第五十五話 「訊かれなかったので」
馬車は昼に着いた。
門の詰所で名簿が照合され、一人の男が降りた。長身で姿勢が良く、表情が動かない。外套に雪が付いていて、彼はそれを払わなかった。払う前に門番の帳面を見た。帳面に自分の名が書かれるのを最後まで見てから歩き出した。
フォルカー・ハイム。
職務停止の教官が、聴取のために王都に来た。呼んだのは学務監室で、呼ばれた理由は、わたくしが持ち込んだ写しだ。
わたくしは回廊の柱の陰で彼を待っていた。待つと決めたのは昨夜で、待つ場所は風上にした。見つけてほしい人の立ち方だ。
彼はわたくしを見て足を止めた。ヴァルトハイム嬢、と彼は言った。教官、と返すと、その呼び方はもう正しくありませんね、と直した。では、ハイム様、と言い直した。
半年前、わたくしはこの人の名前を一つも覚えていなかった。一度目の四年で、教官の名を一人も。今は、名前も、字も、手順書の一行目も覚えている。覚えたものを持って、この人の前に立っている。立っているのに、膝は緩まなかった。緩まないことが、半年の分だった。
彼は頷いた。頷いて、それ以上、何も言わなかった。言わない人ではない。訊かれれば述べる人だ。半年、そうだった。
わたくしは一つだけ訊くと決めていた。
この人は一度も嘘をつかなかった。規定が無いと言い、記録すると言い、訊かれれば述べた。全部本当だった。本当のことだけで、二十数人を消した。査問の日に、わたくしはそう言った。
本当のことだけを言う人には、本当のことを訊けばいい。ただし、正しい問いを。間違った問いには、間違っていない答えが返る。それでは足りない。
「ハイム様。一つだけ、伺わせてください」
「どうぞ」
「十年前、グレンヴィル男爵の上申書三通は、監察官室から、誰の手に渡りましたか」
彼はわたくしを見た。表情は動かなかった。
「主計課長ザイデル。私が持って行きました」
雪が回廊の屋根から落ちた。落ちる音が遠かった。
ハイム様が、と言いかけて、続きが出なかった。彼が続けた。
「十年前、私は監察官室の書記でした。文書課から回付された上申書三通を、監察官の指示で、主計課長へ持って行きました。監察官の指示は口頭でした。持って行った翌月、私は学校の実技教官に着任しました」
彼は淡々と言った。書面語だった。半年、聞き慣れた声だった。
「なぜ、今まで」
「訊かれなかったので」
訊かれなかったので。
わたくしはその言葉を持っていた。持って、しばらく離せなかった。
学長は王都で学務監に会った。訊いた。記録が無いと言われた。学長はこの人に訊かなかった。わたくしも訊かなかった。査問の日に、なぜ六名だったのかは訊いた。誰に渡したかは、訊かなかった。訊く問いが無かった。無かったのではない。持っていなかった。
今の話を団長の前でもう一度、と頼んだ。訊かれれば述べます、と彼は言った。記録係が書きます、と言うと、書かれれば残ります、と言った。
彼は、それだけ言って、東の回廊のほうを見た。
「学務監室から呼ばれています。あちらでは、訊かれないでしょうね」
「……聞き置かれると、思います」
「そうでしょう。あの方は、十年前もそうでした。私が持って行った紙を、読んで、聞き置く、と言いました。その一言を、私は見ました」
その一言。
わたくしは息を止めた。
見た、と繰り返すと、余白に書かれました、三通とも、目の前で、と彼は言った。
聞き置く。余白に、一言。三通とも。
あることにされた紙の、あることにされた印。それも団長の前で、と頼んだ。訊かれれば、と彼は言った。
団長の聴取は夕方に組まれた。
組んだのは団長自身だった。学務監室が呼んだ聴取を、団長が先に取った。取った理由は言わなかった。言わない代わりに、聴取の場所を稽古場の脇の小部屋にした。小部屋には机が二つ。一つは団長、一つはヴェラ。書く人が二人。
小部屋は窓が一つで、木剣の油の匂いがした。稽古場の道具を置く部屋に机を入れて、聴取の部屋にしたのだ。壁に木剣の掛け釘が並び、釘の一つ一つに、使い込んだ柄の跡が残っている。学務監室の磨かれた床とは、何もかもが違った。違う部屋で、同じ問いがもう一度される。
わたくしは学校の使者として壁際に立った。立つ規程は無い。禁じる規程も無い。
フォルカー・ハイムは椅子に座らなかった。立ったまま団長の問いに答えた。
団長は同じことを訊いた。わたくしと同じ問いを。同じ順で。
「十年前、上申書三通は、監察官室から誰の手に渡ったか」
「主計課長ザイデル。私が持って行きました」
「監察官の指示は」
「口頭でした」
「主計課長は、受け取って何をしたか」
「読んで、余白に、聞き置く、と書きました。三通とも。目の前で」
「その紙は、その後」
「増員の根拠として綴じる、と言われました。主計課長が、自分で。私はそれを聞いて、部屋を出ました」
「なぜ、今まで言わなかった」
「訊かれなかったので」
ヴェラの筆が止まらなかった。時刻を、行頭に書き、最後に、行末にもう一度書いた。
団長は書き終えるのを待った。待ってから紙を受け取り、読み、自分の名を書いた。それからフォルカーの前に置いた。
「読んで、違うところがあれば言え」
フォルカーは読んだ。全部読んだ。読み終えて、言った。
「違うところは、ありません」
「署名を」
「訊かれれば」
彼は署名した。細く、右に倒れた字だった。半年前、手順書の筆跡として、わたくしが突き止めた字。今日は証言の下にあった。
団長は紙を懐に入れた。入れて立ち上がった。
「ハイム。お前は、学校で二十四名を書き足した」
「はい」
「理由は」
「主計課長の起案に、名前が要ったので」
団長はそれ以上訊かなかった。訊かないまま、部屋を出た。出る前に、わたくしのほうを見た。見て、何も言わなかった。言わない人の目が、今日は、数えてから読む人の目ではなかった。読んでから書く人の目だった。
小部屋に、フォルカーとわたくしとヴェラが残った。
ヴェラは筆を洗っていた。洗い終えて、帳面を閉じた。閉じてから、規程どおりです、と言わなかった。言わないで、部屋を出た。
フォルカーは外套の雪をようやく払った。払いながら言った。
「ヴァルトハイム嬢」
「はい」
「よく訊きましたね」
よく調べましたね、ではなかった。
わたくしは彼を見た。彼は微笑んでいなかった。学長室でも、広間でも、微笑んでいなかった。今日も同じだった。
「あなたは、秋に、なぜ六名だったのかと訊いた。あれは、良い問いでした。ただ、足りなかった。誰の起案かを、訊かなかった」
「はい」
「今日、訊きました。それで、足りました」
彼は扉のほうへ歩いた。歩きながら最後に言った。
「私は、明日、学務監室に呼ばれています。あちらでは、訊かれないでしょう。訊かれなければ、述べません。それは、あなたも知っているはずです」
「はい」
「では」
彼は出ていった。扉の音はした。きちんと閉めた音だった。
回廊に出ると雪が止んでいた。
ノエルが柱の風下にいた。稽古場の脇の小部屋の扉の外で。ずっと立っていたのだと外套の肩の雪で分かった。
終わったか、と彼が訊いた。終わりました、書かれました、と答えた。あいつは言ったのか、と訊くので、訊かれたので、と答えた。
ノエルは少し黙った。黙ってから、言った。
「お前、あいつに訊けたんだな」
「はい」
「一度目に、お前を処刑した奴に」
「はい。訊く問いを、やっと持てましたので」
彼は頷いた。頷いてそれ以上何も言わなかった。言わない代わりに歩く速さを落とした。
帳面に書いた。フォルカー・ハイム、証言。主計課長ザイデルへ本人が持参。余白に、聞き置く。三通とも。増員根拠に綴じると本人が。団長の名。ヴェラの時刻が二度。
書いて最後の一行を足した。訊かれなかったので。
問いを持たなければ本当のことは無いのと同じだった。持った今日、それは紙になった。
フォルカー・ハイムは、一度も嘘をつかない人のままです。訊かれれば述べ、訊かれなければ述べません。今日、訊かれました。
「聞き置く」の一言が、余白に三通ぶん、あります。彼はそれを目の前で見ていました。
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