第五十四話 「学務監室」
呼び出しの紙は、今日も署名が無かった。
学務監室の印だけ。若い書記が持ってきて、頭を下げて、帰った。わたくしは帳面に時刻を書き、東の回廊を歩いた。光る床の上の足音は、今日は一人ぶんだった。ノエルは稽古場で、団長の判が押された評価の写しを受け取っている。
二重の扉は、内側の布張りが、少しだけ湿っていた。暖炉の火が強いのだろう。開けると、熱が顔に当たった。
ザイデルは立っていた。
机の向こうではなく、窓の前に。雪の光を背にして、顔が暗く見えた。彼は振り返り、微笑んだ。柔らかい笑みは、変わっていなかった。
「お座りなさい。今日は、私も座りましょう」
椅子は、暖炉から離れたところに二つ、向かい合わせに置かれていた。机は使わないという意味だった。机の脇に、手文庫が一つ。黒い革張りで、鍵が付いている。前に来たときは、無かった。無かったのではなく、見えなかったのかもしれない。今日は見えた。
団長から主計に指示が出た、と彼は言った。俸給簿の突き合わせを年内に。十年前の一巻が主計課に無く、それを私が持ち出したと主計の帳簿係が言った、と。起案者保管の規程だと伺いました、とわたくしは答えた。
言いながら、暖炉の火の音を数えていた。この部屋の火は、屋敷の書斎より大きく、爆ぜる回数が多い。多いので途中で数えるのをやめた。やめたことを覚えておいた。数えるのをやめさせる部屋だ。
彼は頷いた。
「そのとおりです。起案した者が根拠を保管する。私は十年前、主計課長として見習い騎士の増員を起案しました。根拠書類は私の物です」
私の物、と繰り返すと、起案者の物と言うべきでしょうね、と彼は直した。微笑みは動かなかった。
その根拠書類の中にグレンヴィル男爵の上申書の控えがあるはずだ、と言った。聞いた覚えはあります、と彼は言った。
「十年前、監察官室から回ってきた紙が、何かの根拠になったという話は、聞いた覚えがあります。ただ、記録はしていません。私は数字の仕事をしていました。数字は記録しました。紙のことは、聞いただけです」
聞いた覚えはあるが、記録はしていない。
覚えている。覚えているのに、書いていない。書いていないから、無い。
ブラントの言い方と、少し違った。ブラントは言っていないと言う。この人は、聞いた、と言う。聞いたと言って、記録していないと言う。どちらも残らない。残らない理由が、違うだけだ。
「学務監様。今のお話を、記録していただけますか」
「私は書きません。聞くのが、私の仕事です」
彼は少し身を乗り出した。
「ヴァルトハイム嬢。あなたの言い分は、私が聞きました。最初の日に、全部。あなたは、よく話した。話したことは、私の中にあります」
わたくしは彼の目を見た。柔らかい目だった。
「聞いていただく必要は、ございません」
微笑みが止まった。
「書いてください」
部屋の中で、暖炉の火だけが音を立てていた。
「聞いていただいたことは、学務監様の中にしかありません。学務監様がいらっしゃらなくなれば、無くなります。わたくしが聞いていただきたいのは、そういう場所ではありません」
「……では、どういう場所に」
「紙に。誰が読んでも同じものが書いてある場所に」
彼は身を戻した。戻して、しばらく、わたくしを見ていた。見ているあいだに、微笑みが、戻った。戻ったが、少し形が違った。
「あなたのお父上と、昨日、話しました」
「伺いました」
「査閲の席で、婚約を公表する。それだけで、この一箇月のことは、私が聞き置きます。二十三箱の件も、監察官の件も、俸給簿の件も。団長には、私から話します。聞き置いた、と」
聞き置いた、と話す。
団長は、聞き置くでは困ると言った。困ると言った人に、聞き置いたと言いに行く。この人はそれができると思っている。三代、それでやってきたからだ。
「甥は、印を押さないと言いました。困った子です。ただ、印は、甥の物ではない。婚約の書面の印は、家の物です」
家が座っている。人が座っているのではなく。クラリスの叔母の言葉が、この部屋で、本当になった。
「わたくしの言い分は、査閲の日に、父の前で申し上げます。父にそう言われました。学務監様にも、その席で」
「私は、聞きますよ。いつでも」
「はい」
「それで、足りませんか」
「足りません。ですから、書いてくださる方を、その席に」
彼は笑った。今度は声を出して。小さく、短く。
「団長は、書きますね。あの人は、数えてから読んで、それから書く。学校の学長と同じ種類の人です。困ったことに、この騎士団に一人だけ」
彼は立ち上がった。立ち上がって、机の脇の手文庫に、手を置いた。
「十年前の一巻は、探させます。ただ、探すのは私の書記で、見つけるのも私の書記です。見つかったと私が聞いたら、団長に伝えます。聞き置いたものは、私が伝えるまで、どこにもありません」
手文庫の鍵は彼の懐にあるのだろう。鍵の付いた箱の上に、手を置いて、この人は、聞き置くと言った。
控えはある。この箱の中に。あることを、この人は、無いことにしていない。あるが、伝えない。伝えるまで、無い。
「学務監様。一つだけ」
「どうぞ」
「十年前、上申書の控えを増員の根拠に綴じたのは、学務監様ですか」
微笑みは動かなかった。
「聞いた覚えはあります。記録は、していません」
同じ答えだった。同じ答えを、二度聞くと、答えではないと分かる。
回廊に出ると、風が来た。
ノエルが柱の風下に立っていた。評価の写しを、懐に入れていた。彼はわたくしの顔を見て、何も訊かなかった。訊かないまま、隣を歩いた。
手文庫があった、と言った。鍵の付いたものを机の脇に、前は無かったのに見せられた、と。見せたということは、と彼が言いかけた。あることを隠していない、伝えないだけだ、と答えた。
ノエルは東の一番奥を振り返った。
「あいつ、ケラーやブラントより、面倒だな」
「はい。あの二人は無いと言いました。この方は、あると言って渡しません」
「渡さないものは、どうする」
「……渡させる人を、探します」
団長は数えてから読む人だ。読んで、書く。書く人が、聞き置く人に、あるのか無いのかと訊いた。訊いた人がもう一度訊けばいい。訊く根拠を、わたくしが用意すればいい。
根拠はまだ足りなかった。聞いた覚えはある、では、根拠にならない。誰が、いつ、何を渡したかを、言う人が要る。
塔に戻ると、ヨナスが籠を提げて待っていた。籠の中に、林檎が二つ。
「今日は二つ付きました。厨房の人が、明日、学校から人が来るからって。聴取だそうです。教官が一人。名前は、聞いてません」
わたくしは鞄の中の学長の手紙を思った。到着は査閲の三日前。今日は査閲の四日前だった。
明日、フォルカー・ハイムが来る。
一度も嘘をつかない人が、聞き置く人の部屋に、呼ばれて来る。
学務監ザイデルは「聞いた覚えはあるが、記録はしていない」と二度言いました。同じ答えを二度聞くと、答えではないと分かります。
手文庫は、隠されていません。伝えられていないだけです。
明日、学校から一人来ます。あると言って渡さない人がいちばん厄介だと思われた方は、☆をひとつ。




