第十八話 「取り潰しという言葉」
返事は、四日で来た。
ノエルは食堂の隅で封を切り、読んで、そのまま動かなくなった。わたくしは向かいに座っていた。座ったまま、待った。
「……帳面は、ある」
しばらくして、彼は言った。
「あるが、見せられないそうだ」
「理由は」
「売るときの条件に、口外しないというのが入ってたらしい」
わたくしは息を吐いた。
売却の条件に口外禁止が入る。土地を売るのに、そんな条件は普通つかない。つくとしたら、土地以外のものを一緒に売ったときだ。
「ノエル。それから、ほかには」
彼は手紙を畳んだ。畳む手が、途中で止まった。
「取り潰しの打診が来てる」
食堂のざわめきが、遠くなった。
「打診」
「正式じゃない。使いが来て、家名を返上したらどうかと言われたらしい。返上すれば、残りの借りは帳消しにすると」
帳消し。
金で潰す形だった。誰も悪者にならない形だ。
「いつのことですか」
「先週」
先週。演習の最中だ。わたくしは机の下で指を組んだ。
一度目、グレンヴィル家が取り潰されたのは、わたくしが処刑されたあとだった。四年後だ。今、同じことが四年早く動いている。
早まった理由は、たぶんひとつしかない。わたくしが動いたからだ。
「ノエル」
「ん」
「ご家名を返上なさいますか」
「しない」
即答だった。
「父は迷ってる。でも俺はしない」
「理由を伺っても」
「返上したら、父が書いた帳面が、誰の帳面でもなくなる」
わたくしは顔を上げた。彼は手紙を上着に入れた。
「家が無くなったら、書いたやつも無くなる。そういうもんだろ」
「……ええ」
「だったら残す」
この人は、剣しかできないと言う。剣以外のところで、いつもいちばん正しい。
「ノエル。使いの方は、どちらから来られたのですか」
「オルセンの人間だ。名刺を置いていったって」
「名刺」
商家の使いが名刺を置く。丁寧なやり方だ。丁寧なやり方をする相手は、たいてい急いでいない。急いでいない相手は、断られる前提で来ている。
断られる前提で打診する理由は、ひとつしかない。断られた記録が欲しいのだ。
「ノエル。お家は、断りの返事をお出しになりましたか」
「まだだと思う」
「出さないほうがよろしいかもしれません」
「なんで」
「断りを出すと、『打診したが断られた』という記録が残ります。次に強い手を打つときの理由になります」
彼はしばらく考えて、それから頷いた。
「父に伝える」
「返事をしないのは失礼ですが、失礼は取り返せます」
「取り返せないのは家か」
「ええ」
ノエルは食器を寄せながら、ぽつりと言った。
「お前、そういうの、誰に習ったんだ」
わたくしは答えられなかった。習ったのではない。四年かけて、一度全部失ってから覚えた。
その日の午後、わたくしは事務室で入学者名簿をもう一度閲覧した。
三十六名。あとから足された六名。墨の色が違う六行。わたくしは、その六行の字をじっと見た。
整った字だった。細くて、右にわずかに倒れている。ミレイユ本人の書く「ミレイユ・カルヴァン」と、よく似ていた。
似ている、では足りない。わたくしは自分の手帳を出し、昨夜ミレイユが書いた名前を写したものを並べた。
線の入りが同じ。「ル」の抜きが同じ。「ヴ」の点の位置が同じ。同じ人の字だ。
つまり、ミレイユの名前を名簿に書いたのは、ミレイユ本人ではない。
誰かが書いた。そして、その同じ誰かが、ミレイユに自分の名前だけを書けるように教えた。
名簿に書いた字を、本人にも書けるようにしておく。そうしておけば、あとで「本人が書いた」と言い張れる。背筋が冷えた。
これは、優しさではない。仕込みだ。夕方、わたくしは寮の部屋でミレイユを待った。
彼女が戻ってきたとき、わたくしは自分の手帳を閉じた。訊き方を、ずっと考えていた。訊き方を間違えると、この人は閉じる。
「ミレイユ。お名前の書き方は、どなたに教わりましたか」
「……覚えてないです」
「いつ頃かは」
「村を出る前です。入学の書類を書くときに」
村の司祭が書いた、と彼女は前に言っていた。
「司祭様が教えてくださったの」
「違います」
「では」
「知らない人でした」
わたくしは、動かずに続きを待った。
「村に紙を持ってきた人がいて。募集の紙です。その人が、書類を書くのを手伝ってくれて。それで、名前だけは自分で書けたほうがいいって」
紙を持ってきた人。入学式の前日に、紙が二十束納入されている。支払欄は「別途」。
「その方のお顔は、覚えていらっしゃいますか」
「背が高かったです。あと、姿勢がまっすぐで」
彼女はそこで言葉を止めた。止めて、こちらを見た。
「レティシア様。なんで、そんなこと訊くんですか」
わたくしは、答えを選ぶのに時間をかけた。嘘はつきたくなかった。全部も言えなかった。
「あなたの名前が、名簿に、あなたの字で書かれています」
「わたし、書いてません」
「ええ。ですから、書いた人がいます」
ミレイユは自分の手を見た。
「……わたし、何かに使われてますか」
「まだ分かりません」
彼女はしばらく黙り、それから小さく言った。
「使われてても、ここにいられるなら、いいです」
わたくしは、その言葉を聞いて、胸の底が冷たくなった。
この人は、そう言うように育てられている。そう言う人ばかりを、六人ずつ、毎年集めている誰かがいる。
「ミレイユ」
「はい」
「よくありません」
わたくしは、はっきり言った。
「使われていていいことは、ひとつもありません。それはわたくしが保証します」
彼女は目を丸くして、それから、初めて泣きそうな顔をした。泣かなかった。泣き方も、たぶん忘れさせられている。
その夜、わたくしはミレイユと並んで机に向かった。
「書き方を、お教えします」
「名前は書けます」
「名前以外を、です」
炭を渡すと、彼女は困った顔をした。
「わたし、覚えが悪いので」
「昨日、ヨナス様のお名前を三度で覚えられました」
「あれは、レティシア様が書いてくれたので」
「では、これからもわたくしが書きます」
最初は、母音から始めた。次に、彼女の村の名前。それから、水、丘、道。彼女が実際に使う言葉から選んだ。
覚えは早かった。目で覚える人は、字も形として入るらしい。
「レティシア様。なんで教えてくれるんですか」
「あなたが書けるようになると、あなたの言い分が残ります」
「言い分」
「はい。人に書いてもらった言い分は、書いた人のものです」
昼にビアンカへ言ったのと、同じことだった。同じことを二人に言っている自分に気づいて、少しおかしくなった。
たぶん、わたくしが四年かけて学んだことは、それ一つしかない。
「ミレイユ。ひとつだけ、約束していただきたいことがあります」
「はい」
「あの方に、字を習っていることを言わないでください」
「あの方」
「あなたに名前をなぞらせた方です」
彼女は炭を置いた。
「……レティシア様は、誰か分かってるんですか」
「まだです」
嘘だった。
半分は本当だった。分かりかけていて、確かめていない。確かめる前に口に出すと、また堰を切ってしまう。
わたくしは待つと決めた。決めたばかりだった。
「分かったら、教えてくださいますか」
「ええ。必ず」
ミレイユは頷き、それからもう一度、炭を握った。




