第八話 「借りのある人」
「三班の編成に、意見がある」
エイドリアンは、そう言って演習場の中央まで来た。三班の六人が振り返る。双子が顔を見合わせ、男爵家の子息が一歩下がった。
「一班の方が、三班に何のご用でしょう」
わたくしが訊くと、彼は書類を差し出した。
「実技評価の合算だ。三班は平均が下から二番目になる。編成の均衡が取れていない」
「均衡について、規程に定めはございません」
「慣例だ」
慣例。昨日ハイム教官が使ったのは「実務」で、今日エイドリアンが使うのは「慣例」だった。どちらも、紙に書かれていないものを根拠にする言い方だ。
「ではハイム教官にお願いなさってください。編成は教官の推薦によると規程にあります」
「教官には話してある」
「なんとおっしゃいましたか」
「……検討する、と」
嘘だ、と思った。
あの人は「検討する」とは言わない。昨日、わたくしの申し出には即座に是非を返した。是非を返せる人は、迷う理由が無いときに迷ったふりをしない。
「エイドリアン様。なぜ三班を気になさるのですか」
「君が心配なんだ」
「一昨日、後悔するぞとおっしゃいました」
「あれは……」
彼はそこで詰まった。詰まったあと、書類を下ろした。
「レティシア。父上から、婚約解消の件で手紙が来た」
「そうですか」
「君の父上が、もう受理なさったそうだ」
胸の内側で、何かがほどけた。父は、四行の手紙を読んで、受理した。理由を問い返さずに。
「早いのですね」
「早すぎる。普通は家同士で調整する。半年はかかる」
「父は、そういうことを嫌う人です」
嫌う人だと、今はじめて言葉にした。母が死んだあと、父は葬儀の段取りを一日で決めた。周りが「せめて七日は」と言うのを聞かずに。あのとき、わたくしは父を冷たいと思った。冷たかったのではなく、伸ばしても誰も救われないことを知っていただけかもしれない。
「困る」
エイドリアンが言った。声が低かった。
「何がお困りに」
「……いや」
彼は書類をたたみ、背を向けかけた。そこで、双子の妹のほうが小声で姉に言った。
「ロシュフォールって、去年うちに借りの申し込み来てなかった?」
「来てた来てた。断ったやつ」
エイドリアンの足が止まった。止まったのは一拍だけで、彼はそのまま歩き去った。
その一拍を、わたくしは見ていた。その日の午後、双子の姉に話を聞いた。
彼女の名はクラリスといい、妹はジョゼットといった。区別がつかないと言ったら、クラリスが「姉のほうが先に喋る」と教えてくれた。実際そのとおりだった。
「借りの申し込みって、あの、お金の」
「そう。去年の冬。うち、商会と付き合いがあるので」
「断られたのですね」
「父が断りました。ロシュフォールは領地が痩せてるから、返ってこないって」
侯爵家の名が、そんなふうに言われる場に、わたくしは一度も居合わせたことがなかった。公爵令嬢の耳には、そういう話は入ってこない。入ってこないようにできている。
「クラリス様は、お詳しいのですね」
「姉が三年前に婚約を切られたので。切った側の家のことを調べてるうちに、そういうのばっかり覚えました」
彼女はけろりと言った。
「切られた理由は」
「うちより金のある家から話が来たから。それだけです」
それだけ、と彼女は言った。言い方が乾いていた。乾かせるまでに、三年かかったのだと思う。
「レティシア様が婚約を切ったって聞いたとき、姉が泣いたんですよ」
「……なぜ」
「そういうこともできるんだって。知らなかったって」
わたくしは何と言えばよいのか分からず、頭を下げた。
「やめてください、公爵令嬢が」
「頭は下げていません。お礼を申し上げただけです」
「同じですよ、それ」
クラリスは笑った。夕方、わたくしは事務室へ行った。
「事務官様。学校への納品記録は、閲覧できますか」
「備品台帳のことかい。閲覧はできるが、面白いものじゃないよ」
「面白くなくて結構です」
台帳は分厚かった。紙、蝋、薪、麦、革。日付と品目と、納めた商家の名前が並んでいる。
わたくしは入学式の前後をめくった。名簿が作られたのは入学式の前日だ。
前日の頁。
紙、二十束。納入、オルセン商会。
オルセン。
ビアンカの家だ。
指を止めたまま、しばらく動けなかった。
商家が学校に紙を納めるのは、何もおかしくない。紙は毎月要る。前の月にも、その前にもオルセン商会の名前がある。
ただ、前日の二十束だけ、支払いの欄が違った。ほかの行には「学校会計より」と書いてある。その行だけ「別途」とある。
「事務官様。この『別途』というのは」
「ああ、それは学校の金じゃないってことだ。誰かが個人で払った」
「どなたが」
「そこまでは書かない。書く欄が無いんだ」
書く欄が無い。
書く欄が無いところに、いつも大事なことが落ちている。
「事務官様。『別途』と書かれた行は、ほかにもございますか」
「探せばあるだろうね。多くはないよ」
「探していただけますか」
「……あんた、人を働かせるのがうまいね」
彼はぼやきながらも、頁を繰り始めた。四半刻ほどかけて、三箇所が見つかった。
三年前の秋、紙十束。二年前の秋、紙十五束。去年の秋、紙十五束。いずれもオルセン商会。いずれも「別途」。
「秋ですね」
「入学は春だよ。秋に紙が要る用事となると……編入かね」
「編入」
「年に何人か入る。地方の守備隊から推薦されて来る子とか」
編入。
編入も名簿に載る。載せるには、書き直しがいる。
わたくしは閲覧の記録を台帳に残してもらい、礼を言って出た。廊下を歩きながら、頭の中で線を引く。
名簿が作られた前日に、紙が二十束納入されている。納めたのはオルセン商会。代金は学校の会計から出ていない。
名簿は書き直された。六名分が、あとから足された。書き直すには紙が要る。
線は繋がりそうで、あと一本足りなかった。誰が払ったのか。それが分かれば、名簿を書き換えさせた人が分かる。
寮の廊下で、ノエルとすれ違った。
「顔が怖いぞ」
「そうですか」
「何か企んでる顔だ」
「企んでいます」
正直に言うと、彼は笑った。
「言えることか」
「まだ半分です」
「半分でいい。聞く」
わたくしは足を止めた。止めてから、言葉を選んだ。
「ノエル。オルセン商会という名前に、心当たりは」
「あるよ。うちの領地を買った」
思わず彼を見上げた。
「グレンヴィルの領地を」
「十年前な。父が手放したとき、買ったのがそこだ」
十年前。
わたくしの母が死んだ翌年。グレンヴィル家が王都を離れた年。
「……ノエル。なぜ手放されたのですか」
「知らない。父は言わなかった」
彼は肩をすくめた。軽くやったつもりの動作が、うまく軽くならなかった。
「気にしてない、って顔しといたほうが楽なんだよ、こういうのは」
わたくしは頷いた。頷くことしかできなかった。
部屋に戻り、寝台に腰を下ろして、懐中時計を出した。止まった針を見ながら、日付を数える。剣術試合まで、三週間。




