第22話 春を待つあいだ
三月の第一週に、街道が緩みました。
雪解けの水が路面の下を流れますと、土が浮きます。浮いた土に馬車が乗りますと、輪が沈みます。峠下の三町ほどが特にひどく、王都便は宿場で止められました。
便は来ませんでした。
街道が緩みますと、駅の仕事は増えます。
便が来ない代わりに、村の方が歩いて手紙を持ってこられます。歩ける距離の手紙が集まりまして、集まったものは動かせません。動かせない手紙は、湿気で字が滲みますので、土間の高いところに麻布を吊って、そこへ掛けておきます。
三日目に、二十一通になりました。
二十一通を、宛先の方角で三つに分けました。王都方面、峠の向こう、それから村の中でございます。村の中の分は、便を待たずにティナがお届けいたします。
「駅長さん、村の中のは、あたしが持ってっていいの?」
「お願いいたします。ただ、預かった数と届けた数を書いておいてくださいませ」
「書くの?」
「書きます。書いておきませんと、届かなかったときに、どこで消えたかが分かりません」
その週に、栗毛が子を産みました。
夜半でございます。ギュンターが厩に籠もり、わたくしは湯とランプを運びました。ティナが村から呼んできてくれた方が、二人手伝ってくださいました。
朝方に、牡が一頭生まれました。
「駅長。名は」
「水車のお宅が決めると、契約に書いてございます」
「そうか」
ギュンターは藁を替え、それから、母馬の首を長く撫でました。
「よくやった。よくやった。おまえは腹が弱いのに、よくやった」
昼過ぎに、水車のお宅の方が見にこられました。
「牡か。じゃあ、ヨナだ」
「ヨナでございますね」
「うちの親父の名だ。馬に付けたら怒るだろうが、もう死んでるから怒れん」
わたくしは帳面に書きつけました。
――三月三日、栗毛出産。牡一頭。名、ヨナ。命名、水車のヴェルナー家。
書いてから、その下に一行足しました。
――保有馬三頭。ただし当歳は継立に供せず。
三頭でございます。数の上では、増えました。春に軍が数えに来ますときも、三頭でございます。
その晩、雨が降りました。
街道の水が増える音がいたします。峠下は明日も通れないでしょう。
わたくしは待合の卓で、規定の写しを読んでおりました。徴発の項でございます。
第四十条。軍務は、戦時または戦時に準ずる期間において、街道に在る馬を徴発する。
第四十一条。徴発の対象から除くものは、次に掲げる。一、当歳。二、産後三月以内の牝。三、王家の管掌に属する駅の常備馬。
三でございます。
王家の管掌に属する駅の常備馬。
わたくしは羽根を止めました。
灰の駅は、権利証において王家式部の管掌下にございます。局の裁定にそう書いてございました。けれど、それは駅の廃止についての話でございます。徴発の除外まで及ぶかどうかは、この条文だけでは分かりません。
「常備馬」とは何か。「管掌」とは何か。どちらも、書いてございません。
書いていないところでございます。
戸を叩く音がいたしましたのは、夜の十時を回った頃でございました。
こんな時刻に村の方が来られることはございません。開けますと、外套から水を滴らせた方が立っておりました。監督官殿でございました。
「……どうなさいました」
「便が止まった」
「止まりました」
「宿場から歩いた」
「四里でございます」
「五里だ。峠下を迂回した」
わたくしは戸を大きく開けました。
「お入りくださいませ」
土間の竈に火を足し、湯を沸かしました。
外套を掛けますと、床に水の輪ができます。ギュンターが厩から乾いた布を持ってまいりまして、何も言わずに置いて出ていきました。
「監督官殿」
「アーレンスでいい」
「……監督官殿。なぜ歩いてこられたのでございますか」
「便が止まったからだ」
「便が止まりましたら、監督なさるものがございません」
「そうだ」
その方は椀を両手で持たれました。手が赤うございます。
「毎週来ると言った」
「仰いました」
「今週が一週目だ」
わたくしは椀に湯を注ぎ足しました。注ぎながら、手元が見えなくなりました。
「アニエス」
「はい」
「五里歩くあいだ、何を考えていたと思う」
「……存じません」
「何も考えていない。歩くだけで精一杯だった」
わたくしは笑ってしまいました。声が出ましたので、慌てて口を押さえました。
三年と、この五か月のあいだで、はじめてでございます。
「笑ったな」
「……申し訳ございません」
「謝るな」
「はい」
「もう一度、笑ってくれ」
「そういうものは、頼まれると出ませんので」
その夜、監督官殿は待合の長椅子で休まれました。毛布は、ダルク様が使われたものでございます。
夜半に、わたくしは土間から待合を覗きました。長椅子は、大人が横になるには短うございます。膝を折って、背もたれのほうを向いて眠っておられました。
鞘の鐺が、背もたれの傷のところに当たっております。三年前の春先に、この方が座られたときと、同じところでございます。
わたくしは灯りを落とし、土間へ戻りました。
棚には、束が四つ、差出人のない一通、木箱、書面の写し、文が二通、そして式部の書状が二通ございます。
わたくしは書状を一通、手に取りました。
棚に置きましたのは、監査の日でございました。あれから七週になります。七週のあいだ、この書状は棚の同じ場所にございまして、わたくしは朝と晩に一度ずつ、そこにあることだけを確かめておりました。
中身は二つのうちのどちらかだ、と申しました。どちらであっても今日することは変わらない、と申しました。あれは、嘘ではございません。嘘ではございませんが、正しくもございません。
今日することが変わらないのは、変えないと決めていたからでございます。開ければ、変えるかどうかを、自分で決めなければなりません。三年のあいだ、わたくしは何も決めておりませんでした。決めることがございませんでしたので、決め方を知りません。
待合のほうで、寝返りを打つ音がいたしました。
この方は、五里を歩いてこられました。歩いてこられたことに理由はございません。便が止まったから来た、というのは理由ではございません。理由のないことをする方が、この駅の長椅子で膝を折って眠っておられます。
封を開けるのに、少し力が要りました。蝋が厚うございます。
次話「徴発の令状」では、開いた書状の中身が明らかになります。
同じ朝、ソレル様が令状を持って街道を上がってこられます。




