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三年、ひとことも交わさなかった旦那様が、週に一度だけわたくしの駅に馬を替えに来ます 〜白い結婚は明けました。次の便は七日後でございます〜  作者: 森川つばめ


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10/30

第10話 最終便でございます

 当て布を剥がすのに、二時間かかりました。


 糸が二重に返してございますので、鋏が入りません。ティナが村から錐を借りてきてくれまして、目を一つずつ起こしていきました。四つで十一斤。秤の針が、そのぶんだけ戻りました。


 飼葉袋を積み替えて四斤。塩の俵を替えて六斤。


 合わせて二十一斤。


 残りは、三頭目の馬でございます。


 「ギュンター。どの馬を出しますか」


 「フリーダは出せん」


 厩のいちばん奥に、あの年寄りの馬がおります。飼葉桶に鼻先をつけたまま、ほとんど動きません。


 「では、栗毛と鹿毛を」


 「二頭出したら、来週の王都便で替える馬がなくなる」


 「王都便は、冬のあいだは灰の駅止まりでございます。折り返しの馬が一頭あれば」


 「一頭では継立所と言わん。局がそう決めとる」


 「……存じております」


 わたくしは厩の柱に手を置きました。


 継立所の仕事は、馬を替えることでございます。替える馬がなければ、便は峠を越えられません。峠が閉じているあいだ便は来ませんので、困りはいたしません。困りませんが、それは駅が四か月のあいだ、何もしない場所になるということでございます。


 「出します」


 「駅長」


 「出します。今日の便が越えられなければ、峠の向こうは春まで薬がございません」


 ギュンターは轡を取りに行きました。


    


 三頭立ての支度をしているあいだ、ラウルが荷を積み直しておりました。


 「駅長さん。これ、ほんとに九百五十斤で通るんですか」


 「規定第十四条でございます」


 「いや、規定じゃなくて。峠、登れます?」


 わたくしは手を止めました。


 「……登れないと、お思いですか」


 「三頭立ては初めてなんですよ、俺。二頭のつもりで手綱握ると、真ん中の馬が遅れます。遅れたまま坂に入ると、外の二頭が先に疲れる」


 「では、どういたしますか」


 「真ん中を、いちばん素直なやつにしてください」


 ギュンターが厩から顔を出しました。


 「鹿毛だ」


 「鹿毛でお願いします」


    


 轡をつけながら、ギュンターが待合のほうを見ました。


 「駅長。あの長椅子の傷な」


 「はい」


 「三年前だ」


 わたくしは轡の革を握ったまま、動けなくなりました。


 「三年前の、いつでございますか」


 「春先だ。夜明けに馬が一頭来た。若様だった」


 「……あの方が」


 「駅の前で降りて、待合に座って、動かんかった。剣を吊ったまま座ったから、鐺が背もたれに当たっとった」


 「何をしにいらしたのでしょう」


 「知らん。おれは湯を出した。飲まんかった」


 「何か仰いましたか」


 ギュンターは轡を締め、留め金を確かめました。


 「一つだけ言った。『この駅は、誰が継ぐ』」


 風が厩を通りました。


 「おれは答えた。先代の孫娘だと聞いとる、と」


 「……それで」


 「それで、帰った。日が昇る前に」


 わたくしは轡から手を離しました。


 三年前の春先。婚儀は、その年の春の終わりでございました。書斎の灯りが朝までついていた晩。その翌朝、この方は馬を出して、ここまで来て、そして何もせずに帰られたのでございます。


 「ギュンター」


 「馬は待たん」


 「はい」


 わたくしは轡を持ち直しました。


    


 塩の俵を替えますのに、半日かかりました。


 村から借りた麻の袋に移し替えます。俵は藁で編んでございますので、藁のぶんだけ重うございます。移し替えれば六斤浮きますが、麻の袋は水に弱うございますから、峠で雪が降れば塩が湿ります。


 「油紙を巻きます」


 「油紙は駅にあるか」


 「三枚ございます。足りない分は、待合の窓に張ってあるものを外します」


 「窓が寒くなる」


 「春まででございます」


 ギュンターは何も言わずに、窓の油紙を剥がしにいきました。剥がしますと、待合の光が変わりました。油紙を通した光は白く濁っておりましたが、外した窓からは、街道と峠がそのまま見えます。


 三年、布の掛かった窓の内側におりました。


 わたくしは塩を包みながら、何度か顔を上げて、峠を見ました。


 便が出るのは午の四半刻前でございます。


 ダルク様が最後の計量をなさいました。針は九百四十八斤を指しました。


 「九百五十斤の上限に対し、九百四十八斤。適合でございます」


 「ありがとう存じます」


 「礼を言われることではございません。数えたのはあなたでございます」


 ダルク様は帳面に判を押し、それから、こう仰いました。


 「駅長。あなたは今日、規定を一つも破っておりません」


 「破っておりません」


 「それが、いちばん腹立たしゅうございます」


 「……申し訳ございません」


 「褒めております」


 ラウルが御者台に上がりました。三頭の馬が前を向きます。真ん中が鹿毛でございます。


 「行きます。峠越えたら、向こうの局から受取が来ますんで」


 「お気をつけて」


 鈴が鳴りました。


 馬車は街道を西へ、ゆっくりと上がってまいります。轍が雪に二本、まっすぐに残りました。曲がりのところで一度、鹿毛が首を振りましたが、そのまま登っていきました。


 見えなくなるまで、四半刻ほどかかりました。


 わたくしは待合の前に立ったまま、峠のほうを見ておりました。


 薬は、三つの村へ着きます。着いてしまえば、わたくしのすることはございません。着いたかどうかは、辺境局からの受取が戻ってくる二週間後に分かります。


 二週間、分からないままでございます。


 三年のあいだ、わたくしは結果の分からないことを、ほとんどしておりませんでした。家政帳は、書けばその場で終わりでございます。誰かの手に渡って、どこかで何かになる、ということがございません。


 分からないまま待つというのは、思っていたより落ち着かないものでございました。


    


 待合に戻りますと、卓の上に紙が一枚置いてございました。


 ダルク様の字でございます。定規で引いたように真っ直ぐな字でございました。


 ――王都駅逓局へ、郵袋の当て布に関する所見を提出いたします。増設の疑いのある番号は十七番と三十一番。両袋を最後に扱った駅は、いずれも石橋駅でございます。監査 ベアトリス・ダルク


 石橋駅。


 わたくしは帳面の路線図を開きました。灰の駅から東へ二里、宿場の手前にございます。この街道で、灰の駅の次に大きな継立所でございました。


 戸を叩く音がいたしました。


 開けますと、見たことのない男が立っておりました。外套の肩に雪が積もっております。年は四十を越えたあたり、頬に赤みがあり、目だけが笑っておりません。


 「灰の駅の駅長さんかい」


 「アニエスと申します」


 「石橋駅のユーゴー・メルシエだ」


 男は帽子を取りませんでした。


 「今日、三頭立てを出したそうだな」


 「出しました」


 「馬は何頭残った」


 「一頭でございます」


 「そりゃ困ったな」


 ユーゴー様は待合のなかを見回し、それから笑いました。今度は目も笑っておりました。


 「馬が一頭の駅は、継立所とは言わねえ。次の便から、王都便は石橋で継ぐことになる。手続きはこっちでやっといてやるよ、奥様」

 次話「石橋の旦那」では、王都便が灰の駅を素通りして石橋駅へ回されます。


 週に一度の半刻が、来週から無くなります。

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