第十四話 「フォルカー教官」
名簿の読み上げは、静かに進んだ。
一班から順に、六名ずつ。フォルカー・ハイム教官の声はよく通る。大きくはない。ただ、語尾を落とさないので、廊下の端まで同じ強さで届く。
読み違えると、彼は必ず読み直した。「訂正する」と前置きしてから読み直す。訂正したことも記録に残す、と言った。
「三班。ヴァルトハイム、グレンヴィル、クラリス・ロワール、ジョゼット・ロワール、オルセン」
五名。
わたくしは息を止めた。
「以上」
教官は名簿を閉じた。
「教官」
わたくしは手を挙げた。周りが振り返る。
「三班は六名です。カルヴァンの名が読まれておりません」
「編成替えだ。掲示に予告してある」
「理由を伺えますか」
「今夜は通達だけを行う。異議は書面で、明朝までに事務室へ」
事務室は夜には閉まっている。明朝は出発だ。やはり、そうなっている。
「事務室は何時に開きますか」
「六の鐘だ」
「出発は」
「六の鐘」
廊下の空気が、少しだけ揺れた。誰かが小さく笑った。笑ったのは、たぶん面白かったからではない。
「教官。それでは書面を出す時間がございません」
「そうだね」
彼は否定しなかった。否定しないことが、この人のやり方だった。
「では、今この場で申し上げます。カルヴァンの編成替えの理由をお聞かせください」
「理由を述べる規定は無い」
「述べてはいけない規定も、無いはずです」
教官は、初めてこちらを正面から見た。廊下が静かになった。誰も動かない。一年生三十六人が、息をひそめて見ている。
「……よろしい」
彼は言った。
「カルヴァン嬢は入学以来、実地演習の経験が無い。三班の行程は南回りで、丘を三つ越える。未経験者を含めると班全体の遅延の危険が高い。以上が理由だ」
「本人は、南の水場が涸れていると事前に申し出ております」
「記録した」
「記録した方を、その演習から外されるのですか」
言ってから、自分の声が少し高くなっていたことに気づいた。
「順序が逆に聞こえるかもしれないが、二つは別の判断だ」
「わたくしには、同じ判断に見えます」
教官は答えなかった。答えないまま、名簿を脇に挟んだ。
「異議は書面で。以上」
彼は歩き去った。人が散ってから、ミレイユがわたくしの袖を引いた。
「レティシア様。もういいです」
「よくありません」
「わたし、慣れてるので」
慣れている、と彼女は言った。その一言が、今日一番こたえた。残った生徒たちが、少しずつ散っていった。
誰も、わたくしに話しかけなかった。クラリスとジョゼットだけが残っていた。
「レティシア様」
「はい」
「あれ、去年もありました」
クラリスが言った。
「去年もあったのですか」
「兄が一年のとき、同じことを。編成替えは前の晩に通達で、異議は明朝までって」
「お兄様は、どうなさいましたか」
「何も。出発しちゃったので」
彼女は肩をすくめた。
「言っても無駄だと思ってたんだと思います。うちも、そういうこと言う家じゃないので」
「ロワール家は、そういう家ではないのですか」
「子爵ですから。上に文句を言って得したことがないんです」
ジョゼットが姉の袖を引いた。クラリスは口を閉じた。この学校では、正しさより先に、家格が口を閉じさせる。
「クラリス様。今夜、あなたが聞いたことを覚えておいてくださいますか」
「覚えるだけでいいんですか」
「はい。覚えている方が三人いれば、なかったことにはできません」
双子は顔を見合わせ、それから同時に頷いた。
わたくしは事務室へ走った。閉まっていた。医務室へ行った。医務官はいたが、演習の編成には権限が無いと言われた。学長室は、施錠されていた。
廊下を戻る途中で、足が止まった。
——順番が来ないと、動けない。
ミレイユが言ったことだ。知っているだけでは足りない。聞いてもらえて、動く人がいて、はじめて間に合う。
今夜、動く人はいない。
寮の部屋に戻ると、ミレイユが荷物をほどいていた。毛布をたたみ、水袋を戻し、乾麺麭を袋に入れ直している。手つきが淡々としていて、わたくしは見ていられなかった。
「ミレイユ」
「はい」
「明朝、六の鐘に事務室へ行きます。書面はわたくしが書きます」
「出発、六の鐘ですよね」
「ええ」
「じゃあレティシア様が行けません」
その通りだった。
わたくしは机に向かい、紙を出した。書きながら、頭の中で数えた。
事務室に書面を出すのは、わたくしでなくてもいい。出せる人がいればいい。
クラリスとジョゼットも演習に出る。ノエルも出る。演習に出ない人。
「ミレイユ。ヨナス様は、明朝どちらに」
「厨房だと思います。朝は早いので」
わたくしは書面を二通書いた。
一通は、編成替えの理由の開示を求めるもの。
もう一通は、南の水場の水量について、事前に申し出があったことの確認を求めるもの。
どちらも短くした。長い書面は読まれない。
「ミレイユ。明朝、これをヨナス様に託していただけますか」
「ヨナスさんに?」
「ええ。演習に出ない方でないと、出せません」
「……あの人、たぶん怖がります」
「では、こう伝えてください。あなたの名前は書かれない、と」
わたくしは書面の下部に自分の署名を入れた。日付も入れた。
「出した人ではなく、書いた人の責任になります。ヨナス様は、ただ運ぶだけです」
ミレイユは書面を受け取り、両手で持った。持ったまま、しばらく見ていた。
「レティシア様。これ、なんて書いてあるんですか」
「読み上げます」
わたくしは二通とも、声に出して読んだ。ゆっくり、一語ずつ。読み終えると、ミレイユは頷いた。
「覚えました」
「覚えなくても」
「覚えます。渡すとき、中身を知らないで渡すの、嫌なので」
わたくしは、この人を演習から外した判断が、どれほど雑なものかを思った。消灯の鐘が鳴った。
寝台に横になってから、わたくしは天井を見ていた。
ハイム教官は、嘘をひとつもついていない。規定が無いと言い、記録すると言い、理由を訊かれれば述べた。全部本当だ。
本当のことだけで、人を一人、外した。
一度目のわたくしを殺したのも、たぶん嘘ではなかった。もうひとつ、引っかかっていることがあった。
三班から外されたのはミレイユだけではない。男爵家の子息も二班へ移された。理由は通達されなかった。
入れ替わりに来るのは、誰だろう。
通達では、三班は五名と読まれた。ヴァルトハイム、グレンヴィル、ロワール姉妹、オルセン。オルセン。
わたくしは上体を起こした。
ビアンカ・オルセンは、もともと三班ではない。彼女の班は四班だったはずだ。編成替えで三班に入り、ミレイユが外れ、男爵家の子息が二班へ移った。
人数だけ見れば、辻褄が合っている。合っているように、組んである。
三日間、屋根の無い場所で、逃げ場のない五人。そのうち一人が、折り目三つの紙を持ち歩いていた人。
仕組まれている、と考えるのは自惚れかもしれない。ただ、一度目の四年間で、わたくしは自惚れなさすぎて死んだ。
わたくしは寝台から降り、手帳に書いた。
《三班の編成替え。カルヴァン外、ロワール弟外、オルセン入。通達は前夜。異議の窓は実質ゼロ》
書いてから、日付を入れた。日付のない記録は、記録ではない。
窓の外で、雲が動いていた。明日から三日、屋根の下では眠らない。




