第十六話 「道は覚えています」
二日目の朝、水袋が二つ空になっていた。クラリスのものと、ジョゼットのものだった。栓が外れていて、中身は地面に染みていた。
「わたし、ちゃんと閉めたよ」
「わたしも」
双子が同時に言った。同時に言われると、なぜか信じたくなる。ノエルが水袋を拾い上げ、栓を見た。
「栓は無事だ。落として外れたなら傷が付く」
「じゃあ、誰かが」
ジョゼットが言いかけて、口を押さえた。
五人しかいない。そういう場所で、誰かが、という言葉は重い。
「わたし、見ました」
声がした。ビアンカだった。毛布を膝にかけたまま、彼女は座っている。顔は青い。
「夜明け前に、ヴァルトハイム様が水袋のところにいらっしゃいました」
空気が止まった。クラリスがこちらを見た。ジョゼットも見た。ノエルは、ビアンカを見ていた。
——来た。
一度目と同じだ。形が違うだけで、やり方が同じだった。誰かが「見た」と言い、髪の色や背格好が添えられ、それで終わる。
「ビアンカ様」
わたくしは、できるだけ静かに言った。
「わたくしが立っていたのは、どちらの方角でしたか」
「……荷物のところです」
「荷物は、どちらに置いてありました」
「焚き火の、右です」
わたくしは焚き火を見た。それから、荷物を見た。荷物は、焚き火の左にある。昨夜、ノエルが風上を避けて置いた。
「ノエル。荷はどちらに」
「左だ。俺が置いた」
ビアンカの肩が跳ねた。
「……暗かったので」
「暗かったのに、髪の色は見えましたか」
彼女は答えなかった。わたくしは、それ以上は言わなかった。言えば、この子を潰せる。潰しても、盤は変わらない。
そのとき、丘の下から声がした。
「三班——!」
草をかき分けて、人影が二つ登ってくる。一人は厨房のヨナスで、もう一人は。
「ミレイユ」
彼女は肩で息をしながら、板を一枚掲げた。
「書面、通りました」
ヨナスが六の鐘に事務室へ出し、事務室が受理し、学長の代理が編成替えの再考を認めた。書面はそのまま隊へ届ける手はずになったが、届けるには丘を越えなければならない。届ける人間が要る。
ミレイユが自分で歩いてきた、ということだった。
「歩いてきたのですか。地形図も無しに」
「地形図は無いですけど、道は覚えています」
わたくしは、しばらく声が出なかった。ヨナスは痩せた青年で、ずっと俯いていた。板を渡すとき、初めて顔を上げた。
「あの。俺、去年言えなかったんで」
それだけ言って、また俯いた。ミレイユが着いてから、班の空気が変わった。
双子が彼女を挟んで歩き、水を分け、乾麺麭を割った。ミレイユは戸惑っていた。分けてもらうことに慣れていない人の戸惑い方だった。
「あの、わたし、遅れて来たので」
「関係ないよ」
「関係ないない」
双子が同時に言った。
わたくしはビアンカを見た。彼女は少し離れて歩いている。誰も彼女を挟まない。挟まれないようにしているのは、彼女自身だった。
昼の休憩で、わたくしは彼女の隣に座った。逃げられる前に、荷を下ろすほうを先にした。
「オルセン様。今朝のこと、礼を申し上げます」
「……礼?」
「荷の位置を、正直におっしゃいました。嘘をつくつもりなら、左と言えばよかった」
ビアンカは、こちらを見なかった。
「わたし、嘘をついてます」
「今朝のことは、そうでしょう」
「今朝だけじゃないです」
声が小さかった。
「ずっと嘘をついてます。もう、どこからが嘘か分からなくなってます」
わたくしは、しばらく黙っていた。言うべきことは、たぶん一つしかなかった。
「分からなくなったところから、書き出してみられては」
「……書く?」
「はい。覚えていることを、日付順に。誰に何を言われたかを」
「そんなの、残ったら」
「残ったら、あなたを守ります」
彼女が初めてこちらを向いた。
「守らないです。残ったものは、いつもわたしを刺します」
「それは、あなたが書いたものではないからです」
ビアンカの唇が震えた。
「自分で書いたものだけが、自分を守ります。人に書いてもらったものは、書いた人のものです」
彼女は答えなかった。答えないまま、立ち上がって荷を担いだ。ただ、去り際に一度だけ、こちらを振り返った。
その日の午後、隊は道を失った。
霧が出た。丘の三つ目は稜線が広く、目印になる木が無い。行程表の線は霧の中では役に立たない。四班も五班も止まった。教官の天幕は先に降りていて、丘の上にはいなかった。
「北へ下れば川に出る」
「いや、東だろ」
「行程表は南東だぞ」
上級生たちが言い合っていた。誰も自信が無かった。ミレイユが、地面にしゃがんだ。
草を分け、土を見て、それから耳を澄ませた。長い時間ではない。十を数えるほどだった。
「あっちです」
彼女が指したのは、誰も言わなかった方角だった。
「根拠は」
訊いたのは、上級生の一人だった。声に棘があった。
「水の音がします」
「聞こえないぞ」
「聞こえないんじゃなくて、聞いてないだけです」
ミレイユは平然と言った。悪気はまったく無かった。上級生が黙った。
「それと、この草が全部そっちに倒れてます。風じゃなくて、水が出たあとの倒れ方です」
彼女は立ち上がり、歩き出した。誰も動かなかった。
わたくしが最初に一歩を踏み出した。次にノエルが。それから双子が。上級生たちは、しばらくしてからついてきた。
四半刻ほど歩くと、細い流れに出た。その流れをたどると、行程表の指定地点に出た。
誰も何も言わなかった。言葉より先に、みんな水を飲んだ。ミレイユは水辺にしゃがんで、手を洗っていた。
「ミレイユ」
「はい」
「あなた、すごい方ですね」
「文字は読めませんけど、道は覚えてます」
二度目に聞いても、同じ強さの言葉だった。その夜、教官の天幕に呼ばれたのは、わたくしではなくビアンカだった。
わたくしは天幕の外にいた。呼ばれてもいないのに立っていた。中の声は、布越しでもよく聞こえる。
「オルセン嬢。今朝の申し立てを、記録に残すかね」
「……いえ」
「取り下げるということかね」
「はい」
「理由は」
「見間違えました」
沈黙があった。羽根ペンの音がした。
「よろしい。取り下げとして記録する」
布の中で、椅子が鳴った。そして、ビアンカの声が続いた。
「あの、教官」
「なんだね」
「わたし、もうやりたくないです」
わたくしは息を止めた。
「何をかね」
「……教官が」
そこで、彼女の声が切れた。長い沈黙があった。羽根ペンの音は、もうしなかった。
「オルセン嬢」
ハイム教官の声は、いつもと同じ強さだった。
「言い直しなさい」
布の向こうで、何かが小さく動いた。
「……なんでもありません」
「そうか。下がりなさい」
入口の布が開く前に、わたくしは天幕の裏へ回った。
ビアンカが出てくる。俯いたまま、丘を降りていく。その手には、何も握られていなかった。
三週間持ち歩いた紙が、無くなっていた。




