第五十八話 「婚約者ではなく」
査閲の朝は晴れた。
稽古場の板が磨かれ、長机が正面に置かれ、その後ろに旗が掛かった。騎士団の旗と、学校の旗。学校の旗は王都に来て初めて見た。持ってきたのは代理教官で、掛けたのは一班の生徒だった。掛けるとき、旗の端が板に触れて、埃が少し舞った。
正面に、五人。団長、学務監ザイデル、稽古場の教官、代理教官、そして、父。監察官の席は無かった。無くなった席の分だけ、長机の右端が空いていた。
壁際に、招かれた人が並ぶ。公爵家の執事。クルト・ザイデル。主計課のヴェラ。フォルカー・ハイム。エルマーはいなかった。まだ、いなかった。
ノエルはわたくしの隣に立っていた。三班の列の、一番右。彼は旗を見ていた。学校の旗を。
「あの旗、初めて見た」
「わたくしもです」
「学校にあったのか」
「学長室の棚に、畳んでありました。たぶん」
「畳んだまま、半年か」
彼はそれ以上言わなかった。言わない代わりに、左手を軽く握った。
ミレイユは、その隣で、正面の五人を数えていた。指で、一人ずつ。五。それから、壁際を数えた。四。エルマーがいないことを、数で確かめていた。
「まだ、いません」
「はい。まだです」
「——なるほど。後半ですね」
査閲は二つに分かれる。前半は、演習生の評価と、来年の見習い枠の公表。後半は団長が定める事項。前半の終わりに、父が立つことになっていた。婚約の公表は前半の終わり。学務監室がそう組んだ。
前半は平らに進んだ。
団長が、一班の評価を読み、三班の評価を読んだ。三班の欄は白くなかった。稽古場の教官の評点と、団長の判。読み上げる声は、平らだった。平らに読まれると、評価は評価に聞こえる。ノエルの欄が読まれたとき、彼は、まっすぐ前を見ていた。
見習い枠の公表は、短かった。来年、六名。学校の推薦による。六名。同じ数だった。
それから、団長が言った。
「ヴァルトハイム公。前半の終わりに、公からの言葉があると聞いている」
父が立った。
父は、長机の前に出て、招かれた人たちのほうを向いた。向いて、口を開いた。
「娘レティシアと、クルト・ザイデル殿の婚約を——」
わたくしは、一歩、前に出た。
「父上」
父は止まった。止まって、わたくしを見た。
「言い分は、査閲の日に聞くと、仰いました。今日です」
稽古場の空気が、張った。ザイデルの微笑みが、動かなかった。クルトが、壁際で、少しだけ姿勢を変えた。
父は、しばらく、わたくしを見ていた。見て、それから、団長を見た。団長は頷いた。頷いただけで、何も言わなかった。
「……聞こう」
父は言った。
わたくしは息を吸った。
一度目のわたくしは、この言葉を、一度も聞かなかった。四年で一度も。処刑台で三度言って、三度とも、誰も答えなかった。
二度目のわたくしは、この言葉を、今日、父から聞いた。
「わたくしは、婚約者ではなく、幼馴染を選びます」
声は震えなかった。
稽古場の中で、誰も動かなかった。父も動かなかった。
「入学式の朝、わたくしは婚約者に、いいえ、と申し上げました。秋に、婚約を解消いたしました。今、父上に、同じことを申し上げます。学務監の甥御様は、悪い方ではありません。先に言い分を伺うと仰った、初めての方です。それでも、いいえ、と申し上げます」
わたくしは壁際を見なかった。見たら、声が揺れると思った。
「理由は、一つです。一度目、わたくしが処刑台で三度言って、誰も答えなかったとき、人垣の後ろで、一人だけ、彼女は無実だと叫んだ人がいます。その人が、今、わたくしの隣にいます。わたくしは、その人を、二度と待たせたままにしないと決めました」
一度目、と言った。言ってしまった。言ってから、直さなかった。この場にいる人の半分は、意味が分からないだろう。分からなくていい。父には分かる。父は時計の裏蓋を見た。四年後の日付を。
「それが、わたくしの言い分です。父上」
父は動かなかった。
長い、長い沈黙だった。暖炉は無かった。稽古場には火が無い。爆ぜる音を数えられなかった。数えられないまま、待った。
父が言った。
「……記録係は、いるか」
団長がヴェラを見た。ヴェラが一歩前に出た。帳面を、開いた。
「書いてくれ。今のを、娘が言った形のまま」
ヴェラの筆が動いた。行頭に、時刻。
父はわたくしを見た。
「聞いた。娘の言い分は、聞いた。ヴァルトハイム公爵として、ここに記録させる」
それから、父は、壁際を見た。クルトのほうを。
「クルト殿。あなたの言い分は、先に聞いた。印は押さない、と。私は、それも採る」
クルトが頭を下げた。深さが練習したものではなかった。彼は、頭を上げて、それから、壁際から一歩下がった。下がって、扉のほうへ歩いた。歩きながら、一度だけ、ノエルのほうを見た。ノエルは頷いた。それだけだった。
父は、最後に、ザイデルを見た。
「学務監殿。婚約の公表は、無い。話は通してあったが、娘が、いいえ、と言った。私は、それを聞いた。聞いたことを、記録させた。以上だ」
ザイデルは微笑んでいた。微笑んだまま、言った。
「聞き置きます」
父は、その言葉を、しばらく見ていた。見ていた、という言い方が正しい。父は言葉を見る人だ。
「学務監殿。私は、聞き置く、という言葉を、三十年、聞いてきた。三代の学務監から。今日、初めて、それが何を意味するのか、分かった気がする」
父は席に戻った。戻って、座った。座ってから、わたくしを見て、小さく、顎を引いた。会釈ですらない、短い動き。ノエルが入学式の講堂でしたのと、同じ動きだった。
わたくしは頭を下げた。下げて、前を向いた。
団長が立った。
「前半を、終わる。後半は、私が定める事項だ」
彼は懐から紙を出した。ヴェラの帳面の写し。昨夜、届いたもの。フォルカーの証言。二十三箱の目録。
「学務監。十年前の俸給簿の一巻は、見つかったか」
「探させております」
「探させている、と。では、私が探す」
団長は壁際を見た。
「エルマーを、入れよ」
扉が開いた。
厩の荷運びの男が、学校の支給の靴で、稽古場の板を踏んだ。踏む前に、足元を見た。重い物は足元を確かめてから下ろせ。フォルカー・ハイムが、壁際で、それを見ていた。表情は動かなかった。
わたくしはノエルの隣に戻った。隣に立つと、彼が、小さく言った。
「言ったな」
「言いました」
「一度目、って」
「言ってしまいました」
「聞かれたぞ。半分は分かってない」
「はい。半分は分かっています」
「……いい」
彼は、前を見たまま、言った。
「俺も聞いた。ちゃんと向かって言われた。一度目のことを」
わたくしは、笑おうとして、失敗した。失敗して、今度は、成功した。
後半が、始まる。今日は、わたくしの番ではない。
タイトルの一文を、レティシアは父の前で言いました。父は、記録係を呼びました。
クルトは、一礼して下がりました。悪い人ではない人が、悪い人ではないまま、下がりました。
査閲は、まだ半分しか終わっていません。




