第五十二話 「ノエルの選択」
稽古場の板は、朝、水を打って拭かれる。
拭いた後の板は、乾くまで滑る。滑るあいだに型を打つ者はいない。乾くのを待つ。待つあいだ、壁の木剣を選ぶ。ノエルは一番手前の一本を取った。長さも重さも学校のものと同じだった。同じものを、彼は迷わずに取った。
クルトは奥から来た。
騎士団の稽古着で、木剣は自分のものを持っていた。柄に布が巻いてある。巻き方が丁寧で、巻き直した跡が幾重にもあった。三年、同じ木剣を使っている人の柄だった。
三本お願いします、とクルトが言い、ああ、とノエルが答えた。
それだけだった。二人ともそれ以上言わなかった。言わないで、板の中央に立った。
稽古場の教官が、立会に立った。書く人だ。紙を持っていた。
わたくしは壁際に立った。隣にミレイユ。その隣に双子。ヨナスは、厨房の帰りに寄って、扉のところに立っていた。一班の生徒が二人、端で見ていた。ブラントはいなかった。ザイデルもいなかった。
一本目は短かった。
クルトが先に踏み込み、ノエルが受けて、返した。返した木剣がクルトの籠手に当たった。音は一つだった。教官が紙に何かを書いた。
「一本」
クルトは籠手を見た。見て、頷いた。頷いて、また構えた。
二本目は長かった。
クルトは踏み込まなかった。ノエルも踏み込まなかった。二人とも相手の足を見ていた。足が動くのを、待っていた。待っているあいだに、板が乾いていった。乾いた板は音が変わる。
変わった音を、先に聞いたのはクルトだった。彼が踏み込んだ。ノエルが受けた。受けて、返さなかった。返さずに、下がった。下がった先に、クルトの二撃目が来た。それを、ノエルは躱した。躱して、返した。
クルトの肩に、木剣が触れた。
「二本」
教官が書いた。
クルトは肩に手を当てた。当てて、それから、木剣を下ろした。下ろして、頭を下げた。
「三本目は、要りません」
ノエルが木剣を下ろした。
「まだ一本、ある」
「あります。ただ、僕はもう、分かりました」
クルトは頭を上げた。困った顔だった。困っているのに、嫌そうではなかった。
「あなたは、返せるときに返さなかった。二本目。返せた」
「返せた」
「返さないで、下がった。僕が二撃目を打つのを、待った。待って、それから取った」
彼は、木剣の柄の布を、指で押さえた。
「叔父は、僕に、この人を見てこいと言いました。見ました。返せるときに返さない人です。それが、分かりました」
わたくしは、壁際で、息を止めていた。
「ヴァルトハイム嬢」
クルトがこちらを向いた。
「僕は、あなたの言い分を先に伺うと申しました。まだ伺っていません。伺うのは、査閲の日で結構です。ただ、その前に、僕の言い分を、ここで申し上げます」
彼は頭を下げた。深さが練習したものではなかった。
「僕は、叔父の言いつけで来ました。言いつけどおりに、あなたに会い、この人を見ました。見て、僕は僕の言い分を持ちました。言い分は、これです。印は、押しません」
木剣を下ろす音だけが、板の上に残った。
「叔父には、そう申します。叔父がどう言うかは、叔父の言い分です。僕のではありません」
彼は木剣を持ち直した。持ち直して、ノエルを見た。
「三本目は、いつか。今日ではなく。あなたが騎士団に来たら」
ノエルは少し黙った。黙ってから、言った。
「推薦は、要らない」
クルトが目を上げた。
「白い欄を埋めてもらって騎士団に来るくらいなら、家の名を返してから、団長に直接願い出る。推薦無しでも、願い出る規程はある。主計課の人に、昨日、訊いた」
昨日。わたくしが屋敷にいたあいだに、彼は主計課へ行っていた。ヴェラに規程を訊いていた。訊いたことを、今、言った。
「道は、俺が作る」
クルトはしばらく彼を見ていた。見て、それから、笑った。困った笑い方ではなかった。
そのときは三本目を、と彼は言った。ああ、とノエルが答えた。
彼は頭を下げて、奥へ戻っていった。柄の布を巻いた木剣を、肩に担いで。
教官が紙を畳んだ。畳んで、わたくしのほうへ来た。
「二本。記録した。立会は私だ」
それだけ言って、彼は紙を懐に入れた。入れた紙は監察官室へ行くのだろう。行って、止まるのだろう。止まったことを、誰かが書けばいい。書く人は、今日、この稽古場に、何人もいた。
稽古場を出ると、雪が止んでいた。
ノエルは、木剣を壁に戻して、外套を着ていた。着ながら、こちらを見た。見て、何も言わなかった。言わない代わりに、歩く速さを、少し落とした。
返せるときに返さなかったのですね、と訊いた。二本目か、と彼は言った。
「返せた。返したら、一本目と同じ勝ち方になる」
彼は前を見たまま言った。
「同じ勝ち方を二度見せたら、あいつは三本目で読む。読まれたら、三本目は取れない。だから、二本目は、違う形で取った」
「……先回りの手口を、毎回変える」
「お前が言ったんだろ。秋に」
言った。証人、記録、実技、第三者の目、先回りしない。同じ構図を続けると、読まれる。読まれると、負ける。この人はそれを木剣でやった。
推薦のことを決めた理由は昨日聞いた、と言うと、もう一つある、と彼は言った。
彼は足を止めた。回廊の柱の陰だった。風下ではなかった。
「家の名を返したら、俺はただのノエルだ。ただのノエルが、白い欄を埋めてもらって騎士団に入ったら、俺は一生、誰かの欄で騎士でいることになる」
彼は、左手を、軽く握った。体の横に垂らす癖。八つの年から、変わらない。
「エルマーと同じだ。名前があって、本人が無い。俺は、それは嫌だ」
わたくしは彼を見た。
「だから、自分で願い出る。白い欄じゃなくて、俺の名で。名を返した後の、ただの名で」
道は俺が作る。
稽古場で言った言葉が、ここで、理由を持った。理由はわたくしの話ではなかった。エルマーの話だった。数えられ続けている人の話が、この人の道の理由になっていた。
「ノエル」
「なんだ」
「明後日、評価会です。三班の欄は、白いままです」
「白いままでいい。白いのは、あいつが書かなかったからだ。俺が書かなかったんじゃない」
彼はまた歩き出した。歩く速さは落としたままだった。
塔の前で、ミレイユが待っていた。
「レティシア様。書けました」
彼女は、紙を一枚、両手で持っていた。ゆっくりで、四角くて、線がところどころ震えている字が、一枚の紙を埋めていた。小さな丸が三つ。訊くつもりの場所だ。
「三つ、分からない字があって」
「教えます」
「教えてもらったら、わたしが書きます。レティシア様は、書かないでください」
「はい」
彼女は頷いた。頷いて、紙を胸に抱えた。抱えた紙は写しではなかった。
明後日、評価会。
白い欄と、記録に値せずの一行。それに向けて出せるもの。写し三通と、二十三箱の目録と受領書と、双子の紙と、稽古場の教官の紙と、読めない人の字。
わたくしは、帳面に、それを一つずつ書いた。書き終えて、数えた。五つ。五つあれば、白い欄が、白いままでいる理由が、無くなる。
クルトは、三本目を打ちませんでした。二本目で、返せるときに返さない人だと分かったからです。
ノエルが推薦を要らないと決めた理由は、二つありました。二つ目は、エルマーの話でした。
明後日は評価会です。ブックマークで、五つの紙が揃うところに間に合います。




