第26話 この駅は、王家の駅でございます
朝の早いうちに、蹄の音がいたしました。
一騎でございます。全速で坂を上がってまいります。
わたくしが待合の戸を開けますと、馬が駅の前で止まり、乗り手が鞍から滑り降りました。泥で顔が汚れております。
監督官殿でございました。
「アニエス」
「……監督官殿」
「原本の写しだ」
鞍の後ろに、革の筒が結びつけてございました。紐を解く手が震えておられます。二日、馬を替えながら走ってこられたのでございましょう。
「式部は四日では動かない。だから王都へ行った。受理の順番を待たずに、写しの交付だけを先に取った」
「そのようなことが、できるのでございますか」
「できない。だが公爵家の名で請求すれば、断る理由を書かなければならない。理由を書くよりは、写しを出すほうが早い」
筒から出てまいりましたのは、厚手の紙が一枚。
図がございます。街道と、七つの駅と、峠と、三つの村。灰の駅のところに赤い印。
そして、下のほうに、朱の印が押してございました。
王家式部の印でございます。
わたくしは紙を卓に置き、手を離しました。
「一日、遅うございました」
「遅い」
「昨日、鹿毛が連れていかれました」
監督官殿は卓の前に立ったまま、しばらく動かれませんでした。
「……そうか」
「はい」
「間に合わなかった」
「間に合いませんでした」
わたくしは自分の声が平らなのに気づきました。三年のあいだ、平らな声を出す訓練だけはしてまいりました。
その日の午に、ソレル様が三騎で上がってこられました。
「駅長。徴発の完了を報告に来た。書面に受領の署名を」
「その前に、これをご覧くださいませ」
わたくしは印の押された写しを差し出しました。ソレル様は受け取り、図を見て、字を読み、四隅を確かめ、それから朱の印を親指で撫でられました。
「……本物だ」
「附帯条件第三項でございます。当駅は王家常備の駅とする。常備馬二頭を常時置くものとし、これを徴発・売却・移転の対象から除く」
「昨日、なぜ出さなかった」
「昨日は、印のない写ししかございませんでした」
ソレル様は紙を下ろされました。
「駅長。徴発は昨日、完了している」
「完了しております」
「完了した徴発は、取り消せん」
「取り消して頂きたいとは、申し上げておりません」
「では何を求める」
わたくしは帳面を開きました。
「附帯条件には、常備馬二頭を常時置くものとする、とございます。置くのは駅の義務でございますが、置ける状態にしておくのは、管掌する側の義務でございましょう。いま、この駅の常備馬は零頭でございます」
「零頭だ」
「零頭にしたのは、軍務でございます」
沈黙がございました。
部下のお一人が口を開きかけて、ソレル様が手で制されました。
「……続けろ」
「軍務が徴発により条件違反の状態を作りましたのですから、条件を満たす状態へ戻すのは軍務の務めでございます。戻し方は二つございます。連れていかれた馬を返すか、代わりの馬を二頭置くかでございます」
「連れていった馬は、もう西へ発った」
「では、二頭置いて頂きます」
ソレル様は、しばらくわたくしをご覧になっておりました。
「駅長。あんたは昨日、これを言えたはずだ」
「印がございませんでした」
「印のない紙でも、言うことはできた」
「言えば、通りましたでしょうか」
「通らん」
「通らないことを言いますと、次に通ることを言っても聞いて頂けなくなります」
ソレル様は、はじめて笑われました。笑うと、顎の傷が引き攣れます。
「……あんた、軍にいたら出世する」
「馬に酔いますので、遠慮いたします」
ソレル様は部下を一騎、西へ走らせました。
「代替の二頭は、隊から出す。夕方までに着く」
「ありがとう存じます」
「一つ聞く」
「はい」
「あんたは昨日、鹿毛を引き渡すとき、何も言わなかった」
「申しませんでした」
「なぜだ」
わたくしは帳面を閉じました。
「昨日、申し上げれば、印のない紙を根拠に争うことになります。争って負けますと、今日、印のある紙が届いても、同じ話をもう一度することになります。二度目は、聞いて頂けません」
「一度で済ませたかったわけだ」
「一度しか、済ませられません」
ソレル様は令状を折り、懐に入れられました。
「王都の兵部にも、あんたのような書き方をする者が二人ほどいる。どちらも嫌われている」
「……存じております」
「知っているのか」
「三年、嫌われない書き方をしておりました」
二頭は、その日の夕方に着きました。
軍馬でございます。栗毛と、青毛。どちらも五つほどで、脚が太うございます。
ギュンターが厩から出てまいりまして、二頭の脚を順に見ました。両手を擦り合わせ、温めて、それから触れます。
「使える」
「よろしゅうございますか」
「使える。だが軍の馬は歩幅が広い。街道の坂には向かん。慣らすのに二か月かかる」
「二か月」
「二か月だ」
ソレル様が厩の戸口に立っておられました。
「馬丁。二か月で慣れるか」
「慣らせば慣れる」
「そうか」
ソレル様は轡の紐を確かめ、それから、こう仰いました。
「その二頭は、腹の丈夫な個体を選んだ」
わたくしは帳面に、二頭の欄を作りました。
毛色、歳、歯の状態、脚の癖。軍馬でございますので、以前の記録がございません。今日から書きはじめる欄でございます。
「ギュンター。この二頭に、名はございますか」
「軍馬は番だ。腹に焼き印がある」
「番でございますか」
「四十七と、五十二だ」
わたくしは羽根を止めました。番でも、記録は取れます。取れますが、飼葉の選り方を書くときに、番では手が動きません。
「名を付けてもよろしゅうございましょうか」
「駅の馬になったんだ。駅長が決める」
わたくしはしばらく考えました。
「栗毛をハト、青毛をヨルといたします」
「なぜだ」
「鳩は帰ってまいりますので。夜は、毎日参りますので」
ギュンターは何も言わずに、轡の札を書き替えにいきました。
三騎が去ったあと、監督官殿が待合の長椅子に座っておられました。
二日、馬を替えながら走ってこられて、そのまま立っておられましたので、座られたのは日が落ちてからでございます。
わたくしは湯を運びました。
「監督官殿」
「アーレンスでいい」
「……アーレンス様」
「様もいらない」
「では、何とお呼びすればよろしゅうございますか」
その方は椀を持ったまま、しばらく黙っておられました。
「三年、貴女は私を何と呼んでいた」
「旦那様でございます」
「それは、もう違うな」
「違います」
「では、考えておいてくれ」
「……考えます」
「急がなくていい。毎週来る」
わたくしは帳面を開き、その日の欄に書きました。
――三月十一日、常備馬二頭配置。附帯条件第三項による。継立、明日より再開。
書いて、そのあとに一行足しました。
――呼び名、未定。
次話「職務に忠実なお方」では、ソレル様が三度目に灰の駅へ来られます。
今度は令状ではなく、軍の便を通してほしいという頼みでございました。




