第十三話 「水と地図」
演習の支度は、思ったより雑だった。
配られたのは水袋と、乾麺麭と、毛布が一枚。地形図は班に一枚だけで、行程表も一枚。六人で一枚を回して覚えろということらしい。
「一枚しかないんですか」
「紙は高いからね」
装備係の上級生はそう言って、次の班へ行った。
紙は高い。
高いものが、入学式の前日に二十束納められている。誰が払ったのかは、書く欄が無い。
ジョゼットが地形図を広げ、クラリスが覗き込んだ。
「南の水場って、ここ?」
「これでしょ。丘の裏」
「遠くない? 北のほうが近いよ」
「行程表がこっちだもん」
双子が言い合っているあいだ、ミレイユは地形図を裏返して持っていた。裏の白い面をしばらく見て、それから表に返す。二度繰り返してから、指で丘の線をなぞった。
「レティシア様」
「はい」
「南は、たぶん出ません」
「水がですか」
「はい。この丘、三つとも南に傾いてます。傾いてる側の水は、夏に下へ抜けるので」
わたくしは地形図を覗き込んだ。等高線は読める。読めるが、それが何を意味するかは読めていなかった。
「北の水場は」
「そっちは丘の間なので、残ると思います」
彼女は「思います」と言った。言い切らない。言い切らない人の言うことのほうが、たいてい当たる。
「ミレイユ。それを、教官に申し上げたことは」
「ないです」
「申し上げてみませんか」
「わたしが言っても」
そこで彼女は口を閉じた。閉じてから、言い直した。
「……言ってみます」
その前に、わたくしはひとつ確かめておきたかった。
「ミレイユ。北の水場のほうが近いのに、行程は南を通ります。なぜだと思われますか」
「遠回りの訓練じゃないですか」
「そう書いてあれば、そうでしょう。書いてありません」
行程表には、理由が書かれていない。理由が書かれていない紙は、あとから理由をいくらでも足せる。
わたくしは去年の演習記録を借りに、事務室へ行った。
去年の行程も、南回りだった。一昨年も。三年前は北回りだった。南へ変わったのは、二年前の春。
「事務官様。二年前に行程が変わった理由は、どこかに」
「行程は教官が決めるからねえ。理由までは書かない」
また、書く欄が無い。
わたくしは頁をめくり、去年の演習記録の末尾を見た。参加者の一覧がある。一年生三十四名。班は一班から五班まで。
三十四名を数えて、班の人数を足した。三十名。四名、足りない。
去年も、編成外の生徒がいた。
その四名の名前は、参加者一覧に載っている。載っているのに、班に入っていない。演習に出ていないのに、参加者として数えられている。
背中が冷えた。
これは、記録が嘘をついている形だ。誰かが「参加した」ことにしている。
「事務官様。この四名は、演習に参加なさったのですか」
「一覧に載ってるなら、したんだろう」
「班の欄にお名前がありません」
「……ああ、それはよくあることだよ。あとから足すからね」
あとから足す。
名簿と同じ言葉だった。午後、わたくしたちは教官室へ行った。
ハイム教官は書き物をしていた。顔を上げ、ミレイユを見て、それからわたくしを見た。
「二人でとは、珍しいな」
「行程についてです。ミレイユ」
促すと、彼女は一度深く息を吸った。
「南の水場は、たぶん涸れています」
「根拠は」
「丘の傾きです。三つとも南に落ちてるので、夏は水が下へ抜けます。わたしの村の裏山が同じ形なので」
ハイム教官は、羽根ペンを置いた。
「地形図を見て、そう思ったのかね」
「はい」
「等高線が読めるのか」
「線は読めます。文字は読めません」
彼女は正面から言った。わたくしは息を止めた。この場で言う必要は無かった。無かったのに、彼女は言った。
教官は、しばらく彼女を見ていた。
「……なるほど」
その言い方が、ミレイユのそれとよく似ていて、わたくしは妙な心地になった。
「行程は変えない」
「なぜでしょう」
わたくしが訊くと、彼は書類の束から一枚を抜いた。
「昨年の演習記録だ。南の水場、水量『可』と書いてある」
「昨年は昨年です」
「そうだ。だから記録は毎年取る。今年『不可』と書かれれば、来年の行程は変わる」
わたくしは言葉に詰まった。この人の言っていることは、正しい。正しくて、冷たい。
「今年、水が無かった班はどうなりますか」
「北へ回る。半日遅れる。それも記録に残す」
「半日のあいだ、水はありません」
「水袋がある。三日分だ」
彼は書類を戻した。
「ヴァルトハイム嬢。君は先回りが得意なようだが、先回りには限りがある。予測で記録は書き換えられない。書き換えるには、起きた事実がいる」
起きた事実がいる。誰かが一度、涸れた水場の前に立たなければ、記録は変わらない。
「カルヴァン嬢」
教官がミレイユを呼んだ。
「君の話は覚えておく。今年の記録に、君が事前にそう言ったと書いておこう」
「……いいんですか」
「事実だからね」
彼は台帳を開き、日付と、ミレイユの名前と、南の水場について申し出があったことを書いた。書き終えて、こちらを見た。
「これで、記録は残った。満足かね」
「いいえ」
わたくしは答えた。
「ただ、無いよりはずっとよくなりました」
教官の口の端が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかもしれない。部屋を出ると、ミレイユが長く息を吐いた。
「怖かったです」
「よく言えました」
「レティシア様がいたので」
彼女は少し笑った。それから、真顔になった。
「あの人、わたしが読めないって言っても、顔が変わりませんでしたね」
「ええ」
「村の司祭様は、変わりました」
どう変わったのかは訊かなかった。訊かなくても、だいたい分かる。夕方、荷造りを終えてから、わたくしは中庭へ出た。
石段にノエルが座っていた。膝の上に手紙が広げてある。読んでいるというより、見ているだけの目だった。
わたくしが近づくと、彼は手紙を折った。折る手が、いつもより遅かった。
「隣、よろしいですか」
「どうぞ」
石は冷たかった。日が落ちきる前の、青い時間だった。
「父からだ」
訊いていないのに、彼は言った。
「来年の返済のことが書いてある。うちは金が無いから、俺に騎士団の推薦を取れって」
「推薦」
「上位で卒業すれば、給金の前借りができる。それで払えって話だ」
わたくしは黙っていた。
「別にいいんだ。俺は剣しかできない」
そこで彼は言葉を切って、しばらく黙った。長い沈黙だった。この人が黙るときは、たいてい何も抱えていないときだ。今日は違った。
「……レティシア」
「はい」
「俺が卒業できなかったら、うちは終わる」
わたくしは、その言葉を胸の底に落とした。
一度目、グレンヴィル家は取り潰された。取り潰されたのは、わたくしが処刑されたあとだと聞いた。順番が、そうとは限らない。
わたくしは何も言えなかった。大丈夫です、とは言えなかった。知っていることを言えないとき、人はこんなに黙るものなのかと思った。
代わりに、わたくしは自分の手を彼の手の甲に置いた。左手の、古い傷の上に。
ノエルは驚いた顔をして、それから、動かなかった。その夜、出発前夜の通達があった。
廊下に集められた一年生の前で、フォルカー・ハイム教官が名簿を読み上げ始めた。




