第十九話 「先回りしない、という選択」
わたくしは、父に二通目の手紙を書いた。
グレンヴィル家に取り潰しの打診があること。返上と引き換えに借りを帳消しにする話であること。相手はオルセン商会であること。
そして、ヴァルトハイム家で借りを引き受けられないか、と書いた。
書きながら、指が速かった。速すぎた、と今なら分かる。返事は五日で来た。
《事情は分かった。ただし、他家の債務を公爵家が引き受けると、話が大きくなる。まず先方の意向を確かめる》
父らしい、慎重な書き方だった。慎重なのは正しい。正しいことをしたのに、四日後、事態は悪くなった。
ノエルが食堂で手紙を広げていた。今度は封を切る前から、顔が固かった。
「返済の期日が、繰り上がった」
「……繰り上がった」
「来年の春から、この秋になった」
わたくしは、椅子の背を掴んだ。
「理由は」
「書いてない。ただ、先方から『事情が変わったので』と」
事情が変わった。
わたくしの父が、オルセン商会に意向を確かめた。確かめられた側は、公爵家が動き出したことを知った。知って、急いだ。
わたくしがやったのだ。喉の奥が塞がった。何か言おうとして、言葉が出なかった。
「レティシア」
「……はい」
「顔が白い」
「なんでもありません」
なんでもないわけがなかった。わたくしは席を立って、廊下に出た。柱の陰で、しばらく呼吸を数えた。
先回りをした。
先回りが、相手に「気づかれた」という情報を渡した。
一度目のわたくしは、何もしなかった。何もしなかったから、期日は繰り上がらなかった。グレンヴィル家が潰れたのは四年後だった。
二度目のわたくしは、動いた。動いた結果、四年が半年に縮んだ。
助けようとして、早めた。膝が震えた。震えたまま、しばらく立っていた。
その日の午後、わたくしは事務室でエイドリアンとすれ違った。久しぶりに、彼のほうから足を止めた。
「レティシア」
「エイドリアン様」
「グレンヴィルの家の話、聞いた」
わたくしは身構えた。
「オルセンが期日を繰り上げたそうだね」
「……お耳が早いですね」
「僕の家も、あそこに借りがある。同じ知らせが来た」
彼は書類を抱え直した。以前より痩せて見えた。
「うちも繰り上がった。理由は書いていない」
同じだ。
オルセン商会は、グレンヴィル家だけを急かしたのではない。借りのある家を一斉に急かしている。
「エイドリアン様。それは、いつからですか」
「先週」
わたくしの父が意向を確かめたのが、先週だ。
「……申し訳ございません」
「なぜ君が謝る」
「わたくしの父が、オルセン商会に問い合わせをいたしました」
エイドリアンは、しばらくわたくしを見ていた。それから、乾いた笑いを漏らした。
「公爵家が動けば、商家は身構える。当たり前だ」
「ええ」
「君は、当たり前のことを知らないまま強くなったんだな」
その言葉は、皮肉としては正確すぎた。
「君は正しいことを正しくやる。でも、正しさは金の流れを止めない」
彼は歩き出しかけて、立ち止まった。
「……ひとつ教えておく。オルセンは、うちに金を貸したがっていた。返せない相手にわざわざ貸すんだ。おかしいと思わないか」
「返せない相手のほうが、都合がよろしいのですね」
「そうだ。返せない相手は、金以外のもので払う」
彼は今度こそ歩いていった。
わたくしはその背中を見送った。この人は敵だった。今も味方ではない。ただ、同じ川の下流にいることだけは分かった。
その夜、わたくしは机に向かって、何も書けなかった。
紙は白いままだった。次の一手を考えようとするたびに、それがまた何かを早めるのではないかと思った。
考えないほうがいいのではないか。動かないほうがいいのではないか。
——一度目のわたくしは、それで死んだ。
両方が本当だった。動けば早まり、動かなければ同じ場所に着く。どちらも駄目なら、どうすればいいのだろう。
「レティシア様」
ミレイユが寝台から声をかけた。
「眠らないんですか」
「眠れません」
「書くこと、無いんですか」
紙が白いままなのを見ていたらしい。
「書かないほうがいいような気がしております」
「珍しいですね」
彼女は起き上がり、床に足を下ろした。
「レティシア様、いつも先に書くのに」
「先に書いたら、悪くなりました」
言ってしまってから、言うつもりのなかったことだと気づいた。ミレイユは、しばらく黙っていた。
「うちの村、水が出るとき、上流の村が先に堰を切るんです」
唐突だった。
「切ると、うちは助かるんですけど、下の村が沈みます」
「……それは」
「だから、切るときは下に知らせてから切るんです。知らせずに切ると、次の年から水を分けてもらえなくなるので」
彼女は膝を抱えた。
「順番って、そういうことだと思います。速さじゃなくて」
わたくしは、白い紙を見た。
わたくしは、ノエルに知らせずに動いた。父に手紙を出したことを、彼に言っていない。
助けるつもりで、当人の頭越しに堰を切った。
だから、下が沈んだ。翌朝、わたくしは中庭でノエルを待った。彼が来たとき、わたくしは先に頭を下げた。
「わたくしのせいです」
ノエルは意味が分からない顔をした。
「父に手紙を出しました。ヴァルトハイム家で借りを引き受けられないかと。父はオルセン商会に意向を確かめました。期日が繰り上がったのは、そのせいです」
彼は、しばらく黙っていた。
「……勝手にやったのか」
「はい」
「なんで言わなかった」
「言えば、あなたが断ると思ったからです」
「断るよ。当たり前だろ」
声が少し強かった。この人が強い声を出すのは、初めて聞いた。
「うちの借りは、うちのものだ。お前が背負うもんじゃない」
「分かっております」
「分かってない」
彼は一歩近づいた。
「お前、また一人で決めただろ」
その言葉が、いちばん痛かった。
わたくしは何も言えなかった。言い訳をいくつも思いついて、どれも口に出さなかった。出したら、また同じことをする。
「……申し訳ございません」
「謝るなって言っただろ」
「では、どうすれば」
「次から、先に言え」
彼は息を吐いた。吐いてから、少しだけ肩を落とした。
「怒ってるのは、金のことじゃない。お前が一人で背負おうとしたことだ」
風が中庭を抜けた。若葉の匂いがした。
「ノエル」
「なんだ」
「秋までに、何か手を打ちたいのです」
「打つな」
わたくしは顔を上げた。
「え」
「今は打つな。お前が動くと、向こうも動く。それが分かったんだから、しばらく止まれ」
止まる。
先回りをやめる。
「……止まって、間に合いますか」
「分からない」
彼はあっさり言った。
「でも、走って崖に落ちるよりはいい」
わたくしは、深く息を吸った。
止まるというのは、何もしないことではない。動かずに見ている、という一手だ。一度目のわたくしは、それすらしなかった。
「——ええ。今回は、待ちます」
言葉にすると、思ったより静かな覚悟だった。




