第十一話 「記録は、残っています」
籤は、一度目と同じ組み合わせを引いた。
右の山にノエル。左の山にエイドリアン。準決勝で当たる。
籤を引いたのは事務官で、立ち会ったのはハイム教官だった。不正のしようがない、と誰もが言った。わたくしもそう思う。籤に細工はいらない。当たるまで待てばいいだけだ。三年続けて同じ側で棄権が出るなら、当たり方の問題ではない。
試合の前日、わたくしは三つのことをした。
ひとつ。ノエルの一回戦から準決勝までの日程を、回廊の記録係に書き留めてもらった。「グレンヴィル生徒、出場の意思を確認。棄権の申し出なし」と、日付と時刻つきで。記録係は「そんなもん書くのか」と言いながら書いてくれた。
ふたつ。医務室へ行き、試合期間中の負傷記録を、通常より詳しく残してほしいと頼んだ。負傷者の名前、部位、原因、申し出た本人。医務官は面倒がったが、「怪我人が三年続けて同じところから出ているようなので」と言うと、顔つきが変わった。
みっつ。ノエルに、何も言わなかった。言えば、彼は構える。構えれば、相手はやり方を変える。試合の日は、晴れた。
一回戦、ノエルは勝った。二回戦も勝った。荒い剣だった。同じ軌道を外し、外したところを力で押し込む。見ていて危なっかしいのに、負けなかった。
わたくしは一回戦で負けた。宣言どおりだった。
準決勝の前、控えの天幕でノエルが座っていた。その前に、エイドリアンが立っていた。
わたくしは天幕の外にいた。中の声は、布越しでもよく聞こえた。
「グレンヴィル。話がある」
「なんだ」
「君の家の借りのことだ。オルセン商会が持っている証文を、僕の家が買い取ってもいい」
息が止まった。
「……なんでだ」
「僕は君と戦いたくない。君は強い。怪我をさせたくないんだ」
「意味が分からない」
「棄権してくれ。それだけでいい。医務室に行って、肩が痛むと言えばいい。そうすれば証文は僕が引き受ける。君の家は、来年の返済を気にしなくてよくなる」
布の向こうで、椅子が鳴った。
「断る」
「よく考えろ。君の父上は——」
「断るって言った」
わたくしは天幕の入口をくぐった。二人が同時にこちらを見た。エイドリアンの顔から血の気が引くのが、はっきり見えた。
「エイドリアン様」
「……レティシア。なぜここに」
「立ち会いに参りました」
わたくしは、後ろを振り返った。入口の外に、回廊の記録係と、医務官と、双子の姉が立っていた。
「準決勝の前に控えの天幕で行われたやり取りを、記録に残していただきます。医務官様には、棄権の申し出があった場合の受付をお願いしております。クラリス様には、聞こえたことを覚えていていただきます」
エイドリアンの唇が動いた。
「……なんの権利があって」
「権利ではございません。規程です。第三十四条、記録の保全。試合に関わる申し出は記録に残すと定められております」
彼は書類を持っていない。今日は持ってこなかったのだろう。
「僕は何も言っていない」
「証文の買い取りをお申し出になりました」
「言っていない」
言っていない、と彼は言った。三年前も、二年前も、去年も、たぶん同じように言えばよかったのだ。誰も聞いていなかったから。
「記録は、残っています」
わたくしは言った。
「三年分の組み合わせ表と、三年分の負傷記録と、三年分の証文の動きです。ロシュフォール家がオルセン商会から買い取った証文は、三通ございます。買い取られた日付は、いずれも準決勝の翌日です」
最後の一行は、今朝、双子の姉が家に問い合わせて確かめてくれたものだった。彼女の家は商家との付き合いが広い。姉が婚約を切られてから、そういう情報に敏くなったのだと言っていた。
「三通とも、棄権した生徒の家のものです」
布の外で、風が鳴った。それきり誰も喋らなかった。
エイドリアンは、しばらく動かなかった。それから、笑った。四年後、罪状を読み上げたときと同じ顔だった。
「君は、僕を陥れたいのか」
「いいえ」
「では何がしたい」
「あなたが、ご自分の言葉を最後まで喋れるようにしたいのです」
彼は笑うのをやめた。
「わたくしは四年——いえ。あなたに言葉を途中で取り上げられるのが、ずっと嫌でした。だから、あなたのものは取り上げません。今おっしゃったことは、全部そのまま記録に残ります。訂正なさりたければ、今なさってください」
エイドリアンは口を開いた。開いて、何も言わずに閉じた。
入口をくぐって出ていく彼の背中を、記録係が目で追いながら羽根ペンを走らせた。準決勝は、ノエルが勝った。
荒い剣だった。相手は一度目の記憶どおり、途中まで押していた。押されて、押されて、ノエルは押し返さなかった。受けて、外して、また受けた。ミレイユの避け方に少し似ていた。似ていると気づいた瞬間、彼が踏み込んだ。
一撃だった。
決勝も勝った。決勝の相手はヴァレンスの子息で、こちらは正統な剣だった。速く、正確で、同じ軌道を外さない。ハイム教官の素振りに似ていた。
ノエルは三度倒され、三度立った。四度目に、相手の踏み込みの膝が先に落ちた。
彼が勝った瞬間、観客席のどこかで双子が叫んでいた。ジョゼットのほうが先に叫び、クラリスが「妹が先に喋った」と驚いていた。
ミレイユは立ち上がりもせず、じっと試合場を見ていた。
「レティシア様」
「はい」
「あの人、途中で剣の振り方を変えました」
「変えましたか」
「はい。三度目に倒れたあとから、腕じゃなくて腰で振ってます」
わたくしには見えなかった。見えている人が隣にいる、ということの意味を、少しずつ理解し始めていた。
その日の夕方、掲示に一枚の紙が貼られた。
《一年ロシュフォール・エイドリアン、試合規程違反の疑いにつき、次回大会までの出場停止》
処分は軽い。証文の話は、罪と呼ぶには形が曖昧すぎる。それでも、紙は貼られた。貼られた紙は、消えない。
わたくしは掲示の前で、しばらく立っていた。
四年後、この掲示板にわたくしの罪状が貼られる。貼られる前に、貼らせないための紙を、一枚ずつ増やしていくしかない。
「よくやったね」
声に振り返ると、ハイム教官が立っていた。
「処分を出したのは、あなたですか」
「私は事実を上げただけだ。決めたのは学長だよ」
「軽い処分ですね」
「証文の話は罪の形になっていない。買い取りの申し出そのものは違法ではないからね。試合の前日にしたことだけが、規程に触れる」
そのとおりだった。わたくしが積めたのは、そこまでだった。
「ヴァルトハイム嬢。ひとつ助言をしてもいいかね」
「お願いします」
「記録を武器にするなら、自分の記録も同じだけ残しなさい」
背筋が伸びた。
「……どういう意味でしょう」
「君は今日、三年分の記録を持ち出した。次に誰かが君を調べるとき、同じことをする。そのとき君の側に記録が無ければ、君だけが空白になる。空白は、いくらでも書き足せる」
彼は掲示の紙を見上げていた。表情は動かない。
「ご忠告として伺います」
「忠告ではない。手順の話だ」
ハイム教官は会釈をして、去っていった。
わたくしはしばらく動けなかった。
あの人は、わたくしを助けたのだろうか。それとも、わたくしがどこまで気づいているかを測ったのだろうか。
どちらでも同じことだ、と思った。言われたことは正しい。正しいことを言う相手が味方とは限らないが、正しいことは正しい。
その晩、わたくしは自分の閲覧記録をすべて写し直し、日付順に並べた。
「レティシア様」
振り返ると、ビアンカ・オルセンが立っていた。顔色が悪い。手を胸の前で握り込んでいる。
「あの、わたし」
「はい」
「……教わっただけなのに」
小さな声だった。彼女はそれきり口を閉じ、逃げるように去っていった。
教わった。
誰に。




