第五十九話 「聞き置く、と書いてあります」
団長は立ったまま始めた。
「後半。私が定める事項。第一に、俸給簿の突き合わせ」
ヴェラが前に出た。帳面を三冊抱えていた。二十三箱の目録と、俸給簿の写しと、突き合わせの結果。長机に置いて、規程どおりに、とは言わなかった。言わないで、報告した。
十年ぶん。演習記録の俸給の欄にある名前、三十一名。俸給簿の見習い騎士、三十一名。一致。うち、王立騎士学校の名簿に書き足され、二年以内に退学した者、十五名。退学ののちも俸給が払われ続けている者、十五名。受領の印は全員、学務監室の代理。
エルマーは長机の前まで歩いてきていた。団長が彼を見た。
「名を」
「エルマー」
「四年前に学校の名簿へ書き足され、二年目に退学した。王都の見習い騎士名簿には、四年前からその名がある。俸給を受け取ったか」
「一銭も」
「では、言え。自分の口で」
エルマーは正面の五人を見た。学務監ザイデルを、少し長く見た。
「願書を出した覚えは無いのに、入学が決まりました。名簿に名前があって、班には無かった。二年目の秋に辞めろと言われて、丸をつけました。翌日、紙を積んだ荷馬車で王都へ運ばれて、厩の仕事をもらいました。俺の名前で、誰かが四年、俸給を受け取っていました。俺は知りませんでした」
声は震えていなかった。
「辞めろと言った人に、言いたいことがあります。俺は、辞めたくなかった。それだけです」
ヴェラの筆が動いた。行頭に時刻。団長が名を書き、紙をエルマーの前に置いた。エルマーは時間をかけて読み、違うところはありません、と言って署名した。樽を転がす手で、大きく、真っ直ぐに。
「第二に、十年前の俸給簿の一巻。前半で、私が探すと言った。昨夜、主計課から聴取の記録が届いた。扉の外で取られたものだ。伝えるまでは私の中に、と学務監が言った時刻が二度書いてある。伝えない者の部屋を、私は待たない。今朝、学務監室の手文庫を開けさせた。鍵を渡したのは学務監の書記で、渡したことを書記が書いた」
稽古場の脇の小部屋から、ヨナスが箱を抱えて出てきた。真鍮の札。四十。
団長が蓋を開けた。革の背の綴りが一冊と、その下に、薄い帳面が一冊。
綴りの添付の頁に、紙が三枚綴じてあった。学校の透かし。グレンヴィル男爵の印。上申書三通。団長は余白を、声に出して読んだ。
「聞き置く」
二枚目。
「聞き置く」
三枚目。
「聞き置く」
隣で、ノエルが動かなかった。
「学務監。この字は」
「私の字です。十年前、主計課長として聞き置きました。上申書には、名簿に六名の書き足しがあると書いてありました。書き足された六名には学校の推薦がある。推薦のある者を見習いに登録する。根拠として正しい紙です」
「書き足しを不正だと訴えた紙を、書き足しの根拠に綴じたのか」
「聞いて、置きました。置いた場所が根拠の頁だっただけです」
団長は二冊目を取り、背をこちらに向けた。
《別途》
わたくしは息を止めた。入学式の前日に納められた紙の、支払欄の言葉だ。学校の会計ではない金。秋に三年分を数えた、あの言葉だった。
「団長。学務監様は、紙のことは聞いただけで、数字は記録した、と仰いました」
団長は頁を繰った。繰る音だけが稽古場に響いた。
「代理で受け取った俸給。十年、毎年の暮れに、同じ宛先へ払い出している。オルセン商会。借財の返済、とある」
指が止まった。
「十年前の秋に、もう一行。グレンヴィル男爵領、買い取りの立て替え。口外禁止の条件つき」
ノエルの左手が、体の横で握られた。
「学務監。何の借財だ」
「家のです。三代、学務監を出す家は、座っているだけで金が要ります。祖父の代からの借りが、十年前に期日を迎えました」
「それを、騎士団の俸給で返したのか」
「名前は、学校にいくらでもありましたので」
稽古場のどこかで、誰かが息を呑んだ。
紙の商いは薄い仕事だった、とビアンカの父は言っていたそうだ。薄い仕事を十年続けた理由が、暮れごとの一行だった。紙を売り、名前を書かせ、名前の俸給で借りを返してもらう。秋に学校が取引を止めたとき、切れたのは紙だけではなかった。
団長は壁際を見た。
「ハイム。名前だけで足りたはずだ。なぜ本人を学校に入れた」
「足りません。秋の監査で在籍の数が合わなくなります。本人が学校にいるあいだに推薦を出し、登録が済んだら辞めてもらう。字の読めない者を選んだのは、辞めるときの書面を読まないからです」
「十年前の着任は」
「主計課長の推薦でした。訊かれなかったので」
隣で、ミレイユが手を握った。字の読めない者。今年、選ばれた六名の一人が、彼女だった。彼女は何も言わなかった。握った手を、ほどかなかった。ほどかないまま、まっすぐフォルカー・ハイムを見ていた。
一度目、ヨナスが西の倉庫で拾った一葉は、名簿に名前を書き足したときの書き損じだった。わたくしはそれを握り、罪状は、わたくしのいない場所で決まった。その場所に、今日、名前が付いた。
わたくしは一歩、前に出た。
「学務監様。わたくしの言い分を、二度、最後まで聞いてくださいました。それは本当です。ただ、聞いていただいたことがどこに置かれるのかが、今、分かりました。聞き置く、と書いてあります。三通とも。置かれた紙は根拠にされ、名前を増やし、十五名を辞めさせ、俸給を十年払わせ、エルマーを厩に置きました。全部、聞き置かれた紙の上で」
微笑みが、初めて止まった。
「私は、聞いた」
「ええ。聞いて、置かれました」
団長が背を伸ばした。
「学務監の職を停止する。起案と別途の帳面について、私の名で照会を出す。十五名の見習い登録を抹消し、本人が願い出れば、学校への復学か、見習いの試験を受ける道を開く。エルマーの俸給の返還は求めない。来年の見習い枠六名は取り消す。学校に残った者の推薦は、本人の評価で私が出し直す。オルセン商会への払い出しは止め、行方を主計が追う」
ヴェラの筆が追いかけた。
学校に残った者、のところで、箱の脇に立っていたヨナスが顔を上げた。去年書き足された六名のうち、辞めなかった一人だ。エルマーは、返還は求めない、のところで肩を下げた。下げて、それきり震えなかった。
「第三に、学校の学長と、グレンヴィル男爵へ書面を出す。十年前の上申は正しかった。返答が無かった理由が、今日分かった、と。以上」
ノエルが、少しだけ顔を伏せた。伏せたまま、動かなかった。十年前に三度書いて、三度とも置かれた人の息子だった。
正面の席で、父が綴りを見ていた。見ていた、という言い方が正しい。父は言葉を見る人だ。三十年聞いてきた一言が、三通の余白に並んでいるのを、父は最後まで見ていた。
ザイデルは立ち上がった。誰も押さえなかった。わたくしの前で、彼は足を止めた。
「ヴァルトハイム嬢。あなたの言い分は、確かに聞きましたよ。今も、私の中にあります」
「はい。ただ、もう、そこだけではありません」
彼は少し黙り、三代座っていた席から出ていった。
扉の閉まる音を、ヴェラが書いた。行頭と行末に、時刻を二度。
十年前の上申書は、無かったのではなく、置かれていました。置いた人は、紙のことは聞くだけで、数字だけは書く人でした。
王都を発つ朝が、まだ残っています。




