きますと、頭より先に手が止まります。三年のあいだ、消えるものがございませんでしたので、慣れておりません。
「駅長さん」
婆さまが、鍋の柄杓を持って立っておられました。
「土は落ちるもんだよ」
「……はい」
「落ちたら、また寄せる。それだけだ」
三日目の夕方に、街道が通りました。
石を五つ動かし、土を寄せ、山側に丸太で杭を打ちました。丸太は水車のお宅の材でございます。
最後の杭を打ち終えて、皆が街道に座り込みました。わたくしも座りました。膝から下が泥でございます。
「駅長さん」
ティナが石板を持ってまいりました。
「三日で、のべ八十七人。宿場が二十四。村が六十三」
「書き留めておいてくださいましたか」
「駅長さんが、書いておけって言うと思って」
「……そのとおりでございます」
石板には、名前も書いてございました。一軒につき、出た人の名と、日数でございます。三日とも出た方が四十一人、二日が十八人、一日が二十八人。
「ティナ。名前まで書いておられましたか」
「数だけだと、あとで誰が出たか分からなくなるでしょ」
「……そのとおりでございます」
「駅長さんの真似」
わたくしは石板を受け取り、数を帳面へ写しました。名前も、一人ずつ写しました。
――四月十八日、峠下崩落。復旧、のべ八十七人。局の見積り二週間に対し三日。
書きながら、指が震えて字が曲がりました。
その晩、駅に戻りますと、待合に灯りがついておりました。
監督官殿が長椅子に座っておられます。外套に泥がついております。
「……いらしていたのですか」
「二日目から出ていた」
「存じませんでした」
「山側で杭を打っていた。貴女は谷側で土を運んでいた」
わたくしは戸口に立ったまま、しばらく動けませんでした。三日のあいだ、同じ場所におられて、一度も声をかけられなかったのでございます。
「なぜ、仰らなかったのでございますか」
「言えば、貴女は手を止める」
「止めます」
「止めてほしくなかった」
わたくしは土間に入り、湯を沸かしました。沸くまでのあいだ、二人とも黙っておりました。
「アニエス」
「はい」
「呼び名は、決まったか」
わたくしは竈の火を見ておりました。
「一つだけ、思いつきました」
「言ってくれ」
「けれど、まだ申し上げません」
「なぜだ」
「申し上げますと、そう呼ぶことになりますので」
「そうだな」
「もう少し、考えます」
監督官殿は椀を受け取られました。
「アニエス」
「はい」
「来週、便が出る。峠を越える最初の便だ」
「はい」
「御者は、誰が務める」
わたくしは湯を注ぐ手を止めました。
「ラウルでございます」
「ラウルは宿場から東の担当に替わった。局の異動だ」
「……では、どなたが」
「決まっていない」
次話「春の初便」では、峠を越える最初の便に、御者が一人足りません。
灰の駅の厩には、慣らし終えた馬が二頭おります。




