第3話 旦那様、馬をお替えいたします
鈴の音が先に参ります。
街道の曲がりを回ってくるより早く、峠から降りてくる風が音だけを運んでまいります。ギュンターが厩から二頭を引き出し、轡を持って待合の前に立ちました。わたくしは戸を開け、卓に帳面と秤を置きました。
馬車が停まりました。
御者台から降りてきたのは、まだ若い男でございます。人懐こい顔で、帽子を取って一礼いたしました。
「西街道王都便、ラウル・ベルクです。駅長さんが替わったって聞きました」
「アニエスと申します。馬をお替えいたします。半刻ほど、お待ちくださいませ」
「助かります。四分遅れてるんで」
四分。
わたくしが帳面に刻限を書きつけておりますと、馬車の扉が開きました。降りてきた方の靴が、待合の敷居を越えます。
「駅逓監督官のアーレンスだ。馬を頼む」
羽根の先が、帳面の上で止まりました。
顔を上げれば、旦那様がいらっしゃいます。三年、そうしないほうがうまくいっておりました。けれどここは屋敷ではございません。ここは駅で、あの方は客で、わたくしは駅長でございます。
わたくしは顔を上げました。
「いらっしゃいませ。灰の駅でございます」
旦那様は——監督官殿は、わたくしを見て、それから待合のなかを見て、また戻ってこられました。表情は、婚儀の日から一度も変わっておられません。
「馬を頼む」
「かしこまりました。半刻ほど、お待ちくださいませ」
馬を替えるというのは、繋ぎ替えるだけのことではございません。
着いた二頭を外し、汗を拭き、水をやり、脚を上げさせて蹄の裏を見ます。石が挟まっていれば落とし、熱を持っていれば冷やします。そのあいだに休ませてあった二頭を出して、腹帯を締め、轡を合わせ、馬車に繋ぎます。最後に、御者と一緒に轍の高さを見ます。馬が替われば背丈が変わりますので、繋ぎの位置を半寸ほど直すことがございます。
これで半刻でございます。
わたくしはそれを、前の晩に帳面へ書き出しておきました。書き出しておきませんと、順序を飛ばします。飛ばした順序は、あとで戻れません。馬車はもう出てしまいますので。
外でギュンターが轡を外しております。
わたくしは卓の前に立ち、郵袋を受け取りました。二つ。札には十九斤と十四斤とございます。秤に載せますと、十九斤と十四斤でございました。
合っております。
「……合っております」
「何がだ」
監督官殿は待合の長椅子の、いちばん端に腰かけておられました。背もたれの傷のある側でございます。
「重さでございます。先月の便は、毎回三斤足りませんでした」
「三斤」
「はい」
それきり、言葉が途切れました。窓の外でラウルが馬に水を飲ませております。ギュンターが馬の脚を撫でて、何かを長く話しかけております。
半刻でございます。刻限を書きつけましたので、あと二十六分ほど。
わたくしは帳面を閉じ、そして開き、また閉じました。することがございません。
「駅長」
「はい」
「屋根を直したのか」
わたくしは窓の外を見ました。南の斜面の、新しい板のところに日が当たっております。
「三分の二までは」
「板が足りなかったか」
「村の倉の板が、そこまででございました」
「そうか」
二つ目でございます。
いえ。この方の言葉を数えるのは、もうやめなければなりません。ここでは、客に話しかけられるのは当たり前のことでございますから。
「郵袋は、どこで開けるのでございましょう」
わたくしが尋ねますと、監督官殿は少し間を置いて答えられました。
「王都局と、終点の辺境局だ。途中では開けない」
「では、途中の駅で重さが減ることはございませんね」
「ない」
「けれど減っておりました」
「三斤か」
「三斤でございます。毎回、きっちり三斤でございました」
監督官殿は膝の上で手を組み、しばらく黙っておられました。それから、こう仰いました。
「秤を疑ったか」
「疑いました。狂っておりません」
「札を疑ったか」
「疑っております。ただ、札は王都局が書くものでございますので、わたくしには確かめようがございません」
「袋は」
わたくしは顔を上げました。
「……袋、でございますか」
「札は袋の口に付ける。袋は使い回す。破れれば当て布をする」
「当て布をいたしますと、袋そのものが重くなります」
「そうだ」
「札は、中身の重さを書くのではなく、袋ごとの重さを書くのでございますね」
「書く」
「では、当て布のぶんを引いた者と、引かなかった者がいるのでございます」
監督官殿は、はじめてわたくしのほうへ顔を向けられました。
「引くのは、どちらが正しい」
「引かないのが正しゅうございます。局が測るのは袋ごとの重さでございますから、途中で引いてはいけません。引けば、次の駅で足りないことになります」
「では、引いた者を探せばいい」
「三斤の当て布をした袋を使った便を、探せばよろしいのですね」
「そうだ」
わたくしは帳面を開きました。羽根を取って、差の出た日付を書き写した紙を出しました。書きながら、口が勝手に動いておりました。
「先月の第三便、第四便、第五便。三度でございます。三度とも同じ袋が回っていたとすれば、袋には番がございましょうか」
「口の内側に焼き印がある」
「では、次の便でその番を控えます」
「控えて、どうする」
「王都局へ送り返す袋を、番ごとに帳面へ書きつけます。三か月もいたしますと、どの袋がどこで重くなったかが並びます」
「三か月か」
「三か月でございます。急ぎませんので」
外で、ラウルの声がいたしました。
「監督官殿ー。あと四分ですよー」
四分。
わたくしは羽根を置いて、はじめて刻限を見ました。
半刻が終わろうとしております。
この半刻のあいだに、わたくしはこの方と、いくつ言葉を交わしましたでしょうか。数えようといたしまして、数えられませんでした。途中でわからなくなったのでございます。三年で四つのものを、数えられなくなるということが、この世にはあるのだと存じませんでした。
監督官殿が立ち上がられました。
「駅長」
「はい」
「板は、次の便で持ってくる」
「……それは、駅逓の規定にございますか」
「ない」
「では、お受けできません」
わたくしは自分の声に驚きました。三年のあいだ、この方に何かをお断りしたことは一度もございません。
監督官殿は戸口で止まり、こちらを向かれました。
「なぜだ」
「灰の駅にはひとつだけ規則がございます。規定にないものを頂きますと、次から規定にないものを断れなくなります。断れない駅は、便を守れません」
沈黙がございました。窓の外で馬が首を振り、鈴が一度だけ鳴りました。
「……わかった」
監督官殿は帽子を取り、少しだけ頭を下げられました。
「では、板は売る。駅逓局の払い下げだ。代金は預かり賃から引く」
「……それでしたら、頂きます」
「来週も参る」
規定にない言葉でございました。
馬車が動き出しました。鈴の音が遠ざかり、峠のほうへ上がってまいります。
ギュンターが厩から出てきて、街道を見ておりました。
「駅長」
「はい」
「顔が赤い」
「風でございます」
「風は東からだ」
厩へ参りますと、着いたばかりの二頭が水を飲んでおりました。ギュンターが一頭の後ろ脚を持ち上げて、蹄の裏を掻いております。
「駅長。見とけ」
蹄の内側に、細い石が一つ挟まっておりました。
「これを落とさんと、三日で膿む。膿んだ馬は、次の便で使えん」
「石は、どこで入りますか」
「峠だ。峠の石は角がある。谷の石は丸い。角のあるやつは刺さる」
わたくしは帳面に書きました。峠から下ってきた馬は、蹄の裏を必ず見ること。書いてから、その下にもう一行足しました。
――角のある石。峠。
書きつけておきますと、次に見たときに思い出します。思い出さなくても、書いてあれば同じことでございます。
わたくしは待合へ戻り、戸を閉めました。卓の上の帳面には、刻限と、馬の番と、郵袋の重さが書いてございます。そのあとに、わたくしは一行だけ書き足しました。
――次便、郵袋の焼き印の番を控えること。
それから、その下にもう一行。
――次便、七日後。
次話「七日は長うございます」では、便のない六日間を、アニエスが駅で過ごします。
ギュンターが一度だけ、婚儀の前の晩のことを口にいたします。




