第二十一話 「筆跡」
筆跡は、証拠になりにくい。それを教えてくれたのは、意外にもクラリスだった。
「うち、三年前に姉のことで揉めたとき、手紙の筆跡でやり合ったんです」
「勝たれましたか」
「負けました。似てるってだけじゃ駄目なんですって。同じ人が書いたって言い切れる人がいないと」
言い切れる人。
「どういう方でしょう」
「筆跡を見る仕事の人がいるらしいです。王都に。でも高いって」
金で買える証明は、金のあるほうが買う。
わたくしはヴァルトハイム公爵家の娘だ。金はある。ただ、父に頼めば、また堰を切ることになる。
待つと決めていた。
「クラリス様。似ているだけでは駄目なら、何があれば駄目でなくなりますか」
「え?」
「筆跡以外に、同じ人だと言えるものです」
クラリスは唸った。ジョゼットが横から口を出した。
「日付じゃない?」
「日付」
「うち、姉のときもそうでした。手紙の日付と、相手が別のところにいた日が重なって、それでこっちが疑われたんです」
双子は、この手の話に妙に強い。三年間ずっと、家の中でその話を聞いてきたからだろう。
日付。
わたくしは自分の手帳を開いた。
わたくしが集めたものには、すべて日付がある。
名簿が書き換えられた日。紙が納入された日。受領書に署名された日。演習の編成替えが通達された日。ミレイユの村に募集の紙が届いた日。
筆跡が同じかどうかは、専門家でなければ言えない。しかし、日付が重なるかどうかは、誰にでも数えられる。
その日から三日、わたくしは日付だけを並べ直した。
五年分。九件の「別途」払い。五回の名簿書き換え。四回の演習記録の齟齬。並べると、順序が見えた。
まず紙が納入される。二日から四日のうちに、名簿が書き換えられる。その一週間から十日後に、演習の編成替えが通達される。翌年の春、その生徒たちが辞める。
五年、同じ順序だった。
順序があるということは、手順があるということだ。手順があるということは、手順書があるということだ。
わたくしは、ビアンカの折り目三つの紙を思い出した。
あれは、手順書だ。「突き飛ばされたと言う」ための手順ではなく、もっと前から使われている、何かの手順を書いた紙。
四日目、わたくしは事務室で最後のひとつを見つけた。
オルセン商会の納品書だった。備品台帳とは別に、商家から出された控えが綴じられている。事務官が「そんなものまで見るのか」と呆れながら出してくれた。
入学式の前日の納品書。紙、二十束。その裏面に、鉛筆の薄い書き込みがあった。《六名分。例年どおり》
細くて、右に倒れた字だった。わたくしは、その一行を長いこと見ていた。
例年どおり。
商家の納品書の裏に、そう書ける立場の人がいる。
書き込みを見つけた日の夜、わたくしはミレイユに字を教えながら、考えていた。証拠は揃いつつある。揃っているのに、動けない。
動けば、また堰を切る。ノエルの家の期日が繰り上がったように、誰かの足元が沈む。
今度沈むとしたら、ミレイユだ。彼女の名前は名簿に書き足された六名のひとつで、名簿が問題になれば、真っ先に「入学の適格性」を疑われるのは彼女のほうだ。
仕組みを暴くと、仕組みに使われた人が先に落ちる。それが、この手順のいちばん残酷なところだった。
「レティシア様」
「はい」
「手が止まってます」
「……失礼しました」
わたくしは炭を持ち直した。
「ミレイユ。ひとつ伺います」
「はい」
「もし、あなたの入学が取り消されるかもしれないとしたら、それでも本当のことを明らかにしたいと思われますか」
彼女は、しばらく考えた。長く考えた。
「取り消されたら、村に帰りますか」
「たぶん」
「じゃあ、帰ります」
あっさりしていた。
「でも、帰る前に知りたいです」
「何をですか」
「わたしが、なんでここに入れたのか」
彼女は炭を置いた。
「わたし、ずっと思ってました。試験、たいしてできなかったのに、なんで受かったんだろうって。実技は自信ありましたけど、それだけで受かるほど甘くないって、村の人も言ってたので」
声は平らだった。
「使われてたなら、使われてたって知りたいです。知らないまま帰るのは、嫌です」
わたくしは頷いた。
「分かりました」
「レティシア様も、知りたいですよね」
「ええ」
「じゃあ、一緒ですね」
彼女は少し笑って、また炭を握った。夕方、わたくしはビアンカ・オルセンを探した。
彼女は洗濯場の裏にいた。演習から戻ってからずっと、そこにいることが多い。人が来ないからだろう。
「ビアンカ様」
彼女は逃げなかった。逃げる素振りもしなかった。ただ、こちらを見た。
「……何か」
「お願いがあって参りました」
「お願い」
「あなたに、証言していただきたいのです」
ビアンカの目が、わずかに揺れた。
「何のですか」
「あなたが誰に、何を教わったかです」
彼女は俯いた。長い沈黙だった。
「……言ったら、わたし、どうなりますか」
「分かりません」
嘘は言わなかった。
「守ると申し上げたいのですが、守り切れるとは限りません。わたくしにできるのは、あなたの言葉を、あなたの言葉のまま残すことだけです」
「それだけですか」
「それだけです」
ビアンカは笑った。乾いた笑いだった。
「みんな、守るって言うんです。守るって言って、みんな守らないんです」
「ええ」
「レティシア様は、守らないって言うんですね」
「守れると言えないので」
彼女はしばらくこちらを見ていた。
「……あの紙、返しました」
「演習の最後の夜に」
「はい。返せって言われたので」
「返す前に、写しは」
ビアンカが顔を上げた。
「……写し?」
「取っていらっしゃいませんか」
彼女は首を振った。
「わたし、字が書けるって言っても、あんなに難しい言葉、写せません」
そこで、彼女は言葉を切った。切って、少しだけ息を吸った。
「でも」
「はい」
「覚えてます。全部」
わたくしは、動かなかった。
「毎日読まされたので。間違えないようにって。だから、覚えてます」
風が洗濯物を鳴らした。
「ビアンカ様」
「はい」
「明日、それを紙に書いていただけますか」
「わたし、書くの遅いです」
「何時間かかっても構いません」
「……人が来ないところがいいです」
わたくしは頷いた。
「図書室の奥をお借りします。立会人は、司書のマルグリット先生に」
「先生も、読むんですか」
「読みません。あなたが書いたということだけを、見ていただきます」
ビアンカは、洗濯籠の縁を握った。
「レティシア様」
「はい」
「わたし、あなたのこと、嫌いでした」
「存じています」
「今も、あんまり好きじゃないです」
「結構です」
彼女は少しだけ笑った。今日、初めて笑った。
「明日、行きます」




