第15話 開かずにおきます
定例監査の朝は、よく晴れました。
厩には馬が二頭おります。栗毛と、村からお借りした鹿毛でございます。契約書の原本を卓に置き、報告の写しを添えました。
前の晩に、支度を三度確かめました。契約書の原本。村のヴェルナー家の署名と、わたくしの署名。日付。馬の毛色と歳と、引き渡しの日に両方で脚を見た記録。
厩の藁を新しくいたしました。桶を洗い、水を替え、飼葉を量りました。二頭とも、朝のうちに一度坂を上らせて、脚を温めてございます。
「駅長。やりすぎだ」
「やりすぎでございましょうか」
「監査は馬を見る。厩は見ん」
「厩の様子で、馬の見え方が変わりますので」
ギュンターは藁を掻きながら、鼻から息を抜きました。
「屋敷でもそうしとったのか」
「屋敷では、監査に当たるものがございませんでした。ですから、毎日が同じでございました」
ダルク様は刻限どおりに参られました。
「保有馬の実見を行います。厩へ」
二頭を順に見て、歯を確かめ、脚を上げさせ、契約書と照らし合わせられました。
「村の馬は、契約期間が二月末まででございますね」
「はい」
「三月以降は」
「三月に栗毛が子を産みます。子は二年使えませんので、その間は村と契約を延長するか、買い足すかでございます」
「見通しは」
「ございません」
ダルク様は帳面に書き込まれました。
「保有馬二頭。継立能力あり。代行の必要を認めず。以上でございます」
「……解けますか」
「解けます。次の便から、王都便は灰の駅で継ぎます」
わたくしは頭を下げました。下げたまま、しばらく上げられませんでした。
ダルク様は待合に戻り、長椅子に腰かけられました。
「駅長。一つ、報告のほかに申し上げます」
「はい」
「先月、石橋駅の帳場で、灰色の封蝋を見ました」
わたくしは顔を上げました。
「灰色は、この駅の色でございます」
「存じております。ですから、なぜ石橋にあるのかと伺いました」
「何と仰いましたか」
「予備だと」
ダルク様は手袋の指を組まれました。
「継立所の封蝋は、駅ごとに色が決まっております。予備を他所の駅が持つ規定はございません。ただ、持っていること自体を禁じる条文もございません」
「ございませんか」
「ございません。ですから、わたくしは所見を書けません」
「では、なぜ仰るのでございますか」
ダルク様は、しばらく答えられませんでした。
「……規定に書けないことを、知っている者がどこかにいなければ、規定は穴のまま残りますので」
その日の午に、王都から書状が届きました。
馬に乗った使いが直接持ってまいります。封蝋は青。印は駅逓局のものではございません。王家式部でございました。
わたくしは待合の卓で受け取り、署名をいたしました。使いは水も飲まずに戻っていきました。
封の表に、こうございます。
――アーレンス公爵家 元夫人 アニエス様
元夫人。
三年のあいだ「奥様」、この三か月「駅長」と呼ばれてまいりました。三つ目の呼び名でございます。
ティナが土間から顔を出しました。
「駅長さん。読まないの?」
「読みます」
「読まないでしょ、それ」
「……なぜ、そう思いますか」
「持ち方」
ティナは自分の胸の前で、両手で紙を持つ真似をいたしました。
「読む人は片手で持つよ」
わたくしは書状を卓に置きました。
式部から元夫人へ届く書状というのは、決まっております。婚姻に関わるものでございます。三年で終いになった担保婚の後始末か、あるいは、次の縁組みの申し入れか。
どちらであっても、開けば、答えなければなりません。
わたくしは帳面を開きました。
今日の欄には、監査の結果と、代行解除の日付を書いてございます。その下に、少し余白がございます。わたくしは書状を、その余白のところに挟みました。
「駅長さん、それ」
「開かずにおきます」
「読まないと分かんないよ」
「分かっております」
「え?」
「開かなくても、中身は二つのうちのどちらかでございます。どちらであっても、わたくしが今日することは変わりません。今日は、代行が解けた日でございますので、明日の便の支度をいたします」
ティナは首を傾げました。
「よく分かんない」
「わたくしにも、よく分かりません」
「駅長さん。あたし、婆さまの手紙を書くときに、いつも思うんだけどさ」
「はい」
「返事が来ないほうが、待ってるあいだは楽しいよ。来ちゃうと、三行で終わるから」
「……そうかもしれません」
「でも婆さまは、来たほうがいいって言う」
「婆さまが正しゅうございます」
「じゃあ開けたら」
わたくしは帳面を閉じました。
「開けます。いずれ。今日ではございません」
その日の午後、路線板を直しました。
石橋の板ではございません。灰の駅の待合に掛かっている板でございます。彫り直した跡の上に、もう一度、駅の名を彫りました。
彫るのははじめてでございます。錐で線を入れ、鑿で削り、粉を払います。字が曲がりました。
「駅長。下手だ」
「下手でございます」
「先代のはもっと下手だった」
わたくしは手を止めました。
「お祖母様がお彫りになったのですか」
「彫った。前の板が割れたときにな」
「では、この彫り直しの跡も」
「先代だ」
「一度、消しておられたのですね」
ギュンターは板を見上げました。
「消したんじゃない。書き直した。字が気に入らんと言ってな。三度やった」
夕方、厩でギュンターに申しました。
「明日から、便が参ります」
「聞いた」
「半刻でございます」
「半刻だ」
「ギュンター。灰の駅の停車は、四半刻に縮めなくてよろしゅうございますね」
ギュンターは轡を掛け直しました。
「縮めたいのか」
「縮めたくございません」
「なら縮めん」
その晩、棚の前に立ちました。
束が四つ。差出人のない一通。木箱。書面の写し。文が二通。そして、帳面に挟んだ書状が一つ。
わたくしは羽根を取り、紙を出しました。
――監督官殿。代行が解けました。明日より灰の駅にて継立を再開いたします。停車は半刻でございます。
書いて、そこで止まりました。
三年のあいだ、わたくしは何も差し上げたことがございません。差し上げるという発想がございませんでした。けれど、この三か月のあいだに、この方はわたくしに何かを差し上げようとして、三度断られております。板と、貸馬と、それから、たぶん、百五十二通でございます。
わたくしは続きを書きました。
――一つだけ、お尋ねしてもよろしゅうございますか。あなた様は、わたくしに何を差し上げたかったのでございましょう。灰の駅 アニエス
封をいたしました。
灰色の蝋でございます。棒は一本足りませんが、こちらの分はまだございます。
次話「差し上げるものの話」では、十週ぶりの半刻がまいります。
監督官殿の答えは、一行でございました。




