第11話 石橋の旦那
七日目の午に、鈴の音がいたしませんでした。
わたくしは待合の戸を開けて、卓に帳面と秤を置き、それから四半刻ほど街道を見ておりました。峠の下の曲がりに、馬車は現れません。
半刻が過ぎました。
「駅長」
ギュンターが厩から出てまいりました。
「石橋で継いだ」
「……そうでございますか」
「村の者が見てきた。石橋の厩に、王都便の馬が入っとる」
わたくしは秤を持ち上げ、卓の下へ戻しました。持ち上げてから、戻す場所を少し迷いました。半刻のあいだ、この秤は卓の上にあるものでございましたので、下に置くと居場所が違って見えます。
「手続きは、どのようになっておりますか」
「知らん」
「では、伺ってまいります」
石橋駅は、灰の駅より一回り大きうございました。
厩が二棟、待合も広く、壁には路線の板が掛かっております。番と重さが、灰の駅の板と同じ書き方で並んでおりました。
ユーゴー様は帳場におられました。
「おや、奥様。よくいらした」
「駅長のアニエスでございます」
「そうかい」
「王都便の継立を、こちらへ移す手続きを取られたと伺いました。書面を拝見できますか」
ユーゴー様は引き出しから紙を一枚出し、卓に滑らせました。
――冬季における継立所の統合について。灰の駅は保有馬一頭のため継立能力を欠く。当面のあいだ、王都便の継立を石橋駅にて代行する。王都駅逓局。
判が押してございます。
「本物だよ」
「拝見しております」
「文句があるなら局へ言いな。おれは代行を頼まれただけだ」
「代行の期間は、書いてございませんね」
「当面だ」
「当面と申しますのは、灰の駅の馬が二頭に戻るまででございましょうか」
ユーゴー様が笑いました。
「馬はどうやって増やすんだい。買うのか。冬に馬を売る奴はいねえよ」
「春には子が生まれます」
「生まれた子は二年使えねえ」
そのとおりでございます。わたくしは書面を返し、頭を下げました。
「ありがとう存じます」
「なあ、奥様」
ユーゴー様は帳場から出てまいりました。背が高く、肩幅がございます。近くに立たれますと、待合の光が半分ほど遮られました。
「三年、屋敷で何をしてたんだい」
「帳面をつけておりました」
「そりゃ結構だ。だが街道は帳面じゃ回らねえ。馬と、人と、金だ。あんたは馬を出しちまった。人はじじいが一人。金は預かり賃が止まってる」
「止まっておりますか」
「継いでねえ駅に預かり賃は出ねえ」
わたくしは壁の路線板を見上げました。
西街道の継立所が、東から順に並んでおります。宿場、石橋駅、そして峠。
灰の駅の行が、削ってございました。木炭ではなく、彫って書く板でございますので、削れば白い木肌が出ます。削り跡はまだ新しく、粉が桟に残っておりました。
「板を直されたのは、いつでございますか」
「昨日だ」
「昨日は、代行のご通知が出た日でございますね」
「そうだな」
「代行と申しますのは、当面のあいだ代わって行うことでございます。行を削るのは、代わることではなく、無くすことでございます」
ユーゴー様は板を見て、それから鼻で笑いました。
「彫り直すのは金がかかるんだよ。戻すときにまた彫ればいい」
「戻して頂けますか」
「戻すようなことになったらな」
石橋の厩を、帰りぎわに覗きました。
馬が六頭おりました。うち二頭が、灰の駅へ来るはずだった王都便の馬でございます。轡の金具に局の刻印がございますので、駅の馬か便の馬かは見れば分かります。
厩は広うございますが、床の藁が薄うございました。藁が薄いと、脚が冷えます。冷えれば腹に来ると、ギュンターが申しておりました。
馬丁が一人、桶を運んでおります。若い方でございました。
「藁を足されませんか」
「足すと、掃除が増えるんで」
「掃除は、日に何度でございますか」
「一度です」
「二度になさいますと、藁は薄くて済みますが、二度の手間がかかります。厚くいたしますと、掃除は一度で済みますが、藁を多く使います」
馬丁の方は桶を置いて、わたくしを見ました。
「あんた、誰です」
「灰の駅の駅長でございます」
「……ああ」
その方は、それきり何も仰いませんでした。
帰り道は、上り坂でございました。
二里を歩きますと、日が傾いてまいります。灰の駅の屋根が見えてまいりまして、南の斜面の新しい板だけが、まだ白うございました。
厩に入りますと、フリーダが飼葉桶に鼻先をつけたまま、こちらを見ました。
「フリーダ」
馬は答えません。当たり前でございます。
「今週は、いらっしゃいませんでした」
言ってから、自分の言ったことに気づきました。
便が来ないというのは、預かり賃が入らないということでございます。村の手紙が滞るということでございます。峠の向こうの村と、こちら側が、四か月のあいだ切れるということでございます。
それを全部差し置いて、わたくしの口から出たのは、いらっしゃいませんでした、でございました。
わたくしは飼葉を一掴み、桶に足しました。
その晩、ティナが参りました。
「駅長さん。手紙、どうなるの」
「石橋へお持ちいただくことになります」
「二里だよ」
「二里でございます」
「婆さま、歩けないよ」
わたくしは羽根を置きました。
「ティナ。書き損じの紙は、まだございますか」
「あるよ」
「では、村の方の手紙を、これまでどおり駅でお預かりいたします。週に一度、わたくしが石橋まで持ってまいります」
「駅長さんが歩くの?」
「歩きます」
「二里だよ」
「二里でございます」
ティナは何か言いかけて、やめました。それから土間の隅に座り、紙を広げました。
寝る前に、棚の前へ参りました。
束が四つ。差出人のない一通。木箱。
その隣に、今日の書面の写しを置きました。写しは自分で作ったものでございます。ユーゴー様の書面を、待合で立ったまま暗記して、帰り道の途中で書き留めました。三年のあいだ、読んだ数字を覚えて帰る癖がついておりましたので、それだけは早うございます。
書面には、当面、と書いてございました。
期限のないものを終わらせるには、条件を作るしかございません。馬が二頭に戻ればよいのでございます。
馬は買えません。生まれた子は使えません。けれど、継立所の馬というのは、駅が飼っているものだけとは限りません。
わたくしは帳面を開き、規定の写しの束から、馬の項を探しました。
第二十二条。継立所は、近隣の村と契約し、農閑期に限り村の馬を継立に供させることができる。
冬でございます。
農閑期でございます。
次話「会えない週の数え方」では、アニエスが村を一軒ずつ回って、馬を貸してくださる方を探します。
三軒目で、王都から来た文を見せられます。宛名はアニエス様、差出人はアーレンス公爵家でございました。




