第十二話 「教わっただけ、という言い方」
エイドリアンは、学校からいなくなったわけではなかった。
出場停止の処分が貼られただけで、授業には出ている。食堂にもいる。ただ、周りの座り方が変わった。前は彼の卓に人が集まった。今は一つ空けて座る。
人は、罰されたかどうかより、罰されうると分かったかどうかで距離を変える。
彼はわたくしを見なくなった。すれ違っても目を合わせない。
それでいい、と思った。思ってから、少しだけ落ち着かなくなった。憎まれているほうが、まだ分かりやすい。
わたくしが追っているのは、もう彼ではなかった。
折り目が三つの紙。細くて右に倒れた字。三週間持ち歩いても捨てられない紙。それを書いた人を、探している。
ビアンカ・オルセンは、避けるのがうまかった。
食堂では人の多い時間を外し、廊下では壁際を歩く。話しかけようとすると、必ず誰かの背中の後ろに入る。彼女は隠れるのがうまいのではない。隠れさせてもらうのがうまいのだ。誰かが自然に前に立つ位置を、いつも選んでいる。
四日目に、ようやく捕まえた。洗濯場の裏だった。籠を抱えたビアンカが、こちらを見て一歩下がった。
「ビアンカ様」
「……何か」
「先日、掲示の前でおっしゃったことです。教わっただけ、と」
彼女の指が籠の縁を握った。
「言ってません」
「わたくしは聞きました」
「聞き間違いです」
早口だった。早口の人は、次に何を言うか決めている。決めていることしか言わない。
「では、聞き間違いということにいたします」
わたくしがそう言うと、ビアンカが顔を上げた。予想していなかった、という顔だった。
「……いいんですか」
「よくありません。ただ、あなたを問い詰めても、わたくしの欲しいものは出てこないでしょう」
「欲しいもの」
「あなたに手順を教えた方の名前です」
籠が、少し傾いた。
「わたし、そんな」
「ビアンカ様。ひとつだけ申し上げます」
わたくしは一歩も近づかなかった。近づくと、この子は逃げる。
「あなたが持っていらっしゃる紙を、書いた方は、あなたを守りません」
「……どうして、そんなこと」
「守る方なら、紙で渡しません。紙は残ります。残るものを持たされている側が、いつも先に落ちます」
ビアンカは何も言わなかった。言わないまま、籠を抱え直して、走っていった。
その背中を見送りながら、わたくしは自分の言葉を反芻していた。残るものを持たされている側が、先に落ちる。
一度目のわたくしがそうだった。折り目のついた厚い紙を握って、誰にも読ませてもらえずに死んだ。
あの紙を、わたくしは誰かから渡されたのだろうか。それとも、自分で見つけたのだろうか。思い出せない。
その日の午後、わたくしは筆跡を集めた。
といっても、大したことはできない。生徒の字を集める口実など、そう都合よく無い。思いついたのは、寄せ書きだった。
「クラリス様。ノエルが試合に勝ったお祝いを、班で書きませんか」
「いいですね! やりましょう」
クラリスは即答した。この人は、行事があると生き返る性質らしい。
紙を回すと、班の五人が書いた。双子は絵まで描いた。男爵家の子息は、名前だけを小さく書いた。ビアンカには回さなかった。回せば警戒される。
集まった字を、わたくしは夜に並べた。細くて右に倒れた字は、どれにも無い。
当たり前だった。あの紙を書いたのは、たぶん生徒ではない。
生徒の字なら、ビアンカは三週間も持ち歩かない。持ち歩くのは、返せと言われているか、返す相手が怖いかのどちらかだ。
わたくしは寄せ書きをノエルに渡した。彼は少し困った顔をして、それから畳んで上着に入れた。
「なんで俺のために」
「勝たれたので」
「勝ったのは、まあ、俺だけど」
「ええ。あなたが勝ちました」
彼は何か言いかけて、やめた。その夜、彼が寄せ書きを何度も開いているのを、わたくしは知らない。
夕方、掲示板に演習の詳細が貼り出された。
三日間の野営演習。一年生全員。班ごとに行程が割り当てられ、指定の地点で水を補給しながら、丘を三つ越えて戻る。
三班の行程は、南の水場を通ることになっていた。
地形図を思い出す。水場は二箇所。南側には「涸」と書かれていた。そして、掲示の下に小さく一行あった。
《なお、班の一部を編成替えする場合がある。詳細は出発前夜に通達》
編成替え。
紙に書いてあるのに、何も決まっていない一行だった。こういう一行が、この学校にはよくある。
「レティシア様」
ミレイユが隣に来た。掲示を見上げ、しばらく黙っている。
「読み上げましょうか」
「あ、お願いします」
わたくしは声に出して読んだ。行程、日程、装備。最後の一行まで。
「編成替え、ですか」
「ええ」
「それ、去年もあったって聞きました」
「どなたから」
「ヨナスさんです。厨房の」
二年の特待生。演習に呼ばれなくなった人。
「なんとおっしゃっていましたか」
「出発の前の晩に呼ばれて、お前は残れって言われたって」
「理由は」
「言われなかったそうです」
また、理由が無い。
わたくしは掲示を見上げた。
編成替えの通達は、出発前夜。前夜に言い渡されれば、訴える時間が無い。訴える先の事務室は夜には閉まっている。翌朝は出発だ。
時間を潰すことで、手続きを潰している。
紙に書いてあることは、全部正しい。正しいまま、誰かが外される。
「ミレイユ」
「はい」
「出発前夜、あなたは部屋にいてください」
「え?」
「呼ばれても、すぐには行かないでください。わたくしを呼んでから行ってください」
彼女は小首を傾げた。
「どうしてですか」
「一人で聞くと、聞いたことしか残りません。二人で聞くと、聞いたことが二つ残ります」
ミレイユはしばらく考え、それから頷いた。
「——なるほど」
その夜、寮の廊下でノエルとすれ違った。彼は手紙を持っていた。封が切ってある。
「ノエル」
「おう」
「お家から?」
「ん。ああ」
答えが短かった。短いときのこの人は、たいてい何か抱えている。
「読まれましたか」
「読んだ」
それきり彼は歩き出そうとして、途中で立ち止まった。
「レティシア」
「はい」
「オルセンって、まだ証文持ってると思うか」
わたくしは、答えを持っていなかった。
「エイドリアン様が買い取る話は、流れたはずです」
「だよな」
彼は手紙を折って、上着に入れた。
「なんでもない。おやすみ」
背中が、いつもより少しだけ丸かった。
部屋に戻ると、ミレイユが荷を作っていた。毛布を三つ折りにして、紐をかけている。手が速い。
「上手ですね」
「荷は得意です。村では毎年、水が出ると運び出したので」
得意なことの理由が、いつも少し重い人だった。
「ミレイユ。もし演習に出られなかったら、どうされますか」
「厨房を手伝います」
「悔しくはありませんか」
「悔しいですけど、悔しがると、次に呼ばれないので」
わたくしは荷を作る手を見ていた。
悔しがると次に呼ばれない。そう学んだ人が、悔しがらない練習をして、それを慣れと呼ぶ。
一度目のわたくしも、たぶん同じ練習をしていた。言い返さないほうが物事が早く済むと知って、済ませることを賢さだと思っていた。
「ミレイユ。わたくしの前では、悔しがってくださって構いません」
「……なんでですか」
「わたくしが覚えておきますので」
彼女は紐を結ぶ手を止め、しばらくこちらを見た。
「——なるほど」
それから、少しだけ乱暴に紐を締めた。
翌朝、演習の班名簿が配られた。三班の欄に、見覚えのない名前が足されていた。ビアンカ・オルセン。




