第二十二話 「庇う人がいない場所」
ビアンカは、来なかった。
図書室の奥で、わたくしは半日待った。マルグリット先生が三度、様子を見に来た。三度目に「今日はもうお帰り」と言われた。
寮の彼女の部屋を訪ねると、同室の生徒が「朝から見ていない」と言った。厨房にも、洗濯場にも、演習場にもいなかった。
夕方、四班の生徒が教えてくれた。
「オルセンさん、教官室に呼ばれてたよ。昼前」
昼前。
図書室でわたくしが待っていた時間だ。
わたくしは教官室へ向かった。扉は開いていた。中には誰もいなかった。机の上には、何も出ていない。いつもと同じだった。
廊下を戻る途中で、足が止まった。
誰かが、昨日のわたくしとビアンカの話を知っている。洗濯場の裏には、誰もいなかった。少なくとも、わたくしは誰も見なかった。
見なかったからいなかった、とは限らない。一度目のわたくしを罪に落とした人たちも、たぶんそうやって聞いていた。
その夜、ビアンカは寮に戻った。
廊下で見かけたとき、彼女は俯いて歩いていた。声をかけると、立ち止まった。立ち止まったが、顔は上げなかった。
「ビアンカ様」
「……ごめんなさい」
「謝らないでください」
「書けません」
彼女の声は、震えていなかった。震えるより前の段階の、平らな声だった。
「家に、話が行くそうです」
「オルセン商会に」
「はい。わたしが要らないことを言うなら、うちの取引を見直すって」
わたくしは目を閉じた。金で潰す形だ。誰も悪者にならない形。ノエルの家に来た打診と、同じ手だった。
「わたし、家の役に立つために来たんです」
ビアンカが言った。
「オルセンは新しい家で、貴族じゃないから。学校に娘を入れると、格好がつくって。それだけのために来ました」
「ええ」
「だから、家の取引が減るなら、わたしがここにいる意味がありません」
筋の通った話だった。通っているからこそ、逃げ道が無い。
「ビアンカ様。書かなくて結構です」
「……え」
「書けと申し上げたのは、わたくしです。書けない事情ができたなら、それはわたくしの見通しが甘かったということです」
彼女はようやく顔を上げた。
「怒らないんですか」
「怒って、あなたの家の取引が戻るなら怒ります」
ビアンカの目が、少し赤かった。泣いたあとの赤さだった。
「レティシア様は、変です」
「よく言われます」
「みんな、わたしを庇うか、責めるかのどっちかなんです。庇う人は、庇ったぶん何かさせます。責める人は、責めて終わりです」
彼女は袖で目をこすった。
「どっちでもない人、初めてです」
わたくしは、何も言わなかった。
「あの手順書、ひとつだけ言います」
「無理をなさらなくて」
「ひとつだけです。全部は言いません」
彼女は深く息を吸った。
「一番上に、こう書いてありました。『必ず本人に言わせること』」
わたくしは、その一行を頭に刻んだ。必ず本人に言わせること。
ミレイユに、自分の名前を書かせる。ビアンカに、突き飛ばされたと言わせる。辞める生徒に、一身上の都合と丸をつけさせる。
全部、同じ一行から出ている。本人にやらせれば、やらせた人の名前は、どこにも残らない。
「ビアンカ様。ありがとうございます」
「わたし、何もしてません」
「一行、教えてくださいました」
彼女は首を振って、自分の部屋へ入っていった。部屋に戻ると、ミレイユが起きていた。
「ビアンカさん、大丈夫でしたか」
「大丈夫ではありません」
「そうですか」
彼女は寝台の上で膝を抱えた。
「レティシア様。わたし、ビアンカさんのこと、ちょっと分かります」
「どういうところが」
「うち、村を出るとき、司祭様に『村の名前を出すな』って言われました」
わたくしは椅子を引いて、腰を下ろした。
「なぜでしょう」
「わからないです。でも、村の名前を出したら村が困るって言われたら、出せないので」
同じだった。
家が困る、村が困る、取引が減る。全部、その人自身のことではないものを人質にしている。
人質の取り方が、うまい。うますぎて、恨む相手が見つからないようにできている。
「ミレイユ。あなたの村の名前を、わたくしは知りません」
「言ってないので」
「今も、伺いません」
「……ありがとうございます」
彼女は膝に顎を乗せた。
「でも、いつか言えるようになりたいです」
わたくしは、その言葉を胸に置いた。
いつか言えるようになる。それは、たぶんわたくしが四年後に取り戻したかったものと、同じ形をしていた。
中庭へ出ると、ノエルが石段にいた。わたくしは隣に座り、しばらく黙っていた。
「駄目だったか」
「駄目でした」
「そうか」
彼はそれ以上訊かなかった。膝の上で、わたくしは懐中時計を握っていた。無意識だった。気づいたときには、蓋を開けていた。
「その時計、裏も開くのか」
ノエルが言った。わたくしは手を止めた。裏蓋を開けていた。母の字と、自分の字が並んでいる。
「……ええ」
「日付が書いてある」
隠せなかった。隠す言い訳を考える速さが、今日は足りなかった。
「ふたつある。上のは古い字だな」
「母の字です。わたくしの生まれた日です」
「下は、お前の字だ」
彼は覗き込んでいなかった。見えた範囲で、そう言っただけだった。
「その日、何がある」
わたくしは、答えられなかった。
言えば、この人は傘を持つ。四年後の雨の日まで、ずっと。言わなければ、この人は何も知らないまま、人垣の後ろで剣を抜く。
どちらも駄目だった。どちらも駄目なら、間を取るしかない。
「……何かがある日です」
わたくしは言った。
「わたくしが、いちばん怖い日です。何が起きるかは、申し上げられません」
「申し上げられないのか、言いたくないのか」
「言えば、あなたが動きます」
「動くよ」
彼は即答した。
「動くに決まってる」
わたくしは、膝の上の時計を見た。
「だから、申し上げられません」
長い沈黙があった。夜の風が、若葉を鳴らした。
「レティシア」
「はい」
「その日、俺はどこにいればいい」
息が止まった。
彼は、何があるのかを訊かなかった。どこにいればいいか、だけを訊いた。
「……なぜ、それを」
「お前が言えないことは、聞かない。でも、居場所くらいは決めさせろ」
わたくしは、時計の蓋を閉じた。かちり、と音がした。
「近くにいてください」
言ってしまってから、自分で驚いた。
遠ざけるべきだった。四年、ずっとそう決めていた。決めていたのに、口から出たのはその言葉だった。
「分かった」
ノエルは、それだけ言った。訊き返しもしなかった。わたくしは膝を抱えて、しばらく星を見ていた。
明日、証言は取れない。取れないまま、進むしかない。




