第21話 婚儀の前の夜のこと
木箱の中身は、二十三枚ございました。
権利証の写し。街道の掟の抜き書き。そして、細い字の手紙が二十一通。差出人は、いずれも王家式部でございます。宛名は、お祖母様のお名前でございました。
いちばん古いものは、十二年前。いちばん新しいものは、三年前の春でございます。
字は、二十三枚とも同じ手でございました。
細く、縦棒がまっすぐで、はねが小そうございます。式部の書記の字でございましょう。役所の字は、書き手が替わっても同じに見えるように習うのだそうでございます。
同じに見えるように習った字と、ユーゴー様の仰った細い字が、同じものかどうか。
わたくしは十二年ぶんを一枚ずつ、灯りに近づけて見比べました。十二年のあいだに、字は三度変わっております。書記が三人替わったのでございましょう。最後の一人の字が、いちばん細うございました。
その字を、わたくしは覚えることにいたしました。覚えておきませんと、次に見たときに気づきません。
三年前の春の分を、わたくしは読みました。
――貴殿の孫アニエス嬢の婚姻について。当該婚姻は、東の同盟に関する担保として設定されるものであり、同盟の成立をもって三年後に解消される。解消後の身分保全のため、灰の駅の権利を孫娘の名義に移すことを認める。なお、本件の性格は当事者双方に開示されない。開示は同盟の交渉に影響を及ぼす。式部
わたくしは紙を膝に置きました。
開示されない。
当事者双方に。
便は四日後の午に着きました。
「西街道王都便、ラウル・ベルクです。今日は峠まで行きます。雪が消えたんで」
「お気をつけて」
監督官殿が降りてこられました。
「駅逓監督官のアーレンスだ。馬を頼む」
「かしこまりました。半刻ほど、お待ちくださいませ」
馬を替えるあいだ、わたくしは卓に木箱を置きました。
「監督官殿。これをご覧いただけますか」
その方は箱の中の紙を一枚ずつ手に取り、三年前の春の分のところで止まられました。長いあいだ、動かれませんでした。
「……祖母君に、届いていたのか」
「届いておりました。わたくしには届いておりません」
「私にも届いていない」
「はい」
「私が知らされたのは、婚儀の前の夜だ。書面ではない。口頭だった」
監督官殿は長椅子に腰を下ろされました。傷のある側でございます。
「式部の使いが屋敷に来た。夜の十時を回っていた。話は三つだった。一つ、この婚姻は担保である。二つ、三年で解消される。三つ、当事者に開示してはならない」
「三つ目が、いちばん重うございますね」
「重い」
「なぜでございましょう」
「開示すれば、東の同盟が崩れる。同盟が崩れれば、国境の三つの村が最初に焼ける。峠の向こうの村だ」
わたくしは息を吸いました。
「……薬を運んでいる村でございます」
「そうだ」
「私は、その晩に決めた」
監督官殿は膝の上で手を組まれました。
「三年、何も渡さない。何も言わない。情が移れば、貴女は解消のときに壊れる。壊れないためには、最初から何も無ければいい」
「四つ、頂きました」
「四つは、数えていたのか」
「数えておりました」
「……そうか」
「一つ目は婚儀の日の『よろしく』。あれは何でございましたか」
監督官殿は目を伏せられました。
「言わずに済ませようとして、済まなかった」
「二つ目の『寒いな』は」
「廊下で貴女の手が赤かった。屋敷の西の廊下は、朝のうち日が入らない」
「三つ目の『妻だ』は」
「客が、貴女を家政の者だと思ったからだ」
「四つ目の『ご苦労だった』は」
「……三年ぶんを、一言で済ませようとした。最も卑怯なものだ」
わたくしは羽根を取り、それから置きました。
「監督官殿。一つ申し上げます」
「聞く」
「あなた様は、わたくしを壊さないために三年黙っておられました」
「そうだ」
「わたくしは、壊れてもよろしゅうございました」
監督官殿が顔を上げられました。
「三つの村が焼けるのでしたら、開示なさらなかったのは正しゅうございます。それはそのとおりでございます。けれど、開示しないことと、話しかけないことは、別のことでございます」
「別か」
「別でございます。天気の話も、廊下の話も、同盟には障りません。三年で四つでございました。四つのうち三つは、あなた様がおっしゃりたくてお出しになったものでございましょう。残りの一つが最後の日でございます」
「……そうだ」
「あなた様は、わたくしを巻き込まないようになさいました」
わたくしは自分の声が震えているのが分かりました。三年、震えたことがございません。震える必要がございませんでしたので。
「わたくしは、巻き込まれたかったのでございます」
言ってしまってから、わたくしは卓の縁を握りました。
三年のあいだ、この方に何かを求めたことがございません。求めなければ、断られることもございません。断られなければ、四つの言葉は四つのまま、きれいに数えていられます。
いま、わたくしは求めました。しかも、過去のことについて求めました。取り返しのつかないところに向かって手を伸ばすというのは、どうしようもなく格好の悪いことでございます。
窓の外で、鈴が一度鳴りました。
「監督官殿ー。あと十分ですよー」
ラウルの声は、いつもより小そうございました。
監督官殿は立ち上がられ、けれど戸口へは行かれませんでした。
「アニエス」
「はい」
「謝らない」
「はい」
「謝れば、貴女の三年が、謝られるだけのものになる」
「……はい」
「だから、毎週来る。三年ぶんは、百五十六週だ」
わたくしは頭を下げました。
「百五十六週、お待ちできません」
「できないか」
「わたくしのほうが、先に数えられなくなりますので」
馬車が峠へ向かって出ていきました。
厩から出てきたギュンターが、街道を見ておりました。
「駅長」
「風でございます」
「今日は風がない」
わたくしは待合に戻り、木箱の紙を順に戻しました。いちばん下に、一枚だけ残っておりました。権利証の写しの裏でございます。お祖母様の字で、こう書いてございました。
――孫が来る日のために、駅を空けておく。来なければ来ないでよい。来たときに、居場所があればよい。
その晩、石橋から使いが参りました。
ダルク様の所見に対する、局の裁定でございます。
――第三十一条に、受領より二週以内の期限を加える。改定は次期より施行。なお、灰の駅の廃止申し立ては、これを却下する。理由、灰の駅は権利証において王家式部の管掌下にあり、駅逓局の裁量で廃止し得ない。
王家式部の管掌下。
わたくしは帳面に挟んだ、二通の書状を出しました。
まだ、開けておりません。
次話「春を待つあいだ」では、雪解けで街道が緩み、便が一度止まります。
止まった週に、峠を歩いて越えてこられた方がございました。




