第二十三話 「あなたの言葉で読んでください」
証言が取れないなら、証言の要らない形にするしかなかった。わたくしは三日かけて、一枚の紙を作った。
左の列に日付を並べる。右の列に、その日に起きたことを書く。それだけの紙だった。誰かの言葉はひとつも入れない。全部、学校の台帳に書かれていることだけを写した。
五年分。四十七行。
書き終えて読み返すと、順序が声を上げていた。
紙が納入され、名簿が書き換わり、編成替えが通達され、翌春に生徒が辞める。五回とも同じ順序で、同じ間隔だった。
解釈は一行も書かなかった。書けば、それはわたくしの言葉になる。わたくしの言葉は、四年後に一度も聞かれなかった。
台帳は、聞かれる。
わたくしはその紙を三通、写した。一通を学長宛の書面に添え、事務室へ出した。
一通を回廊の記録係に預けた。「読まれる日が来たときのために」と言ったら、彼は初めて笑った。最後の一通は、自分で持った。
紙を出す前に、わたくしはノエルに見せた。
「先に言え、とおっしゃいましたので」
彼は石段に座って、四十七行を上から下まで読んだ。時間がかかった。読むのが遅いのだと、前に言っていた。
「これ、うちの名前は出るか」
「出ません。グレンヴィル家のことは一行も書いておりません」
「なんで」
「関係が証明できていないからです」
嘘ではなかった。ただ、それだけでもなかった。
「……あと、あなたのお家が巻き込まれると、期日がまた繰り上がります」
ノエルは紙を膝に置いた。
「それを先に言え」
「申し訳ございません」
「謝るな。言えばいい」
彼は紙を返した。
「出せよ。俺は近くにいる」
その一言で、指の震えが止まった。書面を出した翌々日、わたくしは学長室に呼ばれた。
部屋には三人いた。学長と、事務長と、フォルカー・ハイム教官。
「ヴァルトハイム嬢。この書面は、君が作ったのかね」
学長は白髪の老人で、声が小さかった。
「はい」
「四十七行、すべて台帳の写しだと」
「はい。出典は各行の末尾に記しております」
「解釈は書いていないね」
「書いておりません」
学長は紙を持ち上げ、光にかざすようにして眺めた。
「なぜ書かない」
「わたくしが解釈を書くと、この紙はわたくしの主張になります。主張は、賛成か反対かで扱われます」
わたくしは、一度息を継いだ。
「事実の並びは、賛成も反対もできません」
部屋が静かになった。
「ハイム教官」
学長が呼んだ。
「この並びについて、説明はあるかね」
「あります」
教官の声は、いつもと同じ強さだった。
「編成外の生徒は、実技経験が不足しています。演習に出せば班全体の危険が増す。したがって編成しない。これは毎年の判断です」
「演習記録に参加者として載っているのは」
「一覧は在籍者の一覧です。参加者の一覧ではありません」
わたくしは口を挟んだ。
「表題には『参加者一覧』とございます」
「表題が実態と違うなら、表題を直すべきだね」
その返し方を、わたくしは知っていた。
書かれていることと行われていることが違うとき、この人は「書かれているほうを直す」と言う。それで、行われていることは一度も変わらない。
「紙の納入については」
「学校の予算が不足したので、私が立て替えました。領収は取ってあります」
彼は懐から紙を出した。実際に持ってきていた。
「毎年、六名分の名簿を書き足すために、ご自分で紙を買われたのですか」
「事務の紙が足りないときは、そうしています」
嘘ではない。たぶん、一行も嘘ではない。わたくしは、最後の一手を出した。
「教官。ひとつだけ、伺わせてください」
わたくしは、自分の手帳を開いた。
「ミレイユ・カルヴァンの村に募集の紙をお持ちになったのは、あなたですか」
部屋の空気が、わずかに動いた。
「募集は各領に配布している。私が配ることもある」
「配るだけでなく、書類の代筆をなさいましたか」
「字の書けない者の書類は、誰かが書くしかない」
「そのとき、本人に名前をなぞらせましたか」
彼は、答えなかった。
一拍だった。
その一拍を、部屋の全員が聞いた。
「なぜ、なぞらせる必要があったのでしょう」
わたくしは続けた。
「代筆でよいのなら、代筆と書けば済みます。書式に代筆欄がございます。わたくしは五年分の書類を見ましたが、代筆と書かれたものは一件もありません。全員が自分で書いたことになっています」
学長が、紙を置いた。
「ハイム君」
「……手続きを簡便にするためです」
「簡便に」
「はい」
簡便に。
二十数人分の人生が、その一語に入っていた。
「教官。もうひとつだけ」
わたくしは手帳を閉じた。
「あなたは以前、わたくしにこうおっしゃいました。記録を武器にするなら、自分の記録も同じだけ残しなさい。空白はいくらでも書き足せる、と」
「言った」
「あなたの記録には、空白があります。代筆欄です」
彼は、初めてわたくしを正面から見た。
長い時間だった。その目には、怒りも焦りも無かった。あるのは、書類の不備を見つけたときと同じ、事務的な確認の色だけだった。
「よく調べましたね」
彼はそう言って、微笑んだ。背筋が、粟立った。学長が咳払いをした。
「ハイム君。代筆欄の件は、監査を入れる。事務長、王都へ照会を」
「はい」
「ヴァルトハイム嬢。ご苦労だった」
わたくしは頭を下げ、部屋を出た。
廊下に出て、扉が閉まってから、壁に手をついた。膝が笑っていた。震えは、いつも終わってから来る。
勝ったのだろうか。
勝ってはいない。監査が入るだけだ。監査は時間がかかる。時間がかかるあいだに、書類はいくらでも整えられる。
それでも、掲示板に貼られる紙が一枚増えた。増えた紙は、消えない。寮へ戻ると、ミレイユが待っていた。
「レティシア様」
「はい」
「ハイム教官が、廊下でわたしに話しかけました」
わたくしは足を止めた。
「なんと」
「『君の名前は、よく書けている』って」
彼女は小首を傾げていた。意味が分からない、という顔だった。
わたくしには分かった。あれは褒め言葉ではない。覚えているぞ、という合図だった。
その夜、わたくしは四十七行の最後の一通を机に広げた。
監査が入る。書類は整えられる。整えられれば、この四十七行は「整った書類の写し」に変わる。
だから、次に要るのは台帳の外にあるものだ。
台帳の外にあるもの。
わたくしは目を閉じ、四年後の朝を思い出そうとした。雨。人の輪。膝の下の石畳。右手に握り込んだ、折り目のついた厚い紙。
厚い紙。
名簿は厚い。台帳から抜き取った一葉なら、厚い。
一度目のわたくしは、書き換えられる前の名簿を持っていたのではないか。
書き損じは普通、燃やす。燃やさなかった一葉が、どこかにあった。
どこで手に入れたのだろう。
思い出そうとすると、いつものように頭の芯が痛んだ。ただ、今日は少しだけ像が動いた。
誰かから渡された気がする。渡した手が、細かった。
窓の外で、鐘が鳴った。
わたくしは机の抽斗から、母の懐中時計を出した。蓋を開ける。針は止まっている。止まったままの針を見ながら、日付を数えた。
あの日付まで、あと二十日。四年後の日付ではない。同じ月日の、今年のぶんだ。
一度目、その日にわたくしは初めて査問を受けた。名簿のことを問われ、何も言えないまま部屋を出された。あの日から四年かけて、罪状は形になった。
起点は、処刑の日ではない。
二十日後だ。




