第五十三話 「読めない人の字」
評価会は稽古場で行われた。
板の上に長机が一つ置かれ、正面に五人が座った。団長、学務監ザイデル、監察官ブラント、稽古場の教官、それから学校の代理教官。団長を見るのは、初めてだった。五十代で、髪は短く、口が薄い。机の上に紙を置き、その紙を、他の誰よりも先に読んでいた。読む人だ、と思った。書く人かどうかは、まだ分からなかった。
一班と三班が机の前に並んだ。壁際に、主計課のヴェラが立っていた。呼ばれたのではない。二十三箱の目録を持つ課として、立ち会う規程があるのだという。規程にはそう書いてあります。
一班の評価が先に読み上げられた。
教官の評点、監察官の判、備考。六名ぶん。読み上げたのは団長で、読み上げる声は平らだった。平らな声で読まれると、評価は評価に聞こえる。
三班の番になった。
団長は評価簿を見た。見て、しばらく、黙った。
「三班。評点、無し。判、無し。備考、記録に値せず」
平らな声のまま、彼は顔を上げた。
根拠はと団長が訊いた。記録に値しないと判断した、それが根拠だ、とブラントは答えた。演習要領の末尾に根拠は書面で付すとある、書面は、と団長が言い、備考が書面です、とブラントが言った。
団長は、評価簿を、机に置いた。置いて、指で押さえた。押さえる指が父の指に似ていた。書く人の指は押さえ方が似る。
「一行だ。一行で、五名の一箇月を記録に値しないと」
「私が判断しました」
団長はブラントを見なかった。見ないまま、こちらを見た。
「三班。言い分は」
言い分は。
わたくしは、一歩、前に出た。出て、鞄を開けた。
「あります。五つ」
一つ目。稽古場の教官が書いた、三班の評点の紙。教官が懐から出した。監察官室で止まっていた紙だ。教官は、机に置いて、言った。私が書き、監察官室に回した。判は押されなかった。
二つ目。監察官の口頭指示の写し、三通。主計課の受領印、学校の記録係へ託した時刻を書いた詰所の帳面の写し、公爵邸の執事の受領。同じ文面が三箇所にある。廃棄の指示、上には行くなの指示、夜明けの焼却炉の指示。
三つ目。二十三箱の目録と、主計課の受領書。時刻が二度書いてある。
四つ目。クラリスとジョゼットが書いた紙。二枚。日付と、聞いたこと。姉の字と妹の字は、少しだけ違った。妹のほうが丸い。
団長は、一つずつ、読んだ。全部読んだ。読むあいだ、誰も喋らなかった。ザイデルは微笑んでいた。微笑んで、聞いていた。
「監察官。この写しにある指示を、出したか」
「私は、言っていない」
来た。
「廃棄を指示していない。整理を指示した。焼却炉という言葉は、使っていない」
「立会が二名ずつ、署名している」
「学生です。学生の署名は、記録ではない」
団長はブラントを見た。初めて、見た。
「学生の署名は、記録ではない、と」
「はい」
わたくしは五つ目を出した。
「五つ目です。三班の、ミレイユ・カルヴァンが書きました」
ミレイユが前に出た。紙を、両手で持って。ゆっくりで、四角くて、線がところどころ震えている字が、一枚を埋めていた。小さな丸はもう無かった。三つとも彼女の字で埋まっていた。
団長は紙を受け取った。受け取って、読み始めた。
時間がかかった。読めない字ではなかった。読むのに、時間がかかる字だった。団長は、途中で一度、眉を寄せた。寄せて、また読んだ。
「……字が、下手だな」
「はい」
ミレイユは言った。
「わたし、秋まで字が読めませんでした。名前だけ、なぞって書けました。レティシア様に教わって、読めるようになって、書けるようになりました。まだ、下手です」
彼女は小首を傾げなかった。傾げずに、まっすぐ団長を見ていた。
「でも、これは写しじゃないので、本物です」
誰も何も言わなかった。言わない人が五人、正面に座っていて、そのうちの一人だけが、紙を持っていた。
団長は、紙を、もう一度、最初から読んだ。二度目は速かった。読み終えて、机に置いた。置いて、指で押さえた。
「監察官。この紙にある、二階の扉が夜だけ開いていたという件と、四十番の棚が東へ運ばれたという件。指示したか」
「私は、言っていない」
言っていない、と団長が繰り返した。はい、とブラントが言った。
団長は、五つの紙を、机の上に並べた。並べて、数えた。指で、一つずつ。
「四人が書いている。学生が四人、教官が一人、主計課が一人。書いた者が六人いる」
彼はブラントを見た。
「書いていない者が、一人いる」
ブラントの目が、動いた。
「書いていない者の言い分は、書いていないので、無い。学生の署名が記録でないなら、監察官の口頭は、なおのこと記録でない。私は、数えてから読む。数えたら、六対ゼロだ」
ザイデルの微笑みが、少しだけ、形を変えた。
「監察官から、実習評価の権限を外す。三班の評価は、稽古場の教官の紙をそのまま写す。判は、私が押す」
団長は、紙を一枚、取った。教官の紙だ。取って、懐から印を出し、押した。押した音が稽古場に響いた。一つ。
「それから、主計課」
ヴェラが一歩前に出た。
「二十三箱の目録にある、俸給の欄の名前を、俸給簿と突き合わせよ。十年ぶん。突き合わせた結果を、年内に、私に」
「規程どおりに」
「規程は知らん。年内だ」
ヴェラは頭を下げた。下げてから、言った。
「団長。十年前の俸給簿の一巻が、主計課にありません。起案者保管の規程で、主計課長が持ち出しています。四十番の棚と一緒に」
団長はザイデルを見た。
ザイデルは微笑んでいた。微笑んだまま、言った。
「聞き置きます」
「聞き置く、では困る。学務監。あるのか、無いのか」
「探させます」
団長は、それ以上、言わなかった。言わないで、評価簿を閉じた。閉じて、立ち上がった。立ち上がる前に、ブラントを見た。
「監察官。外套の裾が、風を受けている」
ブラントは自分の裾を見た。見て、何も言わなかった。言わない人が、言わないまま、座っていた。座っている場所に、もう、権限が無かった。
稽古場を出ると、一班の生徒が、列の端で待っていた。
彼は何も言わなかった。言わないで、頭を下げた。今日は下げる理由があった。
ノエルが隣に来た。
六対ゼロ、と彼は言った。数えてから読む、か。
「学長は、揃っていないものを見たいと仰いました。団長は、数えてから読むと。違う言い方で、同じことをなさいます」
ミレイユは紙を返してもらっていなかった。団長が持っていった。持っていかれた紙を、彼女は嬉しそうに見送っていた。
「レティシア様。わたしの字、団長が持っていきました。下手だって言われました」
「はい」
「——なるほど。本物だからです」
彼女は小首を傾げた。今日、初めて。
塔に戻ると、階段の下は、空のままだった。
わたくしは帳面を開いた。今日の頁。六対ゼロ。監察官、権限を外される。教官の紙、団長の判。主計、年内に突き合わせ。十年前の一巻、無し。四十番と一緒。学務監、探させます。
書き終えて、閉じた。閉じてから、東の一番奥を思った。
無い一巻はあることにされている。あることにされた一巻を、探させますと言った人が、抽斗の鍵を持っている。
聞き置く、では困る。団長は、そう言った。困る、と言う人が、初めて出た。
団長は、数えてから読む人でした。六対ゼロ。書いていない人の言い分は、書いていないので、無い。
ミレイユの字を、団長は二度読みました。一度目は時間がかかり、二度目は速い。
東の一番奥の部屋には、まだ鍵の付いた抽斗があります。




