第十話 「剣術試合の前夜」
棄権の理由を、わたくしは知らなかった。
一度目、わたくしはノエルの棄権を「聞いた」だけだ。誰かが食堂で話しているのを聞いて、そうなのかと思って、それきりだった。彼が四年後に剣を抜くまで、わたくしはその名前を口に出したことすらない。
だから、調べた。
試合の組み合わせ表は、事務室に貼り出されている。一回戦から決勝まで、名前が線で結ばれていた。ノエルの名前は右の山にあり、エイドリアンは左の山にある。二人が当たるのは準決勝だ。
組み合わせは籤で決まる。籤は試合の三日前に引く。今年はまだ引いていない。
つまり、一度目とまったく同じ組み合わせになるとは限らない。
なのに、わたくしの記憶では二人は準決勝で当たった。当たって、棄権した。
偶然にしては、できすぎている。
「レティシア様、こんなところで何を」
双子の姉のほうが、廊下の角から顔を出した。
「組み合わせを見ておりました」
「まだ籤引いてませんよ」
「ええ。引く前に、去年と一昨年の表を見たくて」
事務官に頼むと、去年の表が出てきた。一昨年のも。わたくしは三年分を並べて、目で追った。そして、気づいた。
三年とも、決勝に残っているのは同じ家の名前だった。ロシュフォール、ヴァレンス、ロシュフォール。侯爵家と、公爵家の分家。
偶然かもしれない。強い家は強い。剣を習わせる金がある家は、当然に強い。
ただ、準決勝の相手が三年とも棄権していた。
「事務官様。棄権が続いておりますが、これは」
「ああ、それか。怪我だよ。実技のあとに試合をやるから、無理をする子が出る」
「三年連続で、準決勝の同じ側だけ」
「……言われてみると、そうだね」
言われてみると、そうだね。誰も数えていなかった、ということだ。その足で、わたくしは医務室へ行った。
医務官は白髪の女性で、机に薬瓶を並べていた。三年分の負傷記録を見せてほしいと頼むと、意外にもすぐ出してくれた。
「珍しいね。生徒がこれを見に来るのは」
「よろしいのですか」
「本人の名前は伏せる。部位と日付だけなら構わないよ」
三年分の頁を繰った。試合期間中の負傷は毎年ある。打撲、捻挫、切り傷。数は多い。
ただ、準決勝の前日だけ、毎年ひとつだけ「肩の痛み」が記されていた。
三年とも、肩。三年とも、前日。三年とも、外傷なし。
「先生。外傷のない肩の痛みは、どうやって診るのですか」
「本人が痛いと言えば、そう書く。それしかない」
「痛くない人が痛いと言った場合は」
「……分からないね」
医務官は薬瓶を置いた。
「そういうことが、あると思うのかい」
「三年続けて同じ日に同じ部位というのが、少し気になりました」
彼女は記録を自分でめくり直した。めくって、しばらく黙った。
「気づかなかったよ」
「毎年一件ずつですので」
「そうだね。一年に一件は、ただの怪我だ」
一年に一件は怪我で、三年で三件になると形になる。形になるまで、誰も数えない。数えないから、形にならない。
「先生。お願いがございます。今年の試合期間は、棄権の申し出があったときに、申し出た本人の名前と、そのとき同席していた方の名前も書いていただけますか」
「同席者」
「はい」
医務官はペンを取り、書き付けた。
「面白い子だね、あんた」
「面白がられるようなことを、申し上げたつもりはございません」
「面白いよ。だいたいの子は、怪我をしてから来る」
夜、実技場の裏でノエルを見つけた。
彼は木剣を振っていた。ハイム教官とは違う振り方だった。速く、荒く、同じ軌道を外す。外してから、外したところを自分で直している。
「ノエル」
「おう」
「明日、籤ですね」
「そうだな」
彼は木剣を下ろし、額の汗を袖で拭った。
「お前、試合出ないのか」
「出ます。一回戦で負けると思いますが」
「負けると思って出るな」
「では、二回戦で負けると思います」
「……お前、意外と口が減らないよな」
わたくしは笑った。笑ってから、笑えたことに驚いた。
月が出ていた。実技場の土が白く見える。四年後の朝は雨で、石畳が黒かった。同じ景色の反対側にいるような気がした。
「ノエル。ひとつ、お願いがあります」
「言え」
「明日から試合が終わるまで、怪我をなさらないでください」
「そりゃ、するつもりはないけど」
「するつもりが無くてもなさる方なので」
彼は左手を見た。見てから、こちらを見た。
「……なるほどな」
「それと、もうひとつ」
「多いな」
「もし、試合の前に誰かがあなたに何かを持ちかけたら、断る前にわたくしに教えてください」
ノエルの目が、少し細くなった。
「何を知ってる」
「知りません。三年分の組み合わせ表を見ただけです」
嘘ではなかった。半分は。
「三年続けて、準決勝の同じ側で棄権が出ています。理由は怪我だと記録にあります。三人とも、家に借りのある側でした」
最後の一行は、今日の午後に調べた。三人の家名を、双子の姉に訊いた。彼女は家同士の借り貸しにやたら詳しかった。姉が婚約を切られた家のことを調べているうちに、詳しくなったのだそうだ。
ノエルはしばらく黙っていた。
「うちにも、借りはある」
「存じています」
「オルセンか」
「ええ」
彼は木剣を肩に担ぎ、空を見た。
「言っとくけどな。俺は棄権しない」
「はい」
「もし俺が棄権したら、それは俺の意思じゃない」
その言い方が、胸に刺さった。
一度目の彼も、たぶん同じことを思っていた。思っていて、誰にも言わなかった。言う相手がいなかったから。
「ノエル」
「なんだ」
「わたくしが覚えておきます」
「何を」
「あなたが、棄権しないと言ったことを。今日の日付と、時刻と一緒に」
わたくしは懐中時計を出して、蓋を開けた。針は止まっている。止まっているので、時刻は分からない。分からないまま、蓋を閉じた。
「その時計、動いてないだろ」
「動いておりません」
「なんで持ってる」
「母の形見です。それに、止まっている時計でも、開けた回数は数えられます」
ノエルは変な顔をした。それから、笑った。
「お前、そういうとこあるよな」
「そういうところとは」
「勝ったら教える」
彼は木剣を振り上げ、もう一度素振りを始めた。
わたくしは少し離れた場所に立って、それを数えた。三十まで数えたところで、彼が言った。
「明日、勝ったら聞きたいことがある」
「なんでしょう」
「勝ってから言う」
月が高かった。
わたくしは数えるのをやめて、寮へ戻った。部屋の前で、ビアンカ・オルセンとすれ違った。
なぜ彼女がこの階にいるのか分からなかった。ビアンカの部屋は下の階のはずだ。
彼女は俯いたまま通り過ぎようとして、わたくしを見て、足を止めた。
「……ヴァルトハイム様」
「はい」
「あの、この前は」
「もう終わったことです」
ビアンカは首を振った。振ってから、手を胸の前で握り込んだ。握り込んだ左手から、紙の角が覗いている。折り目が三つ。
同じ紙だ。あれから三週間、彼女はまだ持っている。
「その紙は」
「なんでもありません」
早口だった。
彼女は頭を下げ、階段を降りていった。
部屋に入り、寝台に腰を下ろす。
三週間持ち歩く紙とは、何だろう。捨てられない紙だ。捨てられないのは、まだ使えと言われているからか、返せと言われているからか。
いずれにしても、彼女はまだ終わっていない。終わっていないなら、次がある。
わたくしは机の引き出しから手帳を出し、今日の日付を書いた。
《ビアンカ・オルセン、三階廊下。折り目三つの紙を所持。三週間前と同一と思われる》




