第16話 差し上げるものの話
鈴の音が、十週ぶりに峠の下の曲がりから聞こえました。
ギュンターが二頭を引き出し、轡を持って待合の前に立ちました。わたくしは戸を開け、卓に帳面と秤を置きました。置く場所は、十週前と同じでございます。
馬車が停まりました。
「西街道王都便、ラウル・ベルクです。灰の駅、継立再開おめでとうございます」
「ありがとう存じます。馬をお替えいたします。半刻ほど、お待ちくださいませ」
「半刻!」
ラウルは帽子を胸に当てて、大げさに天を仰ぎました。
「半刻ですよ、駅長さん。人間の時間です」
扉が開き、監督官殿が降りてこられました。
「駅逓監督官のアーレンスだ。馬を頼む」
「かしこまりました。半刻ほど、お待ちくださいませ」
郵袋は五つ。札と秤は合っておりました。
番を控えます。九番、二十四番、三番、十一番、そして——
「十七番」
声に出しておりました。
「どうした」
監督官殿が長椅子から仰いました。
「十七番が戻ってまいりました。前に控えましたときは十五斤でございます」
秤に載せました。
十九斤でございました。
「四斤、増えております。札と秤は合っておりますので、量り違いではございません。中身は便ごとに違いますのに、この番だけは一度も下がっておりません」
「三か月で四斤か」
「以前は一年で三斤でございました。速くなっております」
監督官殿は立ち上がり、卓の前まで来られました。袋の口の内側を返して、焼き印をご覧になります。
「この二か月、この袋を扱ったのは石橋だけだ」
「灰の駅は継いでおりませんでしたので」
「証拠にはならない。扱った駅は他にもある」
「ですから、控えております」
わたくしは帳面から、自分で線を引いた紙を出しました。日付、便、袋の番、札の重さ、秤の重さ。今日で十四行目でございます。
監督官殿は、その紙を長いあいだ見ておられました。
「……これは、いつから」
「三か月前でございます。番を書く欄がございませんでしたので、作りました」
「局の帳面には、この欄がない」
「ございません」
「なぜ作った」
「欄がございませんと、書き忘れが分かりませんので」
わたくしは紙を帳面に戻し、それから、もう一枚出しました。
三か月ぶんを、袋の番ごとに並べ直したものでございます。九番が四回、二十四番が四回、十七番が二回、三番と十一番が二回ずつ。
「便ごとに並べた表と、袋ごとに並べた表を、二つ作っております」
「二つ要るか」
「便ごとですと、その日に何が起きたかが分かります。袋ごとですと、その袋に何が起きているかが分かります。三斤の話は、袋に起きていることでございますので、便ごとの表では見えません」
監督官殿は二枚を並べて置かれました。
「局の帳面は、便ごとしかない」
「ございません」
「なぜ、局は袋ごとを作らない」
「袋は局の物だからでございましょう。自分の物が減ることは、疑いませんので」
半刻のうちの、十二分ほどが過ぎました。
監督官殿が長椅子に戻り、腰を下ろされました。
「駅長。文を読んだ」
わたくしは羽根を置きました。
「お尋ねしたことでございます」
「答える」
外でラウルが馬に水をやっております。ギュンターが脚を上げさせて、雪玉を落としております。
「私が差し上げたかったのは、板だ」
「……板、でございますか」
「屋根の板だ。あれが最初だった。その次が馬。その次が、局への照会。全部、駅の物だ」
「はい」
「三年、私は貴女に何も渡していない。渡すつもりもなかった。渡せば、貴女は受け取ってしまう。受け取ったものは、返さなければならなくなる」
「返す、と申しますのは」
「三年で終わる婚姻だ。終わるときに、返せないものを持っていてほしくなかった」
わたくしは膝の上で手を組みました。
「それで、四つでございましたか」
「四つ」
「よろしく、寒いな、妻だ、ご苦労だった。三年で、四つでございました」
監督官殿の顔から、はじめて表情が動きました。動いたと分かる程度のものでございますが、三年見ておりましたので分かります。
「……数えていたのか」
「数えておりました」
しばらく、鈴の音もいたしませんでした。
「アニエス」
「はい」
「今、私が渡せるものは、駅の物だけだ。それは規定にある。規定にあるものは、返さなくていい」
「はい」
「だから、毎週来る」
「毎週」
「便の監督は、週に一度だ。それ以上は来られない」
わたくしは帳面を開き、そして閉じました。
「監督官殿」
「なんだ」
「毎週来ることは、規定にございますか」
「監督官が路線を見て回るのは、規定にある」
「路線は、王都から辺境まで七つの駅がございます。七つを毎週回れば、一つの駅には七週に一度でございましょう」
「……そうだ」
「毎週この駅に来られますのは、規定ではございませんね」
監督官殿は、しばらく黙っておられました。
「規定ではない」
「では、お受けできません」
わたくしは自分の声を聞きました。三度目でございます。
「けれど」
「けれど」
「継立所は、客を選べません。来られた客は、お迎えいたします」
「監督官殿ー。あと四分ですよー」
ラウルの声がいたしました。監督官殿が立ち上がられます。帽子を取り、それから、こう仰いました。
「一つ、頼みがある」
「規定にございますか」
「ない」
「では、伺うだけ伺います」
「棚の束を、貴女が読みたくなったら読んでほしい。私が読んでくれと言うのではない。貴女が読みたくなったら、だ」
「……それは」
「頼みではないな。取り消す」
「取り消されますか」
「取り消す」
馬車が動き出しました。鈴の音が東へ下ってまいります。今日は王都へ戻る便でございます。
ギュンターが厩から出てきて、街道を見ておりました。
「駅長」
「風でございます」
「まだ何も言っとらん」
ラウルが待合の戸口に顔を出しました。
「駅長さん、水は井戸のでいいですか」
「井戸で結構でございます。ただ、今日は先に厩の桶へ半分入れて、少し置いてからお使いくださいませ」
「なんでです」
「井戸の水が冷とうございますので。走ってきた馬に冷たい水をやりますと、腹に来ます」
「ギュンターさんに同じこと言われました」
「では、そのとおりでございます」
ラウルは笑って、桶を提げていきました。
その晩、石橋から使いが参りました。紙が一枚。ユーゴー様の字でございます。
――灰の駅駅長殿。王都駅逓局へ、灰の駅の継立能力について再度の照会を出した。保有馬のうち一頭は村よりの借り受けであり、駅の資産ではない。資産でない馬を保有馬に数えるのは適当でない、と申し添えた。
わたくしは紙を卓に置きました。
規定第二十二条には、村の馬を継立に供させることができる、と書いてございます。供させた馬を保有馬に数えてよいとは、書いてございません。
書いていないところを突かれております。
次話「廃止の申し立て」では、ユーゴー様が灰の駅の廃止を局へ申し立てます。
こちらの手にあるのは、三か月ぶんの、欄のない紙だけでございます。




