第六十話 「言い分を、書き留めます」
夕方、稽古場の壁に紙が貼られた。
学務監の職務停止。十五名の登録の抹消と、本人が願い出れば開かれる二つの道。学長とグレンヴィル男爵への書面。そしてエルマーの言い分が、ヴェラの字で写され、団長の名と本人の署名つきで貼られていた。
ミレイユが隣に来た。読みましょうかと訊かれて、いいえ、今日はご自分で、と答えた。秋と同じ言葉だった。彼女は目を丸くしなかった。一歩近づいて、指で追わずに最後まで読んだ。
「——なるほど」
読み終えて、彼女はこちらを向いた。
「字の読めない人を選んだって、ハイム先生が言いました」
「はい」
「わたし、もう読めます。だから、もう選ばれません」
掲示の端で、エルマーが林檎を齧っていた。学校に戻るのかとノエルが訊くと、戻る、とエルマーは言った。二年から。今度は班に入る。
「三班は五人です。規程の人数まで、一人足りません」
ミレイユが言うと、エルマーは林檎を持ったまま少しだけ笑った。笑うと、厩で見たときより若く見えた。
夜、回廊の屋根に上がった。
物見の足場には砂が撒いてあって、雪を払った跡が一人ぶんあった。ノエルが先にいた。わたくしはそこに座った。王都の灯りの外側が黒く、その先に学校がある。三日の道のりが、ここからは一つの闇に見えた。一箇月前と同じ景色なのに、今夜は闇の向こうに帰る場所があった。
「前半で、言ったな。俺のことを」
「言いました」
「あの場で決めたのか」
「いいえ。決めていたのを、あの場で言いました。決めたのは入学式の講堂です」
講堂の一番後ろで、左手を軽く握って体の横に垂らす癖を見つけた日だ。あの日、もう答えは出ていた。半年、それを言わなかっただけだ。
「じゃあ、俺の番だ。言っていいか」
「……はい。今なら」
彼は少しだけ息を吸った。
「隣にいていいか」
告白でも約束でもなかった。十年待った人が、待つのをやめずに訊いた。お前なにか隠してるだろ、と訊いた人だ。その日俺はどこにいればいい、と訊いた人だ。最初から訊く人だった。
「はい。隣に、いてください。ずっと」
「ずっと、か。長いな。まあ、待つのは慣れてる」
「もう、待たなくていいのです」
そうか、と彼は言った。しばらくして、もう一度そうかと言った。二度目のほうが長かった。長い分だけ意味を付けた。今日は付けていい日だった。
彼は左手を差し出した。甲の古傷。犬に噛まれた跡。わたくしはその手を取った。取るのに時間はかからなかった。
「秋に言った、ひとりで決めるのは最後だってやつ。あれは取り消す。決めていい。決めたら俺に言え」
「今、言いました」
「聞いた」
屋根を降りるとき、砂の撒かれていない板で足が滑りかけた。わたくしが手を出すより先に、彼の左手がそこにあった。掴んで、今度は離さなかった。離さないまま、廊下の扉まで歩いた。
翌朝、王都の門で父が待っていた。
門番が名簿を照合し、外出の札と同じように、出ていく者の名に印をつけていく。来たときと同じ五人とヨナスに、印がついた。ヨナスは出発の前に厨房へ籠を返しに行き、返した時刻を厨房の帳面に書いてから戻ってきた。エルマーの名は春の名簿に載る。載った名は、今度は本人が持って帰ってくる。
一班の馬車の後ろに、騎士団の護送の馬車が一台つけられていた。フォルカー・ハイムが乗るのだという。学校で、今度は学長と記録係の前で聴取を受ける。乗る前に、彼は門番の帳面に自分の名が書かれるのを最後まで見ていた。訊かれれば、全部述べるだろう。この人は一度も嘘をつかなかったのだから。
馬車の支度をする三班の前で、父はノエルを呼んだ。
「グレンヴィルの倅。聞いたので、謝る。娘の手紙を止めた。すまなかった」
ノエルは頭を下げた。上げてから、言い分があります、と言った。聞こう、と父は言った。
「隣にいさせてください。騎士団には、自分の名で願い出ます」
父はしばらくノエルの左手を見ていた。それから懐から紙を一枚出した。何も書いていない紙だった。
「婚約の書面だ。二人の言い分で書け。印は、読んでから押す」
それから父はわたくしのほうを向き、褪せた布の背の帳面を差し出した。母の帳面だった。
「見せた。次は、お前が見せろ」
門の外に、クルト・ザイデルが立っていた。柄に布を巻いた木剣を肩に担いでいる。叔父は職を停められた。それでも彼は騎士団に残ると言った。三本目は、とクルトが訊き、春に願い出る、とノエルが答えた。双子は馬車に乗る順番で、今までで一番強く言い合っていた。
馬車が門を出た。雪の道の踏まれていないところに、車輪の跡が二本ついた。
四度目の秋が来た。
学務監室には、書記の机が置かれている。窓の脇の、布張りの扉の内側だ。置いたのは新しい学務監で、座っているのは、この春に学校を出たわたくしだった。暖炉は二つとも燃えているが、椅子は暖炉の近くに引かない。話す人と書く人のあいだに、机が一つあればいい。
机の脚の跡は、まだ床に付いていない。磨かれた床は減らないので、跡が付くまでには何年もかかるだろう。付くまで座っていようと思っている。
父の印が押された書面は、公爵邸の書斎で、母の帳面の隣にある。エルマーは三班の六人目として卒業し、今は自分の署名で俸給を受け取っている。ヨナスは団長が出し直した推薦で、卒業を待たずに騎士団に入った。ミレイユは騎士団で地図を描いている。裏返さずに持っている。
その日は、朝から雨だった。
昼過ぎに、一年の生徒が一人、扉を叩いた。班の掲示で三度名前を読み違えられ、三度とも直されなかったのだという。言いに来るのに、半年かかったと彼は言った。
わたくしはペンを取った。
「言い分を聞かせてください」
彼は少し驚いた顔をして、それから話し始めた。わたくしは彼が言った形のまま書いた。行頭に時刻。行末にもう一度。読み返してもらうと、違うところはありません、と彼が言った。最後に名前の欄を空けて、ペンを渡した。
「お名前は、ご自分で書いてください。読み違えられないように」
彼は時間をかけて、自分の名を書いた。受理番号を訊かれたので答えた。番号のあるものは、無いとは言えない。
夕方、雨が止んだ。
机の上で母の時計を開けた。裏蓋に、母の字とわたくしの字。四年前に書き足した日付は、今日だった。
針が処刑の刻を過ぎた。止まらずに過ぎた。
日付の横に、何か書き足そうかと少し考えて、やめた。書き足さなくても、今日のことは帳面に書いてある。わたくしは裏蓋を閉じ、蓋を閉じて、時計を机の端に置いた。握らずに置けるようになったのが、いつからだったのかは覚えていない。
布張りの扉の向こうで、足音が一人ぶん止まった。騎士団の外套の、ノエル・グレンヴィルだ。家の名は返さずに済んだ。済んだ名で、彼は自分で願い出た。今は扉の外で待っている。待たなくていいと、四年言い続けているのに。
「どうぞ。入ってください」
「……ああ」
彼は扉を閉め、机の前の椅子に座った。座るのに、もう理由は要らない。
「終わったのか」
「今日の分は、終わりました」
わたくしは帳面の今日の頁に、一行だけ足した。
聞いた。書いた。隣にいる。
わたくしは、もう数えていなかった。数えてきたものは全部紙になって、隣の人が読める場所にある。
これで完結です。言い分を聞いてもらえなかった人の話を、聞いて書く机で終えました。
最後の一行まで数えてくださった方は、☆をひとつ、この作品の記録として置いていってください。




