第六話 「婚約を解消いたします」
その朝、わたくしは父に手紙を書いた。便箋は三枚になった。書いては消し、消しては書く。最後に残ったのは、たった四行だった。
《ロシュフォール家との婚約について、正式な書面が交わされる前に、わたくしの側から解消をお願い申し上げます。理由は、婚約者どのがわたくしの言葉を一度も最後まで聞かないためです。これは相性の問題であり、家の面目の問題ではございません。お返事は急ぎません。ただ、書面が出る前に読んでいただきたく存じます》
封をして、朝一番の便に乗せた。
一度目のわたくしは、父に何も書かなかった。書けば心配をかけると思ったからだ。心配をかけないようにして、四年後、父に何も言えないまま死んだ。あれは親孝行ではなかった。
父は不器用な人で、母が死んでから、わたくしと目を合わせるのが下手になった。それを「わたくしに関心がない」と読み違えたまま、四年が過ぎた。読み違えたのはわたくしのほうだった、と気づいたのは、処刑の日に父が来なかったと聞かされたときだ。
来なかったのではなく、知らされていなかったのだと、今なら分かる。
掲示は、昼に出た。
人だかりの隙間から、自分の名前を探す。三班。ヴァルトハイム・レティシア。同じ枠に、ノエル・グレンヴィルの名があった。
ミレイユ・カルヴァンの名は、どこにもない。
わたくしは掲示の端まで目を通した。一班から五班まで、名前は三十名。新入生は三十六名いる。六名分の名前が、掲示に存在しない。
「レティシア」
エイドリアンだった。顔色が悪い。彼は一班で、わたくしの名前はそこにない。
「どういうことだ」
「規程どおりでは」
「父上が」
「エイドリアン様」
わたくしは、彼の言葉を初めて途中で止めた。自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「婚約を解消いたします」
人だかりの音が、少し遠くなった。
「今朝、父に手紙を出しました。書面が交わされる前ですので、どちらの家の名誉も傷つきません。ご父君にはあなたからお伝えください。それとも、わたくしから申し上げましょうか」
「……何を言っている」
「わたくしの言葉を、あなたは一度も最後まで聞いたことがありません」
エイドリアンの唇が動いた。「君のためだ」と言おうとして、言えなかったのだと思う。今それを言えば、わたくしの言い分を最後まで聞かなかったことの証明になる。彼はそれが分かる程度には、頭の良い人だった。
「後悔するぞ」
「いたしません」
わたくしは頭を下げ、掲示の前を離れた。四年ぶりに、肺の底まで息が入った。
廊下を半分ほど行ったところで、後ろから足音が追ってきた。
「レティシア。待ってくれ」
振り返ると、エイドリアンの顔から余裕が抜けていた。抜けた顔のほうが、ずっと年相応に見えた。
「頼む。父上に手紙を出したというのを、取り消してくれ」
「取り消せません。もう出しました」
「君は分かっていない。この婚約は……」
彼はそこで言葉を切った。切ってから、言い直した。
「僕は、君を大事にする」
「順番が逆です」
わたくしは言った。
「大事にすると先におっしゃって、それから何もなさらないのが、この四年で一番こたえたことです」
言ってしまってから、しまったと思った。四年。まだ一年も経っていない相手に言う言葉ではない。
「四年?」
「……これから四年、という意味です」
エイドリアンは眉を寄せ、それ以上は追わなかった。追う気力が残っていなかったのだと思う。
この人は、思っていたよりずっと余裕がない。余裕のない人は、余裕のあるふりをするために誰かを踏む。四年後に踏まれたのがわたくしだった、というだけの話かもしれなかった。
実技場の裏で、ノエルが待っていた。
「聞こえた」
「大きな声を出したつもりはありません」
「あの静けさは、逆に聞こえるんだよ」
彼は木の幹に背中を預け、腕を組んでいる。
「同じ班だな」
「ええ」
「よかったのか。婚約」
「よかったのです」
言い切ってから、少しだけ怖くなった。
一度目、わたくしがこの婚約を切らなかったのは、切ったあとに何が起きるか分からなかったからだ。今も分からない。ただ、切らなかった場合に何が起きるかは知っている。それだけの違いだった。
それだけの違いが、四年分ある。
「ノエル様」
「様、やめろ」
「……ノエル」
「なんだ」
わたくしは、彼の左手を見た。
「その傷、わたくしのせいですね」
ノエルの腕が、組んだまま止まる。
「八つの年の秋。ヴァルトハイムの北の斜面で、わたくしが落ちかけました。あなたが腕を出しました。岩の角で切ったのだと、あとで乳母から聞きました」
思い出したのは今朝だ。父への手紙を書いているときに、便箋の白さから唐突に。
「わたくしは、あなたが転んだのだと信じていました。乳母がそう言ったので。でも乳母は、あなたが『転んだと言え』と頼んだから、そう言ったのでしょう」
ノエルは天を仰いだ。それから、腕を解いた。
「……十年越しにばれるとは思わなかった」
「どうして黙っていらしたの」
「言ったら、お前が北の斜面に行かなくなるだろ」
わたくしは、しばらく言葉が出なかった。
「行かなくなって、いいではありませんか」
「よくない。お前、あそこの景色が好きだっただろ」
喉の奥が熱くなった。
この人はこうやって、十年前から、わたくしの知らないところで手を出している。四年後もそうだった。人垣の後ろから、頼まれてもいないのに剣を抜いた。
——だからこそ、そばに置いてはいけない。
そう思った。思ったのに、口から出たのは違う言葉だった。
「今度からは、言ってください」
「なんで」
「あなたが黙って怪我をすると、わたくしが困ります」
ノエルは目を丸くし、それから、ふっと笑った。
「じゃあお前も言えよ」
「……努力します」
「努力すんな。言え」
わたくしは答えなかった。答えられなかった、と言うほうが近い。
「ノエル」
「なんだ」
「もし、わたくしがとても信じにくいことを言ったら、あなたはどうなさいますか」
「信じにくいって、どのくらい」
「たとえば、明日の天気を知っている、というくらい」
ノエルは少し考えた。考えるとき、この人は視線を斜め下に落とす。それも昔からだ。
「傘を持つ」
「……確かめないのですか」
「確かめて外れてても、傘持ってりゃ濡れないだろ」
あまりに簡単な答えだったので、返す言葉を探すのに時間がかかった。
「濡れなかったら、わたくしが正しかったかどうかは分からないままです」
「別にいいだろ、そんなの」
彼は幹から背中を離した。
「お前が困らなきゃいい」
夕日が実技場の柵を長く伸ばしていた。
この人にだけは言ってしまいそうだ、と思った。言ってしまえば、この人は明日から傘を持つのだろう。四年後の雨の日まで、ずっと。
だから言えない。言えば、彼はあの朝、傘を持って人垣の後ろに立っている。
言わない理由がひとつ増えたのに、言いたい気持ちのほうが増えていた。夕方、事務室で名簿を閲覧した。今度は入学者の名簿だ。
三十六名。全員の名前がある。ミレイユ・カルヴァンもある。わたくしは指で行を追った。追って、止まった。
ミレイユの名前の行だけ、墨の色がわずかに違う。周りは黒に近い。その行だけ、青みが強い。
「事務官様。この名簿は、いつ作られたものですか」
「入学式の前日だよ」
「一度に書かれたのですか」
「そりゃあ……いや」
彼は顎を撫でた。
「六名分は、あとから足された。教官の推薦枠だからね」
あとから足された六名。掲示に名前のない六名。
「足す前の名簿は、残っておりますか」
「さあ。書き損じは普通、燃やす」
普通は燃やす。ということは、燃やさなかった場合がある。
わたくしの右手が、勝手に懐中時計を握っていた。四年後の講堂で、わたくしは折り目のついた厚い紙を握っていた。
あれは、名簿だったのではないか。




