第五十七話 「聞き置く」
査閲の前日、学務監室に呼ばれた。
紙には今日も署名が無かった。印だけ。ただ、今日の紙には一行あった。聴取。学生ヴァルトハイムの、演習中の行動について。
聴取。
一度目、わたくしは一年次の秋に、初めて査問を受けた。名簿について問われ、何も言えないまま部屋を出された。あの部屋には記録係がいなかった。いなかったことを、あのときのわたくしは知らなかった。知らないまま、四年が過ぎた。
今日の部屋にも、記録係はいない。それは知っている。
ノエルが宿舎の前で待っていた。
「行くのか」
「行きます」
「一人で」
「一人でです。聴取は、本人だけと書いてあります」
彼はわたくしの鞄を見た。鞄の中には、帳面と、受領書と、手帳と、エルマーの言い分。全部、入っている。入っているものは、今日は出さないと決めていた。
「外にいる」
「はい」
「扉の外だ。中じゃない」
それだけ言って、彼は先に歩き出した。東の回廊へ。わたくしはその後ろを歩いた。
二重の扉の前で、彼は柱の風下に立った。立って、腕を組んだ。組んだ腕の左手の甲が、上を向いていた。
わたくしは扉を叩いた。
部屋はいつもより暗かった。
窓の鎧戸が半分閉じている。暖炉は一つだけ燃えていて、もう一つは灰だった。灰の暖炉のほうに、椅子が一つ。燃えている暖炉のほうに、机。机の向こうに、ザイデル。
書記の机は無い。最初から、無い。
「お座りなさい」
灰のほうの椅子に、座った。座ると、右の頬が冷たく、左が温かった。最初の日と、逆だった。
「演習中の行動について、聴取します。監察官の指示に背いて二十三箱を主計課に移した件。学務監室の預かりに手を出そうとした件。三班の評価を、団長の前で争った件」
彼は微笑んでいた。
「言い分を、聞きましょう」
言い分を、聞きましょう。
わたくしは話した。
最初の日と、同じことを。学長の照会。三行の返答。受理番号四〇二。三つの窓。受理番号三一五から三一七。回付先。再回付。増員根拠。二十三箱。俸給の欄。エルマー。四年。一銭も。監察官の口頭指示。三通の写し。夜明け。六対ゼロ。フォルカー・ハイムの証言。余白の、一言。
全部、話した。
彼は、全部、聞いた。
頷き、ときどき目を細め、一度も遮らなかった。灰の暖炉の前で、わたくしは一箇月ぶんを話した。話し終えるまで、四半刻かかった。四半刻のあいだ、彼はペンを持たなかった。持つペンが机の上に無かった。
話し終えて、わたくしは、待った。
彼は言った。
「よく分かりました」
最初の日と、同じ言葉だった。
「ヴァルトハイム嬢。あなたの言い分は、確かに聞きました。学務監として」
彼は、机の上で、手を組んだ。
「聞き置きます」
それだけだった。
一度目と、同じだった。
いや、違う。一度目は聞かれなかった。今日は聞かれた。聞かれて、置かれた。置かれた言葉は、この人の中にある。この人の中にしか、無い。この人が伝えなければ、どこにも無い。一度目に無かったものと、今日置かれたものは、どこにも無いという点で、同じだった。
わたくしは立ち上がった。
「学務監様」
「はい」
「今日の聴取は、記録されますか」
「私が聞きました。それが記録です」
「学務監様が、明日、団長にお伝えになるまで」
「そうですね。伝えるまでは、私の中に」
「お伝えにならなければ」
「どこにも」
彼は微笑んだ。柔らかく。
「明日の査閲で、あなたのお父上が婚約を公表なされば、私は団長に伝えます。学生ヴァルトハイムの行動は、学務監室が聞き置いた、と。それで、終わります。二十三箱も、監察官も、俸給簿も、十年前の一巻も」
終わります。
この人は終わらせられると思っている。聞き置いた、と言えば。三代、それでやってきた。
「公表なされなければ」
「聞き置いたことを、伝えません。伝えなければ、団長は、あなたの言い分を知らない。知らないまま、査閲で、あなたのお父上と学務監室が対立する形になる。それは、公爵家のためになりません」
わたくしは頭を下げた。
「ありがとうございます。最後まで、聞いてくださいました」
言うべき礼だった。この人は最後まで聞いた。一度目に誰もしなかったことを、二度、した。
礼を言いながら、胸の奥は、冷えなかった。最初の日は冷えた。今日は冷えなかった。冷えない理由を、わたくしは知っていた。
扉を出た。
二重の扉の、外側の扉の脇に、ノエルが立っていた。立っている場所が、来たときと、違った。柱の風下ではなく、扉のすぐ横。扉の内側の、布張りの扉の、その外。
その隣に、もう一人、立っていた。
ヴェラだった。
細い眼鏡。きつく結った髪。袖を紐で絞った手に、帳面と、筆。帳面は開いていた。開いた頁は字で埋まっていた。行頭に時刻。行末に時刻。
「規程には、聴取の記録は本人の求めにより主計課が取ることができる、と書いてあります。学務監室の聴取に主計課が立ち会う規程は、ありません。ただ、扉の外に立つことを禁じる規程も、ありません」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「布張りの扉は、声を止めません。学務監室の扉は、二重ですが、内側は布です。三代前の学務監が、聞こえるように張り替えたと、主計課の記録にあります。聞く人の部屋ですので」
聞こえるように、張り替えた。
聞く人の部屋の扉は、聞こえるようにできている。三代前から。
「全部、書きました。あなたの言い分と、学務監の言葉と。聞き置く、と言った時刻も。伝えるまでは私の中に、と言った時刻も。二度書いてあります」
ヴェラは帳面を閉じた。閉じてから、規程どおりです、と言わなかった。言わないで、言った。
「先に、届けておきます。団長に。今夜」
わたくしは彼女を見た。見て、頭を下げた。深く。深さを、初めて、自分で決めた。
「ヴェラ様」
「はい」
「なぜ、今日」
「規程に無いことを、頼まれましたので」
「規程に無いことを、なさるのですか」
「禁じる規程が無いことは、します。五年目で、初めてです」
「頼んだのは、こいつだ」
ノエルが言った。ヴェラを、顎で示して。
「今朝。俺が主計課に行った。聴取の記録は本人が求めれば主計課が取れると、規程を読んでもらった。本人じゃないから断られた。断られたから、扉の外に立つ規程を訊いた。無かった」
彼は腕をほどいた。
「お前は、今日は出さないと決めてた。鞄の中身を。分かってた。だから、俺が別のところに頼んだ。お前に言わないで」
ひとりで、決めた。この人が。わたくしのために。
「……ずるい方ですね」
「お前ほどじゃない」
「二度目です、その言い合い」
「数えてたのか」
「数えました」
二度目のほうが、嬉しかった。
東の回廊を、三人で歩いた。光る床の上の足音が、三人ぶんだった。
聞き置かれた。一度目と、同じ部屋で。同じ形で。
ただ、扉の外に、書く人がいた。一度目にはいなかった人が。
明日、査閲。
わたくしの言い分は、団長の机の上に、今夜、届く。届いたものは、あることになる。無いことには、できない。聞き置いた人が、伝えなくても。
一度目と同じ部屋で、同じ形で、レティシアは聞き置かれました。違うのは、扉の外に書く人がいたことです。
学務監室の内側の扉が布張りなのは、三代前から、聞こえるようにするためでした。聞く人の部屋ですので。
明日、査閲です。ブックマークで、間に合います。




