第二十話 「書ける名前」
待つ、というのは思ったより難しかった。何もしないのではない。動かずに集める。それがわたくしの決めた形だった。
二週間で、わたくしは三つのことを集めた。
ひとつ。過去五年分の入学者名簿を、順に閲覧した。事務官はもう慣れて、こちらの顔を見ると台帳を出してくれるようになった。
五年分すべてに、あとから足された行があった。四年前は三名、三年前は四名、二年前は五名、去年は六名、今年は六名。合わせて二十四名。墨の色が違い、字は同じだった。
ふたつ。過去五年分の演習記録を数えた。参加者一覧の人数と、班の合計人数が合わない年が四年ある。差は、名簿にあとから足された人数と一致した。
演習に出ていない生徒が、出たことになっている。
みっつ。過去五年分の備品台帳から、支払欄が「別途」となっている行を抜いた。全部で九件。すべてオルセン商会。すべて紙。すべて、名簿が書き換えられた前後の日付だった。
三つを机に並べて、わたくしはしばらく動けなかった。
毎年、六人前後の生徒が合格し、名簿に足され、班に入れられず、演習に出たことにされ、二年で辞めていく。
その手続きに使う紙は、オルセン商会が納め、学校の会計ではない誰かが払っている。
仕組みだった。
仕組みには、必ず作った人がいる。作った人は、たいてい一人だ。
「レティシア様」
ミレイユが部屋に入ってきた。手に紙を持っている。
「書けました」
差し出されたのは、ヨナスへの礼状だった。三行だけ。線はまだぎこちない。それでも、全部彼女の字だった。
「立派です」
「立派じゃないですけど、自分で書きました」
彼女は照れくさそうに紙を裏返し、それからまた表に戻した。癖だ。わたくしは、その紙を見ていて、あることに気づいた。
三行の字と、彼女が書く「ミレイユ・カルヴァン」が、まるで違う。
今日の字は、太い。線の入りが不揃いで、抜きが甘い。初めて書く人の字だ。
名前だけが、細くて、右に倒れている。
「ミレイユ。もう一度、お名前を書いていただけますか」
彼女は炭を取り、書いた。流れるような字だった。
「その書き方は、どうやって覚えられたのですか」
「なぞりました」
「なぞる」
「はい。紙にお手本があって、その上をなぞって。何十回もやりました」
お手本。
「そのお手本は、どちらに」
「持ってません。その人が持って帰りました」
持って帰った。
当然だ。お手本を残せば、字が二種類あることになってしまう。
わたくしは机の上の名簿の写しを見た。写しは取れないので、手帳に書き写したものだ。写しであっても、線の癖は残る。
あとから足された六行。三年分すべて、同じ字。その字は、ミレイユが「なぞって覚えた」字と同じだった。
つまり、名簿に生徒の名前を書いた人が、その生徒に自分の書いた字をなぞらせている。全員に。五年分、二十数人に。
なぜそんな手間をかけるのか。答えは、ひとつしか思いつかなかった。
いつか誰かが名簿を疑ったとき、「本人が書いたのだ」と言えるようにするためだ。
本人の前に紙を置いて「書いてみなさい」と言えば、本人は同じ字を書く。
完璧だった。
完璧すぎて、気持ちが悪かった。辞めていった生徒の名前も、わたくしは書き写した。
四年前の三名。三年前の四名。二年前の五名のうち三名。去年の六名のうち五名。合わせて十五名。
どこへ行ったのかは、記録に無い。退学の理由欄は、全員「一身上の都合」だった。
「事務官様。退学の理由は、本人が書くのですか」
「書式に丸をつけるだけだよ。一身上の都合、家庭の事情、学業不振。三つしかない」
「ほかの理由の方は」
「三つのどれかに入れる」
三つしかない箱に、二十人分の事情が入れられている。箱を三つしか作らないというのは、それ自体がひとつの決定だった。
「事務官様。退学した方の連絡先は」
「無い。届け出は任意でね」
わたくしは頁を閉じた。
十五人が、この学校に合格し、名簿に足され、班に入れられず、二年で消えた。
消えた先は、誰も知らない。知る必要が無いように、書式が作られている。
残っている人もいる。二年前の二名と、去年の一名。ヨナスはその一人だ。残った人は、演習に出ないまま、三年目を迎えている。
わたくしは自分の手帳に、その十五名の名前を全部書いた。時間がかかった。書きながら、何度か手が止まった。
この人たちは、たぶん誰にも数えられていない。
数えるだけでは、何も変わらない。それでも、数えられていない人を数えることが、いちばん最初の一手であることは知っていた。
一度目のわたくしを、誰も数えなかったからだ。
その日の夕方、わたくしは回廊の詰所へ行った。
「記録係様。ひとつお願いがございます」
「また台帳かい」
「いいえ。教官方の署名を見たいのです」
彼は顔を上げた。
「署名?」
「備品の受領書に、受け取った方の署名が入ります。あれを拝見したくて」
「あるよ。倉庫の帳面だ」
彼は少し考えて、それから立ち上がった。
「持ってきてやる。ただし、写すのは駄目だ」
「拝見するだけで結構です」
帳面は分厚かった。受領の日付と、品目と、署名が並んでいる。わたくしは、名簿が書き換えられた日の前後を探した。
入学式の前日。紙、二十束。署名欄に、名前があった。細い字。右にわずかに倒れている。F・ハイム。
わたくしは、帳面から目を離せなかった。頭の中で、線が全部つながった。
紙を納めさせたのは彼だ。払ったのも彼だろう。名簿を書き換えたのも、生徒に名前をなぞらせたのも。
ミレイユの村に募集の紙を持っていった、背が高くて姿勢のまっすぐな人も。
そして、ビアンカが三週間持ち歩いていた、折り目三つの紙を書いたのも。細くて、右に倒れた字だった。
「お嬢さん」
記録係が言った。
「顔が白いよ」
「……失礼いたしました」
「無理はするな。わしはこの学校で四十年、無理をした子を何人も見た」
彼は帳面を閉じた。
「見て、何もしなかったがね」
わたくしは顔を上げた。記録係の目は、台帳を見ているときと同じ静かさだった。
「今からでも、してくださいますか」
「何をだね」
「書いてください。今日、わたくしがこの帳面を見たことを」
彼はしばらくこちらを見て、それから羽根ペンを取った。
「時刻は、行の頭と末尾に二度書くよ」
「お願いします」
羽根ペンが動く音を、わたくしは黙って聞いていた。
「記録係様」
「なんだね」
「四十年、ここにいらっしゃると」
「そうだね」
「ハイム教官が来られたのは、十年前と伺いました」
ペンが、少しだけ止まった。
「そうだ」
「その前は、どなたが実技を」
「レナールという人だ。三年で辞めた」
「理由は」
彼は書き終えて、墨入れの蓋を閉めた。
「一身上の都合、と書いてある」
三つしかない箱の、ひとつ目だった。
「記録係様は、それをどうお思いに」
「思わんよ。わしは書くだけだ」
同じ答えだった。二度目に聞くと、少し違って聞こえた。書くだけだと言い続ける人は、書くことをやめない人でもある。
「ひとつだけ、教えてくださいますか」
「なんだね」
「読まれる日が来ると、思っていらっしゃいますか」
彼はしばらく黙った。
「来ないと思って書いとる」
「では、なぜ」
「来たときに、無いのが嫌でな」
わたくしは深く頭を下げた。
「頭を下げるな。わしは何もしとらん」
「してくださいました。四十年」
詰所を出ると、外はもう暗かった。
廊下の窓に、自分の顔が映っている。四年前より、少しだけ痩せた顔だった。四年前ではない。四年後だ。
どちらでもいい、と思った。今のわたくしは、ここにいる。




