第2話 灰の駅にはひとつだけ規則がございます
夜が明けて、まず屋根に上がりました。
瓦は四枚ではなく、七枚落ちておりました。上から見ますと、南の斜面だけが波打っております。下地の板が湿って反っているのでございます。
「駅長。降りろ」
下からギュンターの声がいたしました。
「板が要ると存じます」
「村へ言え。おれは馬から離れん」
村は街道を東へ四半里ほど下ったところにございます。歩いてまいりますと、井戸端に女の方が三人おられました。わたくしが名乗りますと、三人とも黙ってしまわれました。
「灰の駅の、新しい駅長でございます。屋根の板を分けて頂けませんでしょうか」
「お代は」
「今はございません。次の便で郵袋の預かり賃が入りますので、そのときに」
いちばん年嵩の方が、わたくしの手を見ておられました。三年のあいだ、わたくしの手は羽根より重いものを持ったことがございません。爪の形が、この方たちのものとまるで違うのでございます。それはもう、どうしようもないことでございました。
「板は倉にある。運ぶのは自分でおやり」
「ありがとう存じます」
倉は井戸の裏にございました。戸を開けますと、埃と木の匂いがいたします。板は奥の壁に立てかけてございました。数えますと十七枚。長さがまちまちで、端の割れているものが五枚ほど混じっております。
わたくしは一枚ずつ立てて、長さの順に並べ替えました。並べ替えますと、使えるものが十二枚、継ぎ足しに使えるものが五枚と分かります。屋根の南の斜面に要るのは、長いもので九枚でございました。
九枚では足りません。三分の二までしか葺けません。
足りないことは、運ぶ前に分かったほうがよろしゅうございます。運んでから足りないと分かりますと、二度手間になりますので。
板は思ったより重うございました。三度に分けて運びまして、二度目のとき、後ろから小さな足音がついてまいりました。振り向きますと、十四、五の娘が板の端を持ち上げております。
「持ちます」
「よろしいのですか」
「ティナです。村の者です。字が読めます」
字が読めます、と自分で名乗る方に、わたくしははじめてお会いいたしました。
「それは、ありがたいことでございます」
「ほんとに?」
ティナは目を丸くいたしました。
「みんな、いやな顔をします。読めるとね、頼まれるんです。手紙とか。それで、書いてやると、あんたが余計なことを書いたって言われるんです」
「読めるほうが、書ける言葉が多うございましょう」
「……多い、かなあ」
板を土間まで運びまして、ティナは帰っていきました。夕方までに南の斜面を三分の一ほど葺きまして、日が落ちました。手のひらに棘が二本入っております。抜きますと、そこだけ白くなりました。
その晩から、帳面でございます。
継立の帳面には、便ごとに欄が四つございます。着いた刻限、置いていった馬、連れていった馬、そして郵袋の数と重さ。
郵袋には王都側で封をいたします。封蝋には局の印が押され、重さが袋の口の札に書きつけてございます。灰の駅では袋を開けません。秤に載せて、札の数と合うことを確かめ、帳面に書き、次の便へ渡す。それだけでございます。
先月の第三便。札は二十一斤。帳面は十八斤。
その次の便。札は二十四斤、帳面は二十一斤。
その次も、三斤。
わたくしは羽根を置いて、燭を近づけました。
差が毎回同じというのは、こぼれたのでも濡れたのでもございません。こぼれれば差は毎回変わります。濡れれば重くなります。毎回きっちり三斤足りないというのは、誰かが毎回きっちり三斤ぶんの何かをしているということでございます。
書き手は三人おられました。字が三種類ございますので。けれど三斤の差は、三種類の字のどれにも出ております。
ということは、書き手の間違いではございません。
朝、ギュンターに尋ねました。
「郵袋の秤は、この一台だけでございますか」
「一台だ」
「狂っておりましょうか」
ギュンターは秤を見て、それから厩へ行き、蹄鉄を一つ持ってまいりました。
「三斤ある」
載せますと、針は三斤を指しました。
「……狂っておりません」
「狂っとらん」
ギュンターはそれだけ申しまして、蹄鉄を持って戻っていきました。わたくしは秤の前に立ったまま、しばらく針を見ておりました。秤が正しいなら、札が正しくないか、袋が正しくないかでございます。
二日目の午後は、厩でございました。
馬は三頭。栗毛の牝、鹿毛の牡、それに年寄りのフリーダでございます。ギュンターが飼葉を配るのを、後ろから見ておりました。同じ量を三つの桶に入れるのだと思っておりましたら、違いました。栗毛にはやや多く、鹿毛には少なく、フリーダには柔らかいところだけを選って入れております。
「なぜ、量が違うのでございますか」
「歯だ」
「歯」
「年寄りは奥歯が減る。硬いのを噛めん。噛めんまま飲むと腹に来る」
「では、量ではなく質でございますね」
ギュンターは桶を置き、こちらを見ました。
「駅長。おれは五十年やっとるが、そう言われたのははじめてだ」
「間違っておりましたか」
「合っとる」
わたくしは帳面に、飼葉の欄を作りました。三頭ぶん、量と、選り方でございます。作りながら、これも誰も読まないだろうと思いました。思ってから、ギュンターが読むかもしれないと気づきました。読める、と昨日仰いましたので。
三日目に、待合を拭きました。
長椅子を端から端まで。半端に触ってしまいましたので、そこだけ目立たないように、全部を同じだけ拭かなければなりません。
背もたれの下のほうに、傷が一本ございました。横に引かれた、浅い傷でございます。木目に逆らって走っておりますので、木が痩せてできたものではございません。何か硬いものが当たったのでございましょう。剣の鞘を吊った方が腰かけますと、ちょうどこのあたりに鐺が当たります。
この駅に、帯剣した客が座ったことがある。
それだけのことでございます。それだけのことでございますが、わたくしは指をその傷から離せませんでした。
四日目の朝、村から預かりの荷が届きました。
布に包まれた小さな包みが六つと、木箱が一つ。木箱には古い縄がかかっており、縄の結び目が固くなって解けません。荷札には何も書いてございません。
「これは」
「お祖母様のだよ」と、届けてくださった村の方が申されました。「駅の物だから駅に置くもんだって、皆で決めてあったんだ」
置く場所がございませんので、土間の棚の上へ上げました。埃が指についたので、拭こうとして、やめました。半端に触ると目立ちます。あとで、全部を拭くときに一緒に拭くことにいたしました。
その晩、わたくしは厩の隅で古い郵袋を一つ見つけました。破れて使えなくなったものが丸めて置いてあったのでございます。広げますと、袋の底が二重になっておりました。
布が二枚、縫い合わさっております。外の一枚は擦り切れて薄く、内の一枚は新しい。修繕のために当て布をしたのでございましょう。
わたくしは秤にその袋だけを載せました。
三斤でございました。
空の袋が、三斤。
燭を吹き消す前に、わたくしは帳面の後ろの触書をもう一度出して、刻限のところだけを読みました。
明日の午。
半刻でございます。馬を替えるあいだ、あの方はこの待合におられます。
わたくしはもう一度、頂いた言葉を数えました。よろしく、寒いな、妻だ、ご苦労だった。
四つ。
明日は、いくつになりますでしょうか。
次話「旦那様、馬をお替えいたします」では、灰の駅に最初の王都便が着きます。
半刻のあいだ、アニエスは駅長として、その方を客としてお迎えいたします。




