第十五話 「聞いてもらえない夜」
六の鐘で、隊は出発した。
三班は五名になった。わたくし、ノエル、クラリス、ジョゼット、そしてビアンカ・オルセン。
男爵家の子息は、二班へ移されていた。理由は通達されなかった。訊く時間も無かった。
ビアンカは列の一番後ろを歩いた。荷が重そうだったので、ジョゼットが半分持とうとして、断られた。
「大丈夫です」
「でも」
「大丈夫です」
二度目の「大丈夫です」は、少し尖っていた。
行程は、丘を一つ越えて、南の水場で昼を取り、二つ目の丘の裾で野営、というものだった。
一つ目の丘は、思ったよりきつかった。道は無い。草の背が高く、足元が見えない。革の胸当てが汗を吸って重くなる。
「レティシア様、大丈夫ですか」
「顎を上げれば、なんとか」
「顎?」
「息が入るのだそうです」
クラリスが笑い、ジョゼットが真似をして顎を上げ、転びかけた。
ノエルは先頭を歩いていた。振り返らないが、こちらの速度に合わせて歩幅を変えているのが分かった。
昼前に、南の水場に着いた。
石で囲われた窪みがあった。底に、湿った黒い土が見えた。水は無い。
ジョゼットが窪みに手を入れ、土を掬って、しばらく見ていた。
「……無いね」
「無いよ」
双子が同時に言った。
わたくしは膝をついて、窪みの縁を見た。石の内側に、白い線が横に走っている。かつての水位の跡だ。線は、今の底より三尺ほど上にあった。
「班長」
ノエルが呼んだ。三班の班長は、彼だった。
「北へ回る。半日遅れる」
「ええ」
「その前に、記録を取っていいか」
わたくしは顔を上げた。
「記録」
「お前がやりそうなことだと思って」
彼は肩の袋から、板と炭を出した。装備の一部ではない。持ってきたのだ。
「書けよ。俺は書くのが下手だ」
わたくしは板を受け取った。手が少し震えた。震えたのは、疲れのせいではなかった。
日付。時刻。場所。水量、無し。石の内側の水位跡が現在の底から三尺上にあること。土は湿っており、涸れたのは最近であること。
立会人、三班五名。全員の名を書いた。ビアンカの名も書いた。
「オルセン様。ご署名を」
「……わたし、いいです」
「五人で見たものを、四人分の記録にはできません」
ビアンカはしばらく板を見ていた。それから、炭を受け取って、自分の名前を書いた。
丸くて大きい字だった。折り目三つの紙の字とは、まるで違う。
北の水場に着いたのは、日が傾いてからだった。
水はあった。冷たくて、少し鉄の味がした。飲みながら、誰も喋らなかった。喋る力が残っていなかった。
野営の支度をしているとき、隣の四班が通りかかった。四班は北回りで、余裕があった。
「南、無かった?」
「無かった」
「うちの班長も言ってた。去年から怪しいって」
去年から怪しい。その言葉を、わたくしは板に書き足した。誰が言ったかも書いた。水を汲みながら、ビアンカが小さく咳をした。
顔が赤い。額に汗が浮いている。今日の行程は長かったが、彼女は一度も遅れなかった。遅れないように歩いていた、と言うほうが近い。
「オルセン様。熱がおありですか」
「ありません」
「額をお借りしても」
「結構です」
彼女は水袋を抱えて離れていった。ジョゼットが横で小声で言った。
「あの人、朝から一回も座ってない」
「座っていませんか」
「うん。休憩のときも立ってた。荷も置かない」
荷を置かない人は、いつでも動けるようにしている。逃げる用意をしている人の座り方だ、と思った。
誰から逃げるのだろう。この班の五人からか。それとも、丘の中腹の天幕からか。
焚き火を熾したのはノエルだった。手際がよかった。
「上手ですね」
「領地にいた頃、薪番だった」
「男爵家の次男が?」
「金が無いんだよ、うちは」
彼は火に枝をくべた。
クラリスとジョゼットは早々に眠り、ビアンカは少し離れた場所で毛布にくるまっていた。眠ってはいない。背中が固い。
火が落ち着いてから、わたくしは立ち上がった。
教官の天幕は、丘の中腹にあった。灯りが点いている。わたくしは入口の前で名乗った。
「ヴァルトハイムです。ご報告がございます」
「入りなさい」
ハイム教官は、机の代わりに木箱を使っていた。その上に紙を広げ、書き物をしている。
「南の水場は涸れておりました。記録を取ってまいりました」
わたくしは板を差し出した。彼は受け取り、上から下まで読んだ。時間をかけて読んだ。
「よく書けている」
「では」
「記録として受け取る。今年の演習記録に添える」
わたくしは、そこで一歩踏み込んだ。
「カルヴァンの編成替えについて、再考をお願いいたします」
「演習は始まっている」
「彼女の申し出が正しかったことが、今日、事実として確認されました。編成替えの理由は『未経験による遅延の危険』でした。実際に遅延を招いたのは行程のほうです」
「それは結果論だ」
「結果が出たので申し上げております」
彼は板を置いた。
「ヴァルトハイム嬢。編成替えは通達済みで、異議は書面で明朝までと定めた。書面は出ていない」
わたくしは黙った。
ヨナスは、出さなかったのだ。あるいは、出せなかった。
「……出ていないのですか」
「事務室から報告は無い」
「確かめていただけますか」
「戻ってからね」
三日後。
「教官」
「なんだね」
「わたくしは今、あなたに直接申し上げております。これは記録に残りますか」
「残す義務は無い」
「残していただけませんか」
「……」
彼は羽根ペンを取った。取って、置いた。
「記録どおりです」
その言葉が、天幕の中に落ちた。
記録どおり。書かれていることは正しく、書かれていないことは無かったことになる。
わたくしが四年後に立たされるのも、たぶん同じ場所だ。
「失礼いたします」
わたくしは頭を下げて、天幕を出た。
外は暗かった。丘の上に星が出ていて、下では焚き火が小さく光っている。
膝が笑っていた。今日は、震えが終わってから来なかった。ずっと震えたままだった。
焚き火まで戻ると、ノエルが起きていた。
「駄目だったか」
「駄目でした」
「そうか」
彼はそれ以上訊かなかった。訊かずに、火に枝をくべた。
「なあ」
しばらくして、ノエルが言った。
「お前、なんで俺が板を持ってきたと思う」
「わたくしがやりそうだから、と」
「それもあるけど」
彼は火を見ていた。
「うちの父も、昔やってた」
わたくしは顔を上げた。
「書いてたんだよ。領地のこと、揉めたこと、日付つけて。俺が子どもの頃、毎晩書いてた」
「今も書かれていますか」
「やめた。領地を手放したときにやめた」
枝がはぜた。
「意味がなかった、って言ってた。書いても誰も読まないって」
わたくしは、火から目を離せなかった。
読まれなかった記録が、どこかにある。十年前、グレンヴィル家が領地を手放した年に書き終えられた記録が。
「ノエル。その帳面は、まだお家に」
「あると思う。捨てるような人じゃない」
「……見せていただけませんか」
「なんで」
わたくしは答えを探した。探して、見つからなかったので、正直に言った。
「まだ分かりません。ただ、読まれなかったものが読まれると、何かが変わることがあります」
ノエルはしばらく黙って、それから頷いた。
「帰ったら手紙を書く」
わたくしは毛布にくるまり、目を閉じた。閉じても、しばらく眠れなかった。
夜明け前、遠くで足音がした。目を開けると、ビアンカが毛布から起き上がり、丘の上のほうを見ていた。




