第13話 ギュンターの手
雪は三日降り続きました。
石橋までの道は、二里が三里ほどに感じられます。ティナと二人で村の手紙を運びまして、帰りに石橋から灰の駅宛の分を持って戻ります。ユーゴー様は何も仰いません。ただ、帳場から見ておられます。
石橋へ通いはじめて三週目に、道の途中で村の方に会うようになりました。
最初は、荷を持って歩いているところを見られただけでございます。二週目に、峠側の家の方が「駅長さん、うちの分も」と申されました。三週目には、道の途中の石の上に、束ねた手紙が置いてございました。置いた方の名は書いてございません。
わたくしは石の横に、板を一枚立てました。「灰の駅 手紙預かり」と書いて、下に麻の袋を吊るしました。次の週、袋の中に十一通ございました。
「駅長さん、あれ盗まれない?」
ティナが申しました。
「盗まれましたら、やめます」
「やめるの?」
「やめます。けれど、たぶん盗まれません」
「なんで」
「盗んで、得をする方がおられませんので」
四日目の夜半に、厩から音がいたしました。
わたくしが灯りを持って参りますと、フリーダが横になっておりました。
馬というものは、めったに横になりません。立ったまま眠るものだそうでございます。横になっているというのは、立っていられないということでございます。
「ギュンター」
呼ぶより先に、ギュンターが厩に入ってまいりました。寝間着のまま、外套も羽織っておりません。馬の前に膝をつき、両手を擦り合わせます。擦って、温めて、それから首の付け根に手を当てました。
「駅長」
「はい」
「湯を持ってこい。それと、布を全部」
わたくしは走りました。
戻りますと、ギュンターは馬の腹に耳を当てておりました。
「腹だ。冷えた」
「どういたしましょう」
「温める。朝までだ」
布を湯に浸し、絞って、腹に当てます。冷えたら替えます。それを繰り返しました。ティナが村から更に布を持ってきてくれまして、三人で交代いたしました。
夜中の二時頃だったと存じます。
ギュンターが、馬に話しかけはじめました。
「フリーダ。おまえは腹が弱い。子のころからだ。先代がな、おまえを買ったときに、腹の弱い馬は長生きするって言った。腹が弱いと無理をせんからな。無理をせん馬は脚が残る」
わたくしは布を絞る手を止めました。
「あの春もな、雪が遅かった。おまえは厩から出たがらんかった。おれが出せと言っても出んかった。あのときおまえが出とったら、若様の馬と鉢合わせとった」
「……ギュンター」
「駅長。布」
「はい」
布を渡しますと、ギュンターは受け取って、また続けました。
「若様はな、五つのころから馬に乗った。父上が乗せた。落ちても泣かん子だった。泣かんかったから、周りは平気だと思った。おれは違うと思っとった。落ちた日の晩に、厩に来るからな。馬の首に顔をつけて、朝までおる。だから泣いとらんわけがない」
湯の音だけがいたしました。
「父上が亡くなって、若様は公爵になった。十九だ。おれは屋敷を出た。出ろと言われたわけじゃない。おれが出た」
「なぜでございますか」
ギュンターは布を替え、しばらく黙っておりました。
「馬丁が屋敷におると、あの子は厩に来る。来ると、公爵の仕事が遅れる」
わたくしは膝の上で手を組みました。
「……それは」
「よけいなことをした、と思っとる」
「思っておられますか」
「思っとる」
ギュンターの手が、馬の腹をゆっくり撫でました。
「駅長。おれは口が下手だ。だから、いつも先に離れる。離れるのがいちばん邪魔にならんと思っとる。だが馬にはそれをせん。馬は離れたら死ぬからな」
布を替える間隔は、四半刻でございました。
冷えた布を腹に当てておきますと、温めるどころか奪います。ですから熱いうちに替えます。三人おりましたので、一人が絞り、一人が当て、一人が湯を沸かします。順に回しました。
三時間ほど経ちましたころ、ティナが眠ってしまいました。土間の隅で、布を抱えたままでございます。
わたくしとギュンターの二人になりました。二人になりますと、間隔が四半刻では回りません。半刻に一度になります。半刻に一度では足りないと分かっておりましたが、足りないなりに続けるしかございません。
夜が明ける前に、フリーダが立ちました。
脚が震えておりましたが、自分で立ちました。ギュンターが飼葉を一掴み差し出しますと、鼻先で押し返して、それから少しだけ食べました。
「峠を越えとる」
「……越えましたか」
「越えた」
わたくしは厩の柱にもたれて、そのまま座り込んでしまいました。手が動きません。三時間ほど布を絞り続けておりましたので、指が曲がったままでございます。
ギュンターがわたくしの前にしゃがみました。両手を擦り合わせております。擦って、温めて、それからわたくしの手に触れました。
「開け」
指を一本ずつ、伸ばしてくださいました。
「駅長。腹の弱い馬は長生きする」
「はい」
「人もそうだ」
「……そうでございましょうか」
「無理をせん者は、脚が残る」
わたくしは俯きました。
三年のあいだ、わたくしは無理をしておりませんでした。ただ黙って、帳面をつけて、四つの言葉を数えておりました。それは無理をしていないのではなく、何もしていなかったのだと、ずっと思っておりました。
「ギュンター」
「なんだ」
「わたくしの三年は、脚が残っておりましたでしょうか」
ギュンターは立ち上がり、厩の戸を開けました。
外は晴れておりました。雪の上に朝の日が当たって、目を開けていられないほど白うございます。
「今、歩いとるだろう」
厩を出ますと、ティナが土間で湯を沸かしておりました。
「駅長さん、手が真っ赤」
「布を絞っておりましたので」
「フリーダ、生きた?」
「生きました」
ティナは椀を三つ並べ、それから一つ増やしました。
「四つ目は誰のでございますか」
「フリーダの。飲まないけど、置くの」
わたくしはその椀を見ておりました。飲まない者の分を置くというのは、村の作法なのでございましょう。三年のあいだ、屋敷の卓には常に二人分が並んでおりました。片方は、ほとんど手がつきませんでした。
その日の午に、石橋から使いが参りました。
――王都駅逓局定例監査、年明け一月第二週。灰の駅は保有馬数の報告を提出のこと。
村の鹿毛の契約書は、もう作ってございます。わたくしは報告の紙に、二頭と書きました。
書いてから、棚を見ました。束が四つ。差出人のない一通。木箱。書面の写し。届いた文。
届いた文の隣に、まだ何も置いてございません。
王都便は毎週この街道を通っております。通って、二里手前の石橋で馬を替えて、また戻ってまいります。灰の駅の前を、素通りしてまいります。
代行が解けるのは、年明けの定例監査のあとでございます。
あと、六週でございました。
次話「半刻が四半刻になりました」では、年明けの定例監査を前に、石橋駅が時刻表を書き換えます。
書き換えられた表を最初に見つけるのは、御者のラウルでございます。




