第1話 四つ目の言葉
白い結婚が明けた翌週から、辺境の小さな駅のお話がはじまります。
週に一度だけ馬を替えに来る方と、三年ぶんの言葉を数えるお話です。
「……ご苦労だった」
四つ目でございます。
三年と二か月、同じ屋敷に暮らしまして、旦那様からわたくしが頂いた言葉は、これで四つ目になりました。一つ目は婚儀の日の「よろしく」。二つ目は二年目の冬に廊下ですれ違ったときの「寒いな」。三つ目は昨年の収穫祭で、招かれた客に紹介されたときの「妻だ」。そして四つ目が、たった今の「ご苦労だった」でございます。
わたくしは羽根を置きました。同盟の担保として結ばれた婚姻は、三年で終いという約束でございます。白い結婚のまま、約束どおりに。書類の上のわたくしの名は、少し右に寄って見えました。
顔は上げませんでした。上げないほうが、この三年はうまくいっておりましたので。旦那様が立ち上がる音がして、扉が閉まりました。五つ目はございませんでした。
家令が咳払いをして、申しました。
「奥様のお継ぎになる灰の駅には、王都便が週に一度、参ります」
わたくしは、はじめて顔を上げました。
「……週に、一度」
「はい。西街道の継立所でございます。ご存命のお祖母様が、奥様のお名前で残しておられました」
継立所というものを、わたくしは書物でしか存じません。街道を行く定期の馬車が、疲れた馬を置いて、休んだ馬を連れていく場所。人は替わりません。馬だけが替わります。
「その、王都便と申しますのは」
「王都と辺境を七日ごとに往復いたします。灰の駅は峠の手前で唯一の継立所でございますので、必ず寄ります」
必ず。
わたくしは、その言葉のところで一度、息を止めました。
「必ず、でございますか」
「必ずでございます。街道の掟でございますから」
外は雨でございました。三年のあいだ、この屋敷で雨の音を聞くと、わたくしはいつも数えておりました。頂いた言葉を、四つまで。四つより先がございませんので、四つ数えると最初へ戻ります。よろしく、寒いな、妻だ、ご苦労だった。よろしく、寒いな——
もう戻らなくてよいのだと気づいたのは、馬車が屋敷の門を出てからでございました。
持って出るものは、三つだけでございました。嫁いだときに持ってまいりました衣装箱が一つ。母の形見の櫛が一つ。それから、三年ぶんの家政帳が一束でございます。
家政帳は、置いていくつもりでおりました。屋敷の物でございますから。けれど家令が、これはお持ちくださいと申しました。
「屋敷の写しは別にございます。奥様のお書きになった原本は、お持ちいただくのが筋でございましょう」
「誰も読まないものでございます」
「読まれないものを三年書けるのは、才でございます」
馬車が動き出しますとき、家令が一度だけ深く頭を下げました。三年のあいだ、この方だけが毎朝「おはようございます」と仰いました。数に入れておりませんでしたが、そういえば、いちばん多く言葉を交わしたのはこの方でございます。
窓には布が掛かっております。三年、この布を上げたことがございません。上げてよいのかを、誰にも尋ねられませんでしたので。
わたくしは布に手をかけました。
かけて、下ろしました。今日でなくてよいと思いましたので。
灰の駅に着いたのは、三日後の夕刻でございます。
石造りの、平たい建物でございました。街道に面して待合があり、その奥に土間、さらに奥へ厩が続いております。屋根の南側の瓦が四枚ほど落ちて、そこだけ空が見えておりました。
待合の長椅子に埃が積もっております。指で撫でますと、木の色が一本、線になって出てまいりました。
「触るな」
声のしたほうを見ますと、老人が立っておりました。背は高くありませんが、肩から腕にかけての厚みが尋常ではございません。手に藁束を提げております。
「……申し訳ございません」
「拭くならちゃんと拭け。半端に触ると、そこだけ目立つ」
それだけ申しまして、老人は厩のほうへ歩いていきました。名乗りはございません。
わたくしは待合を出て、後を追いました。厩には馬が三頭おりました。うち一頭は年寄りで、飼葉桶に鼻先をつけたまま動きません。老人がその馬の前にしゃがみ、両手を擦り合わせております。擦って、温めて、それから脚に触れました。
「今日は左の後ろが痛いな。わかっとる、わかっとる。急がんでいい、おまえは急がんでいい」
先ほどとは別人のような声でございました。長く、低く、途切れません。
「あの」
「馬は待たん」
言葉が三つに戻りました。
「わたくしは、この駅を継ぐ者でございます。アニエスと申します」
老人は立ち上がり、はじめてわたくしの顔を見ました。頬に古い傷が一本ございます。
「ギュンター」
「ギュンターさん」
「さんはいらん。駅長」
駅長。
その呼び名を、わたくしは胸のうちで繰り返しました。三年のあいだ、わたくしを呼ぶ言葉は「奥様」の一種類だけでございましたので、耳が慣れておりません。
「駅長。屋根は明日にしろ」
「明日、でございますか」
「便が来る。四日後だ」
厩を出ますと、日が落ちておりました。
待合には竈がございません。火は土間だけでございます。わたくしは土間へ入り、竈の灰をかき出しました。灰の下にまだ熾が残っておりまして、藁を近づけますと、細い煙が上がって、それから火になりました。
誰かが、そう昔ではないうちに、この火を使っております。
鍋が一つ、棚に伏せてございました。取って、水を張って、竈に掛けました。それだけのことに、思ったより時間がかかります。屋敷では、この一連を人が三人でしておりました。三人の手を一人でいたしますと、手順が抜けます。抜けた手順は、あとで戻って埋めるしかございません。
湯が沸くまでのあいだ、わたくしは衣装箱の紐を解きませんでした。解いてしまいますと、ここに住むことになります。まだ、そこまでの覚悟がついておりません。
その晩、わたくしは土間の卓に燭を置きました。
継立の帳面と申しますのは、便が着いた刻限、置いていった馬、連れていった馬、預かった郵袋の数と重さを書きつけるものだそうでございます。お祖母様が亡くなられてからは村の方が交代で書いていたようで、字が三種類ほど混ざっておりました。
帳面のいちばん後ろに、薄い紙が一枚挟んでございました。王都駅逓局の触書でございます。次の便の刻限と、随行する者の名が並んでおりました。
御者 ラウル・ベルク
駅逓監督官 レオンハルト・フォン・アーレンス
燭の火が一度、大きく揺れました。
わたくしはその紙を裏返し、それから表に戻し、もう一度読みました。字は間違えておりません。三年のあいだ、その名を書類で見なかった日はございませんでしたので、間違えようがございません。
監督官という役目が何をするものか、わたくしは存じません。ただ、随行する者の名は便ごとに書き替えられるのだそうです。ということは、この方は次の便に乗ってこられて、その次の便にも乗ってこられるかもしれず、乗ってこられないかもしれません。
わたくしは触書を帳面に戻しました。
外で風が鳴っております。峠のほうから降りてくる風でございます。
四日後に、便が参ります。
必ず、でございますか、と、わたくしはもう一度、誰にともなく尋ねました。
次話「灰の駅にはひとつだけ規則がございます」では、アニエスが四日のあいだに駅を立て直します。
帳面の数字が三斤ぶん、どうしても合いません。




