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三年、ひとことも交わさなかった旦那様が、週に一度だけわたくしの駅に馬を替えに来ます 〜白い結婚は明けました。次の便は七日後でございます〜  作者: 森川つばめ


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26/30

第26話 この駅は、王家の駅でございます

 朝の早いうちに、蹄の音がいたしました。


 一騎でございます。全速で坂を上がってまいります。


 わたくしが待合の戸を開けますと、馬が駅の前で止まり、乗り手が鞍から滑り降りました。泥で顔が汚れております。


 監督官殿でございました。


 「アニエス」


 「……監督官殿」


 「原本の写しだ」


 鞍の後ろに、革の筒が結びつけてございました。紐を解く手が震えておられます。二日、馬を替えながら走ってこられたのでございましょう。


 「式部は四日では動かない。だから王都へ行った。受理の順番を待たずに、写しの交付だけを先に取った」


 「そのようなことが、できるのでございますか」


 「できない。だが公爵家の名で請求すれば、断る理由を書かなければならない。理由を書くよりは、写しを出すほうが早い」


 筒から出てまいりましたのは、厚手の紙が一枚。


 図がございます。街道と、七つの駅と、峠と、三つの村。灰の駅のところに赤い印。


 そして、下のほうに、朱の印が押してございました。


 王家式部の印でございます。


    


 わたくしは紙を卓に置き、手を離しました。


 「一日、遅うございました」


 「遅い」


 「昨日、鹿毛が連れていかれました」


 監督官殿は卓の前に立ったまま、しばらく動かれませんでした。


 「……そうか」


 「はい」


 「間に合わなかった」


 「間に合いませんでした」


 わたくしは自分の声が平らなのに気づきました。三年のあいだ、平らな声を出す訓練だけはしてまいりました。


    


 その日の午に、ソレル様が三騎で上がってこられました。


 「駅長。徴発の完了を報告に来た。書面に受領の署名を」


 「その前に、これをご覧くださいませ」


 わたくしは印の押された写しを差し出しました。ソレル様は受け取り、図を見て、字を読み、四隅を確かめ、それから朱の印を親指で撫でられました。


 「……本物だ」


 「附帯条件第三項でございます。当駅は王家常備の駅とする。常備馬二頭を常時置くものとし、これを徴発・売却・移転の対象から除く」


 「昨日、なぜ出さなかった」


 「昨日は、印のない写ししかございませんでした」


 ソレル様は紙を下ろされました。


 「駅長。徴発は昨日、完了している」


 「完了しております」


 「完了した徴発は、取り消せん」


 「取り消して頂きたいとは、申し上げておりません」


 「では何を求める」


 わたくしは帳面を開きました。


 「附帯条件には、常備馬二頭を常時置くものとする、とございます。置くのは駅の義務でございますが、置ける状態にしておくのは、管掌する側の義務でございましょう。いま、この駅の常備馬は零頭でございます」


 「零頭だ」


 「零頭にしたのは、軍務でございます」


 沈黙がございました。


 部下のお一人が口を開きかけて、ソレル様が手で制されました。


 「……続けろ」


 「軍務が徴発により条件違反の状態を作りましたのですから、条件を満たす状態へ戻すのは軍務の務めでございます。戻し方は二つございます。連れていかれた馬を返すか、代わりの馬を二頭置くかでございます」


 「連れていった馬は、もう西へ発った」


 「では、二頭置いて頂きます」


    


 ソレル様は、しばらくわたくしをご覧になっておりました。


 「駅長。あんたは昨日、これを言えたはずだ」


 「印がございませんでした」


 「印のない紙でも、言うことはできた」


 「言えば、通りましたでしょうか」


 「通らん」


 「通らないことを言いますと、次に通ることを言っても聞いて頂けなくなります」


 ソレル様は、はじめて笑われました。笑うと、顎の傷が引き攣れます。


 「……あんた、軍にいたら出世する」


 「馬に酔いますので、遠慮いたします」


    


 ソレル様は部下を一騎、西へ走らせました。


 「代替の二頭は、隊から出す。夕方までに着く」


 「ありがとう存じます」


 「一つ聞く」


 「はい」


 「あんたは昨日、鹿毛を引き渡すとき、何も言わなかった」


 「申しませんでした」


 「なぜだ」


 わたくしは帳面を閉じました。


 「昨日、申し上げれば、印のない紙を根拠に争うことになります。争って負けますと、今日、印のある紙が届いても、同じ話をもう一度することになります。二度目は、聞いて頂けません」


 「一度で済ませたかったわけだ」


 「一度しか、済ませられません」


 ソレル様は令状を折り、懐に入れられました。


 「王都の兵部にも、あんたのような書き方をする者が二人ほどいる。どちらも嫌われている」


 「……存じております」


 「知っているのか」


 「三年、嫌われない書き方をしておりました」


    


 二頭は、その日の夕方に着きました。


 軍馬でございます。栗毛と、青毛。どちらも五つほどで、脚が太うございます。


 ギュンターが厩から出てまいりまして、二頭の脚を順に見ました。両手を擦り合わせ、温めて、それから触れます。


 「使える」


 「よろしゅうございますか」


 「使える。だが軍の馬は歩幅が広い。街道の坂には向かん。慣らすのに二か月かかる」


 「二か月」


 「二か月だ」


 ソレル様が厩の戸口に立っておられました。


 「馬丁。二か月で慣れるか」


 「慣らせば慣れる」


 「そうか」


 ソレル様は轡の紐を確かめ、それから、こう仰いました。


 「その二頭は、腹の丈夫な個体を選んだ」


    


 わたくしは帳面に、二頭の欄を作りました。


 毛色、歳、歯の状態、脚の癖。軍馬でございますので、以前の記録がございません。今日から書きはじめる欄でございます。


 「ギュンター。この二頭に、名はございますか」


 「軍馬は番だ。腹に焼き印がある」


 「番でございますか」


 「四十七と、五十二だ」


 わたくしは羽根を止めました。番でも、記録は取れます。取れますが、飼葉の選り方を書くときに、番では手が動きません。


 「名を付けてもよろしゅうございましょうか」


 「駅の馬になったんだ。駅長が決める」


 わたくしはしばらく考えました。


 「栗毛をハト、青毛をヨルといたします」


 「なぜだ」


 「鳩は帰ってまいりますので。夜は、毎日参りますので」


 ギュンターは何も言わずに、轡の札を書き替えにいきました。


    


 三騎が去ったあと、監督官殿が待合の長椅子に座っておられました。


 二日、馬を替えながら走ってこられて、そのまま立っておられましたので、座られたのは日が落ちてからでございます。


 わたくしは湯を運びました。


 「監督官殿」


 「アーレンスでいい」


 「……アーレンス様」


 「様もいらない」


 「では、何とお呼びすればよろしゅうございますか」


 その方は椀を持ったまま、しばらく黙っておられました。


 「三年、貴女は私を何と呼んでいた」


 「旦那様でございます」


 「それは、もう違うな」


 「違います」


 「では、考えておいてくれ」


 「……考えます」


 「急がなくていい。毎週来る」


 わたくしは帳面を開き、その日の欄に書きました。


 ――三月十一日、常備馬二頭配置。附帯条件第三項による。継立、明日より再開。


 書いて、そのあとに一行足しました。


 ――呼び名、未定。

 次話「職務に忠実なお方」では、ソレル様が三度目に灰の駅へ来られます。


 今度は令状ではなく、軍の便を通してほしいという頼みでございました。

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