第10話 最終便でございます
当て布を剥がすのに、二時間かかりました。
糸が二重に返してございますので、鋏が入りません。ティナが村から錐を借りてきてくれまして、目を一つずつ起こしていきました。四つで十一斤。秤の針が、そのぶんだけ戻りました。
飼葉袋を積み替えて四斤。塩の俵を替えて六斤。
合わせて二十一斤。
残りは、三頭目の馬でございます。
「ギュンター。どの馬を出しますか」
「フリーダは出せん」
厩のいちばん奥に、あの年寄りの馬がおります。飼葉桶に鼻先をつけたまま、ほとんど動きません。
「では、栗毛と鹿毛を」
「二頭出したら、来週の王都便で替える馬がなくなる」
「王都便は、冬のあいだは灰の駅止まりでございます。折り返しの馬が一頭あれば」
「一頭では継立所と言わん。局がそう決めとる」
「……存じております」
わたくしは厩の柱に手を置きました。
継立所の仕事は、馬を替えることでございます。替える馬がなければ、便は峠を越えられません。峠が閉じているあいだ便は来ませんので、困りはいたしません。困りませんが、それは駅が四か月のあいだ、何もしない場所になるということでございます。
「出します」
「駅長」
「出します。今日の便が越えられなければ、峠の向こうは春まで薬がございません」
ギュンターは轡を取りに行きました。
三頭立ての支度をしているあいだ、ラウルが荷を積み直しておりました。
「駅長さん。これ、ほんとに九百五十斤で通るんですか」
「規定第十四条でございます」
「いや、規定じゃなくて。峠、登れます?」
わたくしは手を止めました。
「……登れないと、お思いですか」
「三頭立ては初めてなんですよ、俺。二頭のつもりで手綱握ると、真ん中の馬が遅れます。遅れたまま坂に入ると、外の二頭が先に疲れる」
「では、どういたしますか」
「真ん中を、いちばん素直なやつにしてください」
ギュンターが厩から顔を出しました。
「鹿毛だ」
「鹿毛でお願いします」
轡をつけながら、ギュンターが待合のほうを見ました。
「駅長。あの長椅子の傷な」
「はい」
「三年前だ」
わたくしは轡の革を握ったまま、動けなくなりました。
「三年前の、いつでございますか」
「春先だ。夜明けに馬が一頭来た。若様だった」
「……あの方が」
「駅の前で降りて、待合に座って、動かんかった。剣を吊ったまま座ったから、鐺が背もたれに当たっとった」
「何をしにいらしたのでしょう」
「知らん。おれは湯を出した。飲まんかった」
「何か仰いましたか」
ギュンターは轡を締め、留め金を確かめました。
「一つだけ言った。『この駅は、誰が継ぐ』」
風が厩を通りました。
「おれは答えた。先代の孫娘だと聞いとる、と」
「……それで」
「それで、帰った。日が昇る前に」
わたくしは轡から手を離しました。
三年前の春先。婚儀は、その年の春の終わりでございました。書斎の灯りが朝までついていた晩。その翌朝、この方は馬を出して、ここまで来て、そして何もせずに帰られたのでございます。
「ギュンター」
「馬は待たん」
「はい」
わたくしは轡を持ち直しました。
塩の俵を替えますのに、半日かかりました。
村から借りた麻の袋に移し替えます。俵は藁で編んでございますので、藁のぶんだけ重うございます。移し替えれば六斤浮きますが、麻の袋は水に弱うございますから、峠で雪が降れば塩が湿ります。
「油紙を巻きます」
「油紙は駅にあるか」
「三枚ございます。足りない分は、待合の窓に張ってあるものを外します」
「窓が寒くなる」
「春まででございます」
ギュンターは何も言わずに、窓の油紙を剥がしにいきました。剥がしますと、待合の光が変わりました。油紙を通した光は白く濁っておりましたが、外した窓からは、街道と峠がそのまま見えます。
三年、布の掛かった窓の内側におりました。
わたくしは塩を包みながら、何度か顔を上げて、峠を見ました。
便が出るのは午の四半刻前でございます。
ダルク様が最後の計量をなさいました。針は九百四十八斤を指しました。
「九百五十斤の上限に対し、九百四十八斤。適合でございます」
「ありがとう存じます」
「礼を言われることではございません。数えたのはあなたでございます」
ダルク様は帳面に判を押し、それから、こう仰いました。
「駅長。あなたは今日、規定を一つも破っておりません」
「破っておりません」
「それが、いちばん腹立たしゅうございます」
「……申し訳ございません」
「褒めております」
ラウルが御者台に上がりました。三頭の馬が前を向きます。真ん中が鹿毛でございます。
「行きます。峠越えたら、向こうの局から受取が来ますんで」
「お気をつけて」
鈴が鳴りました。
馬車は街道を西へ、ゆっくりと上がってまいります。轍が雪に二本、まっすぐに残りました。曲がりのところで一度、鹿毛が首を振りましたが、そのまま登っていきました。
見えなくなるまで、四半刻ほどかかりました。
わたくしは待合の前に立ったまま、峠のほうを見ておりました。
薬は、三つの村へ着きます。着いてしまえば、わたくしのすることはございません。着いたかどうかは、辺境局からの受取が戻ってくる二週間後に分かります。
二週間、分からないままでございます。
三年のあいだ、わたくしは結果の分からないことを、ほとんどしておりませんでした。家政帳は、書けばその場で終わりでございます。誰かの手に渡って、どこかで何かになる、ということがございません。
分からないまま待つというのは、思っていたより落ち着かないものでございました。
待合に戻りますと、卓の上に紙が一枚置いてございました。
ダルク様の字でございます。定規で引いたように真っ直ぐな字でございました。
――王都駅逓局へ、郵袋の当て布に関する所見を提出いたします。増設の疑いのある番号は十七番と三十一番。両袋を最後に扱った駅は、いずれも石橋駅でございます。監査 ベアトリス・ダルク
石橋駅。
わたくしは帳面の路線図を開きました。灰の駅から東へ二里、宿場の手前にございます。この街道で、灰の駅の次に大きな継立所でございました。
戸を叩く音がいたしました。
開けますと、見たことのない男が立っておりました。外套の肩に雪が積もっております。年は四十を越えたあたり、頬に赤みがあり、目だけが笑っておりません。
「灰の駅の駅長さんかい」
「アニエスと申します」
「石橋駅のユーゴー・メルシエだ」
男は帽子を取りませんでした。
「今日、三頭立てを出したそうだな」
「出しました」
「馬は何頭残った」
「一頭でございます」
「そりゃ困ったな」
ユーゴー様は待合のなかを見回し、それから笑いました。今度は目も笑っておりました。
「馬が一頭の駅は、継立所とは言わねえ。次の便から、王都便は石橋で継ぐことになる。手続きはこっちでやっといてやるよ、奥様」
次話「石橋の旦那」では、王都便が灰の駅を素通りして石橋駅へ回されます。
週に一度の半刻が、来週から無くなります。




