第九話 「覚えていたはずのこと」
三週間のあいだに、わたくしは二度、外した。
一度目は小さなことだった。
一度目の記憶では、初夏に食堂の井戸が涸れて、水汲みが一週間、丘の下まで行くことになった。わたくしは前もって水を溜めるよう厨房に言いに行った。厨房長は不審な顔をしたが、樽を三つ余分に満たしてくれた。
井戸は涸れなかった。
樽の水は三日で腐り、厨房長に嫌な顔をされた。それだけのことだ。それだけのことなのに、その晩わたくしはよく眠れなかった。
二度目は、もう少し大きかった。
一度目の記憶では、この時期に上級生の一人が落馬して、実技が三日止まった。わたくしはその生徒の名前を覚えていた。だから馬場で見かけたとき、思わず声をかけた。
「あの、鞍の腹帯を、もう一度お確かめになったほうが」
「は?」
上級生は当然、怪訝な顔をした。
「余計なことを申しました。失礼いたします」
その日、彼は落馬しなかった。落馬したのは、別の生徒だった。
名前も顔も知らない一年生が、馬場の反対側で振り落とされた。腕を折った。三日、実技が止まった。
わたくしは自分の部屋で、ずっと壁を見ていた。
「レティシア様」
ミレイユが寝台の縁に腰かけた。何も訊かずに、しばらく座っていた。
「……ミレイユ。人は、知っているのに助けられないことがあると思いますか」
「ありますよ」
即答だった。
「知ってても、順番が来ないと動けないので」
「順番」
「はい。わたし、村で水が出なくなるのを知ってました。井戸の音が変わるので。でも、言っても誰も掘り直してくれませんでした。掘り直したのは、出なくなってからです」
彼女は膝の上で手を組んだ。
「知ってるだけじゃ、駄目なんですよね。知ってて、聞いてもらえて、動く人がいて、はじめて間に合うので」
わたくしは、しばらく声が出なかった。
知っているだけでは足りない。
四年間、わたくしはずっとそれをやってきたつもりだった。記録を残し、規程を読み、先に紙を置いた。全部、聞いてもらうための準備だ。
それでも、間に合わないものはある。
「ミレイユ。あなたは賢い方ね」
「賢くないです。字が読めないので」
あっさりと、彼女は言った。
部屋の空気が止まった。ミレイユは自分の言ったことに気づいて、口を押さえた。押さえてから、諦めたように手を下ろした。
「……はい。読めません」
「入学の書類は」
「村の司祭様に書いてもらいました。試験は口頭と実技だけだったので、通りました」
通ってしまった、という言い方だった。
「ずっと隠していらしたの」
「隠すというか、言う機会がなかっただけです。訊かれたら言います」
誰も訊かなかったのだ。四年、ではなく、この数週間、誰も。
「地形図を裏返すのは」
「絵として覚えるためです。文字が入ってると、そっちに目が行くので。裏を見てから表を見ると、線だけが残るんです」
わたくしは地形図を思い出した。川が一本、丘が三つ、水場が二箇所。片方に「涸」と小さく書いてあった。
あの字を、ミレイユは読んでいない。
「ミレイユ。演習の行程表に、水場が二箇所ございました。片方は涸れています」
「知ってます」
「え」
「行程表の線が、涸れてるほうへ引いてあるので。だから変だなと思ってました」
わたくしは彼女を見た。
「なぜ涸れているとお分かりに」
「地形です。あの丘の形だと、南側の水は夏に落ちます。村の裏山と同じ形なので」
文字を読まずに、地形で分かっていた。
わたくしは文字を読んで、それでも行程表がおかしいことに気づかなかった。読んだ字を、地面と照らし合わせなかったからだ。
「あなた、それをどなたかにおっしゃった?」
「言ってません。わたし、まだ演習に出たことないので。出たことない人が言っても、聞かないと思います」
聞かないと思います、と彼女は言った。わたくしは自分の言葉を思い出した。四年後、誰も聞かなかった。
「言ってください」
「……え」
「次から、気づいたことは言ってください。聞く人がいなければ、わたくしが聞きます。わたくしが聞いた記録は、わたくしが残します」
ミレイユは目を丸くして、それからゆっくりと小首を傾げた。
「——なるほど」
翌日、わたくしは腕を折った一年生の見舞いに行った。
名前はテオといった。北の領の三男で、馬に乗るのは入学してからだと言った。添え木を当てた腕を持て余しながら、彼はしきりに恐縮していた。
「公爵令嬢様が、なんで」
「見に行ったからです」
「見て……いただけですよね」
「見ていて、何もしませんでした」
テオは困った顔をした。困らせるつもりはなかったのに、困らせてしまった。
「わたくし、あの日、別の方の腹帯を気にしておりました。あなたの馬を見ていませんでした」
「そりゃ、見てない人のほうが多いですよ」
「多いのは知っています。ただ、わたくしは見られた側に立ったことがあるので」
言ってから、うまく通じないだろうと思った。テオはしばらく天井を見て、それから言った。
「腹帯、たしかに緩かったです」
「え」
「俺の。厩番の人が言ってました。締め直したはずなんだけどなあ、って」
わたくしは、しばらく動けなかった。
締め直したはずなのに、緩かった。
一度目に落ちたのは別の生徒だった。あのときも、同じことが言われたのだろうか。誰も数えていないから、分からない。
「テオ様。厩の点検記録は、残っておりますか」
「点検記録……あるんですかね、そんなの」
無いのだろう。
わたくしは礼を言って、その足で厩へ行った。厩番は人の好い老人で、記録は付けていないと言った。付けたほうがいいですかね、と訊かれたので、付けてくださいと答えた。
その日から、厩に一冊の帳面が置かれた。
効くかどうかは分からない。ただ、無いものは絶対に効かない。その夜、わたくしは机に向かって、覚えていることを書き出した。
外れたものに印をつける。井戸。落馬。
残っているものを数える。剣術試合の日付。年末の実地演習。二年次の対抗戦。そして、四年後の朝。
書き出してみて、はっきりしたことがある。外れたのは、細かいことばかりだ。井戸が涸れる。誰かが落ちる。日常の粒。
外れていないのは、日付が決まっているものだった。行事は動かない。人の予定は動く。
剣術試合は、来週の三日目。一度目と同じ日だ。書き出した紙を、わたくしは二つに折った。折ってから、もう一度開いた。
この紙が誰かに見られたら、どうなるだろう。
「四年後」と書いてある紙を持っている令嬢は、正気を疑われる。疑われるだけならいい。疑った誰かが、それを別の意味に使うかもしれない。四年後の罪状は、たしか「不穏な文書の所持」から始まっていた。
思い出して、指が冷えた。
不穏な文書。
あれは、これのことだったのだろうか。それとも、名簿のことだったのだろうか。
わたくしは紙を蝋燭の火に近づけ、途中で止めた。
燃やせば安全になる。安全になるが、何も残らない。残らないものは、何も変えない。
結局、わたくしは紙を折り直して、母の懐中時計の裏蓋に挟んだ。
裏蓋は硬く、爪を立てないと開かない。開けたのは十年ぶりだった。中には母の字で、小さく日付が書いてあった。わたくしの生まれた日だった。
その隣に、自分の字で日付を書き足した。四年後の、雨の朝の日付を。蓋を閉じると、かちりと音がした。
その日、エイドリアンは何をしただろう。
思い出そうとして、思い出せた。彼は試合に出て、勝った。準決勝で、対戦相手が棄権したからだ。
棄権した相手の名前は、ノエル・グレンヴィルだった。




