第五十六話 「母の時計、父の手」
父が本部に来た。
査閲の二日前で、稽古場は朝から人が多かった。一班と三班のほかに、騎士団の見習いが型を打っていて、板の上の音が二重に重なっている。重なった音の中で、自分の木剣の音だけを聞き分けるのに、少し時間がかかった。
聞き分けられるようになった頃、稽古場の扉が開き、公爵家の外套が入ってきた。生徒が型を止めた。代理教官が頭を下げた。父は、誰にも目を向けず、まっすぐ団長のところへ歩いた。団長は壁際に立っていて、父を見て、頷いた。頷いただけで、二人は稽古場を出ていった。
古い付き合いだ、と父は言っていた。学務監とは。団長ともそうなのだろう。王都の五十代は、みな古い付き合いでできている。
型が再開された。わたくしは、木剣を振りながら、数えなかった。数えると、意味を付けてしまう。
昼、回廊の東側で、父に呼び止められた。
光る床の上に、父が一人で立っていた。執事はいなかった。団長もいなかった。父はわたくしの手を見ていた。手には母の懐中時計があった。型のあと、癖で出していた。掌の中で二度、指の腹を滑らせる。八つの年からの癖だ。
「まだ、持っているのか」
「はい。いつも」
父は手を差し出した。渡せ、という意味だった。わたくしは少し迷ってから渡した。
時計は銀で、丸みが手に馴染むほど磨れている。磨ったのは母の指とわたくしの指だ。十年撫でた分だけ、蓋の縁の刻みが浅くなった。父の手に載ると、時計は小さく見えた。母の手に載っていたときのことを、わたくしは覚えていない。覚えていないものを、今、父の手の上で見ていた。
父は蓋を開けた。針は動いていた。秋の査問の日から、動いている。父はそれを見て、それから、裏蓋を開けた。母の字と、わたくしの字。誕生日と、四年後の日付。
父は長くそれを見ていた。
「……この日付は」
「わたくしが、書き足しました。春に」
「何の日だ」
「まだ、来ておりません。来るかもしれないし、来ないかもしれない日です」
父はそれ以上訊かなかった。訊かないで裏蓋を閉じ、蓋を閉じ、時計をわたくしの手に戻した。戻す手が少し遅かった。
「母は、よく数える人だった」
父は言った。
「領地の出納を、私が付ける前は、母が付けていた。私が付けるようになったのは、母が死んでからだ。それまで、私は数えなかった。数える人が、隣にいたからだ」
「……はい」
「数えられる側でいるのは、楽だ。数えている人がいなくなって、初めて分かった」
父は回廊の柱に手を置いた。置いた手は大きく、指の節が太い。帳面を押さえる手だ。
「三百と十二回。あの帳面を、昨夜、机に出した。抽斗から。十年ぶりに開いた」
わたくしは息を止めた。
「開いて、数えた。八年で三百と十二回。年に三十九回。月に三回と少し。十日に一度、私は母の言い分を聞かなかった」
父は柱から手を離した。
「お前が来てから、一箇月で、私はお前を四度聞かなかった。母のときと、同じ割合だ」
同じ割合。父はそれを数えた。数えて、言った。言わなくてもいいことを、言った。
「父上」
「まだだ」
父はわたくしを止めた。
「聞くのは、査閲の日だ。それは、変えない。今日は、数えたことを言いに来ただけだ」
それから、父は、稽古場のほうを見た。
「グレンヴィルの倅は」
「稽古場に」
「呼びなさい」
ノエルは木剣を持ったまま来た。
持ったまま来て、父の前で木剣を左手に持ち替え、右手を空けて、頭を下げた。左手で木剣を持つと、甲の古傷が上を向く。
父はその手を見た。
長く見た。長く見てから、言った。
「あの子か」
ノエルの肩が動いた。
「八つの年に、レティシアを庇って、犬に噛まれた。庭で。噛まれた手を、乳母が洗った。私は、書斎の窓から見ていた」
わたくしは父を見た。父はノエルの手を見ていた。
「翌年、お前の家は領地を売って、王都を離れた。レティシアが手紙を三通書いた。返事が来なかったのは、届いていないからだ。私が、届けさせなかった」
回廊が静かだった。
「四通目を書こうとしたとき、乳母に止めさせた。身分が違います、と言わせた。あれは、乳母の言葉ではない。私の言葉だ」
父は、ノエルの手から、目を上げた。上げて、ノエルの顔を見た。
「あの手を見て、それでも、そう言った。言ったことを、私は書いていない。書いていないから、無いことにしていた。十年」
ノエルは何も言わなかった。言わないで頭を下げたままでいた。
「顔を上げなさい」
ノエルは上げた。
「お前の父親は、私に、混ぜないほうがいいと言って、領地を売った。私は、それを止めなかった。止めないで、娘の手紙を止めた。二つとも、私が聞かなかったことだ」
父はそれだけ言った。
「謝らん。謝るのは、聞いてからだ。査閲の日に、聞く。三人とも」
父は歩き出した。歩き出して二歩で止まった。止まって振り返らずに言った。
「レティシア。母は、私が聞かなかった回数を数えた。数えて、見せなかった。お前は、数えて、見せろ。見せなければ、私は分からん」
父は、東の回廊を、出ていった。光る床の上の足音が、一人ぶん、遠くなった。遠くなるまで、わたくしは動かなかった。動かないでいると、足音の間隔が分かる。父の歩幅は十年前と同じだった。同じ歩幅で、違うことを言いに来た人が、同じ歩幅で帰っていく。
ノエルは木剣を右手に持ち替えた。持ち替えて左手を体の横に垂らした。軽く握って。
「……犬だったのか」
「覚えていないのですか」
「転んだと思ってた。ずっと」
彼は自分の左手を見た。
「転んだって、俺は言い続けてたよな」
「はい。八つの年から」
「嘘じゃなかった。覚えてなかっただけだ」
わたくしは笑った。笑ってから泣きそうになってやめた。やめられた。
「ノエル」
「なんだ」
「手紙は、届いていなかったのですね」
「届いてない。三通とも」
「四通目を、書こうとしました」
「知ってる。今、聞いた」
彼は、左手を、少し上げた。上げて、下ろした。
「届かなかった三通のぶん、今、隣にいる。それでいいか」
「……はい」
それでよかった。それ以上は決めてからでいい。決める日は二日後だ。
塔に戻ると階段の下の四角が二十三、朝と同じに並んでいた。わたくしは帳面を開いた。
父、時計を見る。四年後の日付を、訊かず。母、数える人。三百と十二回。一箇月で四回。同じ割合。
ノエル、犬。手紙、三通、届かず。父が止めた。乳母の言葉は父の言葉。
謝らん。聞いてから。査閲の日。
書いて閉じた。閉じてから時計を出した。針は動いている。動いている針を掌の中で二度撫でた。
明日、フォルカーが学務監室で聞き置かれる。
明後日、査閲。
父は、母が数えた回数を、十年ぶりに数え直しました。数えて、言いに来ました。謝るのは聞いてからだ、と。
ノエルの左手の傷は、転んだのではありませんでした。本人は覚えていませんでした。嘘ではなかった、覚えていなかっただけです。




