第十七話 「帰り道の三人」
演習の帰り道は、行きよりずっと長く感じた。
三日ぶんの疲れが足に溜まっていて、丘を下るだけで膝が笑う。クラリスとジョゼットは途中から歌を歌い出し、上級生に静かにしろと言われて、小声で歌い続けた。
ビアンカは、最後尾を歩いていた。誰とも喋らず、荷を下ろさず、それでも一度も遅れなかった。
ミレイユは先頭にいた。
昨日まで演習に出ていなかった人が、今日は先頭にいる。誰もそれをおかしいと言わなかった。霧の中で誰の言うことを聞いたかを、全員が覚えているからだ。
「レティシア様」
ミレイユが振り返った。
「わたし、来年も出られますか」
「出ます」
「決まってないですよね」
「決まっていません。ですから、決めさせます」
彼女は小首を傾げ、それから前を向いた。学校の門が見えたとき、上級生の一人が言った。
「三班、記録係のところへ寄れ。水場の件を出しておけ」
言い方がぶっきらぼうだったので、最初は嫌味かと思った。違った。
彼は「去年、俺は出さなかった」と付け足して、さっさと歩いていった。
寮に戻り、汗を流して、ようやく人心地がついた。その足で、わたくしは記録係の詰所へ行った。
「南の水場の件を」
「聞いてるよ。四班も五班も来た」
彼は台帳を開いていた。すでに三行、書き込まれている。
「今年は多いね。例年は誰も来ない」
「誰も来ないのですか」
「来ない。面倒だからね」
羽根ペンが動いた。
「ただ、今年は最初のひとりが来た。最初のひとりが来ると、二人目は来やすい」
最初のひとり。
わたくしは、それが誰かを訊かなかった。訊くと、答えが自分になる気がした。
「記録係様。書いた記録は、どなたが読まれるのですか」
「読まん」
「え」
「誰も読まんよ。溜まるだけだ」
彼はあっさり言った。
「読まれないのに、書かれるのですね」
「読まれるときが来たときに、無いと困るからね」
わたくしは、その言葉を胸にしまった。
読まれないものを、読まれる日のために書き続ける人が、この学校に四十年いる。
一度目のわたくしは、この人と一度も口をきかなかった。
夕方、わたくしは中庭へ出た。石段にノエルが座っていた。三日前と同じ場所だった。
「お疲れさまでした」
「お前もな」
彼の隣に座る。日が長くなっていた。夏が近い。
「帰ったら手紙を書く、とおっしゃっていました」
「書いた。もう出した」
早い。
「父の帳面のことを訊いた。あと、返済のことも」
「返済」
「来年の分がいくらか。うちは、俺に金額を教えないんだよ」
彼は膝の上で手を組んだ。
「心配させたくないんだろうけど、金額を知らないと、どのくらい急ぐかも分からない」
わたくしは、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。
知らせないことは、優しさの形をしている。形をしているだけで、中身は違う。父に手紙を書かなかった一度目のわたくしも、同じことをしていた。
「ノエル。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「グレンヴィル家が領地を手放されたとき、お家に何か言い渡しはありましたか」
「言い渡し?」
「たとえば、取り潰しとか」
彼は少し黙った。
「無かったと思う。父は『売った』って言ってた」
「売られたのですね」
「そう聞いてる」
わたくしは膝の上で指を組んだ。
一度目、グレンヴィル家は取り潰された。取り潰しと、売却は違う。取り潰しは処分で、売却は取引だ。
十年前に売り、四年後に取り潰される。同じ家に二度、別の形で。
「ノエル。もし今、お家に取り潰しの話が来たら、どうなさいますか」
「来ないだろ、そんなの。うちはもう何も持ってない」
「持っていない家を潰す理由は、無いでしょうか」
彼はこちらを見た。
「……何を聞いた」
「何も聞いておりません。考えているだけです」
嘘ではなかった。半分は。
「持っているものを取るために潰すのではなく、持っていた記憶を消すために潰すことも、あるのではないかと」
ノエルは、長く息を吐いた。
「お前、ときどき怖いこと言うよな」
「申し訳ございません」
「謝るな。合ってる気がするから怖いんだ」
石段を離れる前に、ノエルが言った。
「なあ。演習の最後の日、お前、天幕の裏にいただろ」
心臓が跳ねた。
「……ご覧になっていましたか」
「見た。声はかけなかったけど」
「なぜ」
「かけたら、お前が動けなくなると思って」
わたくしは、しばらく黙った。
「オルセンの子、何か言ってたか」
「教官が、と言いかけて、やめました」
「言いかけたのか」
「ええ。言い直しなさい、と言われて、なんでもありませんと」
ノエルは膝の上で手を組み直した。
「怖いな、それ」
「怖いですか」
「怖いよ。怒鳴られるより怖い」
彼の言い方が、あまりに素直だったので、わたくしは少しだけ救われた。
怖いと思っているのが自分だけではなかった。それだけのことで、背中の力が抜ける。
「ノエル。あの方を、どう思われますか」
「ハイム教官か。うまい人だと思う」
「うまい」
「剣も、言い方も。あの人に注意されると、注意されたって気がしないんだ。手順の話をされてるだけみたいで」
手順の話。
わたくしにも、同じ言い方をした。
「気がつくと、こっちが間違ってたことになってる」
夜、部屋に戻ると、ミレイユが机に向かっていた。紙を前にして、炭を握っている。書こうとして、止まっている。
「何を書いていらっしゃるの」
「……名前です」
彼女は炭を置いた。
「ヨナスさんに、お礼を書きたくて」
「わたくしが書きましょうか」
「いえ。自分で書きたいです」
わたくしは頷いて、彼女の隣に椅子を置いた。
「では、教えます。お名前から」
「はい」
わたくしは紙に「ヨナス」と書いた。ミレイユがそれを見て、真似をした。線がぎこちない。それでも、形にはなっていた。
「上手です」
「嘘です」
「嘘ではありません。初めてでこれなら、上手です」
彼女は少し笑って、それからもう一度書いた。三度目には、だいぶ形が整った。覚えが早い。目で覚える人だ。
「次は、ご自分のお名前を」
「……えっと」
ミレイユは炭を持ち直した。そして、迷わずに書いた。ミレイユ・カルヴァン。
流れるような字だった。今しがた「ヨナス」を書いたのと、まるで違う手つきだった。躊躇いが無い。線の入りと抜きが揃っている。何百回も書いた人の字だった。
わたくしは、しばらく声が出なかった。
「ミレイユ」
「あ」
彼女は自分の手元を見て、それから炭を置いた。
「これだけ、書けるんです」
「これだけ」
「はい。名前だけ。ほかは書けません」
紙の上の文字を、わたくしは見つめた。細くて、右に少し倒れている。どこかで見た字だった。




